わが国に欧米から洋紙技術が伝わって、およそ130年。明治時代初期のことです。今回は、そのころの洋紙製造のレベルを主な指標で現状と比較して見ていきます。
紀元前2世紀に中国で発明された紙は、後漢時代の元興元年(西暦105年)に蔡倫が改良。さらにシルクロードを通って西進し長い年月を経て欧米に伝わり、改良され発展し、洋紙としてわが国に伝播しました。日本で洋紙製造を目的として最初に創立・開業したのは有恒社(後の1924(大正13)年王子製紙に併合)で明治5(1872)年のことです。また、初めて洋紙が生産されたのは、同じ有恒社でその2年後の明治7(1874)年6月になります。
そのころのわが国の紙は、元は洋紙と同じ中国の紙で日本で育まれてきた和紙と、欧米からの輸入紙(洋紙)でした。その中で洋紙製造の産声を上げたわけです。
和紙に馴染んだ日本、手漉きから洋紙の機械漉(抄)き。わが国で生産された洋紙は、輸入紙と比べて生産コストが高く、品質も劣るなど劣勢にあり、需要も少なく苦戦を強いられたとのことです。しかし、今から見ると規模など小さいけれども第一歩でした。新しい時代を告げる近代日本の黎明期で、まさに画期的なことでした。
その後、製紙技術の改善・開発、拡大する情報への対応、需要家の要求、製紙メーカーのニーズ等により洋紙は大きく進歩発展していきます。
紙発展のもとになったのは、ヨーロッパにおいて19世紀初めに抄紙機が発明され、従来の手漉きから機械抄きへ移行し著しく製造能力が高められたこと、19世紀後半には木材パルプ製造法が発明され、それまでの布ボロから量産可能な木材に原料の転換が行われたこと、また、印刷技術の発展により紙需要が拡大していったことなどです。わが国もこれらの影響を受け、それを取り入れてマスコミへの対応、量産化、迅速化、低廉化、品質向上などを可能にして、製紙工業が飛躍的に伸びていくことになります。
下表に現在との対比を示しますが、当時の抄紙機、日産能力、年間生産高などの規模を比較しますと雲泥の差がありますが、「温故知新」、苦労を「糧」にして、それだけ洋紙が躍進したと言うことでしょう。
分類 | 項目 | 1874(明治7)年当時 | 現在 |
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抄紙面 | 抄紙機形式 | シングルワイヤー(長綱) | シングルワイヤーとツインワイヤー |
抄紙速度 | 20m/分 |
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抄紙幅 | 1,500mm(60吋)。吋=インチ |
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日産能力 | 約1.5t |
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年間生産高 | 約16t(明治8年…約80t) |
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製紙工場数 | 1 (明治8年…4、会社数4) |
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抄紙機台数 | 1 (明治8年…4) |
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抄紙PH | 酸性紙 | 酸性紙と中性紙 | |
原料面 |
原料 |
ボロ布→木材(針葉樹のみ) | 針葉樹と広葉樹、古紙 |
古紙利用率 |
0% (原料は木綿ボロのため古紙利用は0。ただし、今の再生紙に相当) |
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広葉樹使用比率 |
0% |
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外材比率 |
0% |
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その他 | 洋紙輸入比率 |
1870(明治3)年…100% 1874(明治7)年… 95% 1900(明治33)年…38% |
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紙・板紙消費量 (kg/年・人) |
1930(昭和5)年・…12.8kg 1940(昭和15)年…19.2kg |
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手漉き和紙生産戸数 |
1901(明治34)年…68,562戸 (ピークでこれ以降漸減) 1921(大正10)年…40,196戸 |
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紙価格 (円/kg) |
明治14年…0.31 (製造コストが高く高価) 明治20年…0.15 |
上質紙価格(日経市況平均)
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人口(参考) | 1874(明治7)年…3,515万人 |
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若干、説明します。
当時の洋紙原料は木綿ボロでしたが、その後、1889(明治22)年に日本で初めて木材からのパルプ製造に成功し、洋紙発展への礎となりました。このころの製紙用木材は国産でしたが、材質が一般に軽軟でパルプ化しやすい軟材(ソフトウッド)と呼ばれる良質な針葉樹のみが使用されました。さらに紙の生産量が増えるにつれ、原料不足が懸念されましたが、技術開発によりそれまで一般に重硬でパルプ化が困難であった硬材(ハードウッド)とも呼ばれる広葉樹が活用できるようになりました。そして現在ではパルプ材の約65%以上が広葉樹となり、なくてはならない貴重な資源になっています。さらに、国産だけでは賄いきれず原料の安定的確保を目的として輸入材を使用。輸入チップ(木片)や外国での植林材への依存度が高まっています。また、古紙も原料として再利用するようになり、それぞれが次第に増加してきています。
ところで前述のように、明治5年から8年にかけて初めて創立・開業した製紙業は、有恒社(東京日本橋)、三田製紙所(東京)、蓬莱社(大阪)、抄紙会社(東京府下王子村、後の王子製紙)、パピール・ファブリック(京都)および神戸製紙所(神戸)と官営の大蔵省紙幣寮抄紙局(東京)の7つですが、その生産地はいずれも都会地でした。
なお、原料の種類によって紙生産の立地が変わってきますが、ここでその推移を見ていきます。
明治当初の洋紙原料は木綿ボロでしたので、上記のように洋紙生産地は人が集まり発生量が多く、集荷しやすい都会地か、そこに近いところでした。
そして国産の木材から製紙用のパルプを造るようになり、製紙工場は木の多い山の近くに建設されるようになりました。さらに原料(木材、チップ(木片))を外国に求め輸入品を使用。増加してきたため、製紙メーカーはチップ専用船を保有するようになり、大型船が寄港できる港近くに、工場を内陸立地から臨海立地に変えてきました。また、今日のようにリサイクルの高まりから古紙の配合が紙全体の平均で58%以上と高まり、しかも古紙配合がほぼ90%以上ある板紙のような生産工場は、明治初期のころのように集荷しやすい都会地か、そこに近いところが好適となってきました。このように原料条件の変化で大きく動いてきています。
さらに洋紙は進展していきます。生産量・消費量の拡大。それに伴う、例えば、抄紙機の進歩すなわち、スピードアップ、広幅化、効率化、省力化や品質改善、原料の変化、用紙の多様化(品種・銘柄の増加、酸性紙から中性紙の導入、再生紙の躍進・拡大など)、環境保護、森林保護などのニーズに対応し、飛躍していきます。
一方、「和紙」は明治の初めに到来した「洋紙」と出会うこととなりますが、次第に洋紙に押され衰退していきます。そして洋紙の時代となって行きます。
和紙についてもう少し触れます。全般的に急増する紙の需要に応じて、手漉き和紙の生産は拡大し、1901(明治34)年ころには約7万戸、製紙に従事する者約20万人という最盛期を迎えましたが、それ以後は洋紙の生産が本格化するにつれ、大幅に減少していきました。(注)2000年における紙・パルプ・紙製品に携わる従業員数は約24万人。最盛期のころの和紙の就業者数とあまり変わりません。
明治30年代の末になると、国内の紙生産全体に占める和紙の比率は60%となり、その10年間に約20%も低下。そして1912(明治45年=大正元年)年ごろには50%となり、和紙の生産と消費が洋紙と肩をならべ、それ以降は和紙は洋紙に追い越されます。
因みに、全国の手漉き和紙業者の数を統計から調べますと、1901(明治34)年の68,562戸をピークにその後、漸減しながら1962(昭和37)年は3,748戸となり、およそ60年間で約95%の業者が廃業となっています。さらに1973(昭和48)年は877戸、1982(昭和57)年586戸、1992(平成4)年は446戸と減少していますが、その廃業数は減る傾向にあります。近年、後継者対策や活性化、魅力ある和紙造りなどの活発な生き残り策が行われており、その効果が上がりつつあります。
洋紙の次には何が来るのか。と言うよりも、紙の次には何が来るのか。
今後ともさらに発展し、生き延びていくためには変わらない、前向きな対応が必須であると考えますが、紙がこれからも生活に密着し、その原料対応と古紙回収・利用などで地球環境にやさしい限り、かつ技術開発と進化を続ける限り、将来ともその存続と進展は大いに可能性があります。
(2003年6月1日付け)
参考・引用文献
- 紙・パルプ産業の現状(2003年特集号)(日本製紙連合会発行)
- 紙・板紙統計年報 平成14年版(日本製紙連合会発行)
- 紙の文化と産業「製紙業の100年 」 (王子製紙株式会社・十条製紙株式会社・本州製紙株式会社発行)
- 世界大百科事典(第2版 CD-ROM版)…日立デジタル平凡社発行
- 和紙文化辞典 久米康生著(1995年10月 わがみ堂発行)