浅草紙
寺田寅彦
十二月始めのある日、珍しくよく晴れて、そして風のちっともない午前に、私は病床から這(は)い出して縁側で日向(ひなた)ぼっこをしていた。都会では滅多に見られぬ強烈な日光がじかに顔に照りつけるのが少し痛いほどであった。そこに干してある蒲団(ふとん)からはぽかぽかと暖かい陽炎(かげろう)が立っているようであった。湿った庭の土からは、かすかに白い霧が立って、それがわずかな気紛れな風の戦(そよ)ぎにあおられて小さな渦を巻いたりしていた。子供等は皆学校へ行っているし、他の家族もどこで何をしているのか少しの音もしなかった。実に静かな穏やかな朝であった。
私は無我無心でぼんやりしていた。ただ身体中の毛穴から暖かい日光を吸い込んで、それがこのしなびた肉体の中に滲み込んで行くような心持をかすかに自覚しているだけであった。
ふと気がついて見ると私のすぐ眼の前の縁側の端に一枚の浅草紙(あさくさがみ)が落ちている。それはまだ新しい、ちっとも汚れていないのであった。私はほとんど無意識にそれを取り上げて見ているうちに、その紙の上に現われている色々の斑点が眼に付き出した。
紙の色は鈍い鼠色で、ちょうど子供等の手工に使う粘土のような色をしている。片側は滑(なめら)かであるが、裏側はずいぶんざらざらして荒筵(あらむしろ)のような縞目(しまめ)が目立って見える。しかし日光に透かして見るとこれとはまた独立な、もっと細かく規則正しい簾(すだれ)のような縞目が見える。この縞はたぶん紙を漉(す)く時に繊維を沈着させる簾の痕跡であろうが、裏側の荒い縞は何だか分らなかった。
指頭大の穴が三つばかり明いて、その周囲から喰(は)み出した繊維がその穴を塞(ふさ)ごうとして手を延ばしていた。
そんな事はどうでもよいが、私の眼についたのは、この灰色の四十平方寸ばかりの面積の上に不規則に散在しているさまざまの斑点であった。
先ず一番に気の付くのは赤や青や紫や美しい色彩を帯びた斑点である。大きいのでせいぜい二、三分(ぶ)四方、小さいのは虫眼鏡ででも見なければならないような色紙の片が漉き込まれているのである。それがただ一様な色紙ではなくて、よく見るとその上には色々の規則正しい模様や縞や点線が現われている。よくよく見ているとその中のある物は状袋のたばを束ねてある帯紙らしかった。またある物は巻煙草の朝日の包紙の一片らしかった。マッチのペーパーや広告の散らし紙や、女の子のおもちゃにするおすべ紙や、あらゆるそう云った色刷のどれかを想い出させるような片々が見出されて来た。微細な断片が想像の力で補充されて頭の中には色々な大きな色彩の模様が現われて来た。
普通の白地に黒インキで印刷した文字もあった。大概やっと一字、せいぜいで二字くらいしか読めない。それを拾って読んでみると例えば「一同」「円」などはいいが「盪」などという妙な文字も現われている。それが何かの意味の深い謎ででもあるような気がするのであった。「蛉(ぼ)かな」という新聞の俳句欄の一片らしいのが見付かった時は少しおかしくなって来てつい独りで笑った。
どうしてこんな小片が、よくこなれた繊維の中で崩れずに形を保って来たものか。この紙の製造方法を知らない私には分らない疑問であった。あるいはこれらの部分だけ油のようなものが濃く浸み込んでいたためにとろけないで残って来たのではないかと思ったりした。
紙片の外にまださまざまの物の破片がくっついていた。木綿糸の結び玉や、毛髪や動物の毛らしいものや、ボール紙のかけらや、鉛筆の削り屑、マッチ箱の破片、こんなものは容易に認められるが、中にはどうしても来歴の分らない不思議な物件の断片があった。それからある植物の枯れた外皮と思われるのがあって、その植物が何だということがどうしても思い出せなかったりした。
これらの小片は動植物界のものばかりでなく鉱物界からのものもあった。斜めに日光にすかして見ると、雲母(うんも)の小片が銀色の鱗(うろこ)のようにきらきら光っていた。
だんだん見て行くうちにこの沢山な物のかけらの歴史がかなりに面白いもののように思われて来た。何の関係もない色々の工場で製造された種々の物品がさまざまの道を通ってある家の紙屑籠で一度集合した後に、また他の家から来た屑と混合して製紙場の槽(ふね)から流れ出すまでの径路に、どれほどの複雑な世相が纏綿(てんめん)していたか、こう一枚の浅草紙になってしまった今では再びそれをたどって見るようはなかった。私はただ漠然と日常の世界に張り渡された因果の網目の限りもない複雑さを思い浮べるに過ぎなかった。
あらゆる方面から来る材料が一つの釜(かま)で混ぜられ、こなされて、それからまた新しい一つのものが生れるという過程は、人間の精神界の製作品にもそれに類似した過程のある事を聯想させない訳にはゆかなかった。
そのような聯想から私はふとエマーソンが「シェークスピア論」の冒頭に書いてある言葉を思いだした。「価値のある独創(オリジナリティ)は他人に似ないという事ではない。」「最大の天才は最も負債の多い人である。」こんな意味の言詞が思い出された。
それからまたある盲目の学者がモンテーニュの研究をするために採った綿密な調査の方法を思い出した。モンテーニュの論文をことごとく点字に写し取った中から、あらゆる思想や、警句や、特徴や、挿話を書き抜き、分類し、整理した後に、さらにこの著者が読んだだろうと思われるあらゆる書物を読んだり読んでもらったりして、その中に見出される典拠や類型を拾い出すというのである。この盲人の根気と熱心に感心すると同時に、その仕事がどことなく私が今紙面の斑点を捜してはその出所を詮索した事に似通(にかよ)っているような気もした。どんな偉大な作家の傑作でも――むしろそういう人の作ほど豊富な文献上の材料が混入しているのは当然な事であった。それを詮索するのは興味もあり有益な事でもあるが、それは作と作家の価値を否定する材料にはならなかった。要は資料がどれだけよくこなされているか、不浄なものがどれだけ洗われているかにあった。
作中の典拠を指摘する事が批評家の知識の範囲を示すために、第三者にとって色々の意味で興味のある場合もかなりにある。該博(がいはく)な批評家の評註は実際文化史思想史の一片として学問的の価値があるが、そうでない場合には批評される作家も、読者も、従って批評者も結局迷惑する場合が多いように思われる。そういう批評家のために一人の作家が色々互いに矛盾したイズムの代表者となって現われたりするのであろう。
美術上の作品についても同様な場合がしばしば起る。例えば文展(ぶんてん)や帝展でもそんな事があったような気がする。それにつけて私は、ラスキンが「剽窃(ひょうせつ)」の問題について論じてあった事を思い出して、も一度それを読んでみた。その最後の項にはこんな事が書いてあった。
「一般に剽窃(プラジアリズム)について云々する場合に忘れてならないのは、感覚と情緒を有する限りすべての人は絶えず他人から補助を受けているという事である。人々はその出会うすべての人から教えられ、その途上に落ちているあらゆる物によって富まされる。最大なる人は最もしばしば授けられた人である。そしてすべての人心の所得をその真の源まで追跡する事が出来たら、この世界がいちばん多くの御蔭を蒙っているのは、最も独創力のある人々であった事を発見するだろう。またそういう人々がその生活の日ごとに、人類から彼等が負う負債を増しながら、同時に同胞に贈るべきものを増大して行った事が分るだろう。何かの思想あるいは何かの発明の起源を捜そうとする労力は、太陽の下に新しき物なしというあっけない結論に終るに極(きま)っている。そうかと云って本当に偉大なものが全くの借り物であるという事もありようはない。それで何でも人からくれるものが善いものであれば何もおせっかいな詮議などはしないで単純にそれを貰って、直接くれたその人に御礼を云うのが、通例最も賢い人であり、いつでも最も幸福な人である。」
この文辞の間にはラスキンの癇癪(かんしゃく)から出た皮肉も交じってはいるが、ともかくもある意味ではやはり思想上の浅草紙の弁護のようにも思われる。
エマーソンとラスキンの言葉を加えて二で割って、もう一遍これを現在のある過激な思想で割るとどうなるだろう。これは割り切れないかもしれない。もし割り切れたら、その答はどうなるだろう。あらゆる思想上の偉人は結局最も意気地のない人間であったという事にでもなるだろうか。
魔術師でない限り、何もない真空からたとえ一片の浅草紙でも創造する事は出来そうに思われない。しかし紙の材料をもっと精選し、もっとよくこなし、もういっそうよく洗濯して、純白な平滑な、光沢があって堅実な紙に仕上げる事は出来るはずである。マッチのペーパーや活字の断片がそのままに眼につくうちはまだ改良の余地はある。
ラスキンをほうり出して、浅草紙をまた膝の上へ置いたまま、うとうとしていた私の耳へ午砲(ごほう)の音が響いて来た。私は飯を食うためにこのような空想を中止しなければならないのであった。(大正十(1921)年一月『東京日日新聞』)
注
- 底本:「寺田寅彦全集 第三巻」岩波書店 1997(平成9)年2月5日発行
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- 寺田寅彦…物理学者・文学者。東京生れ。高知県人。東大教授。地球物理学を専攻。夏目漱石の門下、筆名は吉村冬彦。随筆・俳句に巧みで、藪柑子と号。著「冬彦集」「藪柑子集」など。(1878~1935)