コラム(20-1) 紙、特に洋紙の進展(1)印刷術の変遷 1

中国で紙が発明されてから約2100年。後漢の蔡倫(さいりん)が、改良して今に通じる紙漉き法を確立し、その紙を和帝に献上したのが西暦105年、それからでもおよそ1900年。現在まで、製紙は大きく進歩発展してきました。

紙2000年の歴史の中で、今日のように紙(洋紙)発展のもとになったのは、印刷機、抄紙機および木材パルプ製造法の三つの発明と進展があります。場所はヨーロッパ。まず、①15世紀中ころの印刷機の発明と発展、②18世紀末の抄紙機の発明と、19世紀に入ってその実用化により、従来の手漉き法に比べ著しく製造能力が高められたこと、および③19世紀後半には木材パルプ製造法が発明され、それまでの布ボロから量産可能な木材に原料の転換が行われました。これらにより紙需要が拡大して製紙工業が飛躍的に伸び全世界へ羽ばたくことになります。

 

ここでは紙需要が拡大し、洋紙の進歩・発展のもととなった印刷機の発明と進展、製紙の機械設備である抄紙機の発明(手漉きから機械抄き)、および製紙原料の変遷転換(布ボロから木材へ)に焦点を当ててまとめますが、今回は、印刷術の進展について述べます。

 

印刷術の進展

表現し、何かに記録し、文字や絵など何らかの形で残し、伝えたい。これは人間の持てる才能であり、本能です。人間の意思伝達・記録のための書写材料として今は紙が一般的ですが、紙以前には最初は洞窟の壁面や井などでしたが、その後木の葉、樹皮、動物の皮・骨、粘土板、石、貝殻、青銅、竹、木、帛(はく、絹布)などが使用されました。

この中で名高いものがパピルスや、羊皮紙(パーチメント)です。ただ、これらは運搬性、伝達性、保管性、筆記性、重量、量産、価格等に問題があり、もっと便利で安いものへと淘汰されていきます。紙の誕生です。

紙の発祥のは中国であり、およそ2100年前の前漢時代(紀元前2世紀)に大麻の繊維を使った紙が始まりで、その後、紀元2世紀の初め(西暦105年)の中国・後漢時代に、蔡倫という人が技術の改良を行い、今日の製紙技術の基礎を確立しました。

中国で発明された製紙の技術は、8世紀に今日でいう、いわゆる「シルクロード(絹の道)」を通って西進し、中央アジアを経て10~16世紀にわたってヨーロッパ諸国に伝播していきます。それまでの西方諸国では、パピルスや羊皮紙が使われていましたが、パピルスは、古代エジプトで紀元前3000年頃から使われており、次第にギリシアやローマでも盛んに使用されました。羊皮紙も古代よりパピルスとならんで使われた書写材料で、羊の皮を薄く剥いだものですが、山羊、鹿、豚、牛などの皮も使われました。これら古代からの書写材料は、東方からの紙の伝播によって次第に使われなくなっていきます。

一方、印刷は文字や絵などを複製して、多くの人に伝えたい、残したいという要求から生まれ、普及し、発達していきましたが、最初の印刷術は中国に始まったとされております。

印刷術は中国の四大発明(紙・火薬・羅針盤・印刷術)の1つで、最初に登場したのが木版印刷で、随代の6世紀末ごろに始まったとされており、唐代の7世紀半ばころより経典や暦本が木版印刷印刷されました。当時の印刷は、木版に文字を彫りそれに煤(すす)を膠(にかわ)で固めて作った(板)を塗り、上から紙をあて馬連(ばれん)のようなもので文字を刷りとる方法で行われました。

中国の印刷術は、奈良時代に日本に渡来。「百万塔陀羅尼」は、わが国最古の印刷物といわれますが、764(平宝字8)年から6年がかりの770年に完成したものです。称徳皇の勅願によって国家安泰等を祈念して作られ、陀羅尼経典の書写を印刷し、木製の小塔百万基に収めて奈良などの10大寺に納められましたが、現存するものは法隆寺に分置されたもののみです。紙は麻紙(まし)と穀紙(楮紙)で、印刷版は木版、銅版またはその両方という説がありますが、今は銅版刷り説が有力となっています。

なお、百万塔陀羅尼は、年代のはっきりした現存印刷物として世界最古のものとされてきましたが、1966年、韓国の慶州にある仏国寺釈迦塔の中から「無垢浄光大陀羅尼経」が発見されました。釈迦塔の創建が751年のことなので、こちらのほうがより古いと言われています。

 

中国の印刷術…ヨーロッパへ伝播

そしてグーテンベルグの偉大な発明、金属活版印刷

また中国の印刷術は、紙の伝播のように中央アジアを経て、さらに西進してヨーロッパへ伝わっていきます。ただ製紙術の場合は、唐代にイスラム諸国に伝わり、やがてヨーロッパに広まっていくというように伝播の経路や時期が明白ですが、印刷術の場合はきわめてあいまいのようです。そのひとつにヨーロッパに印刷術を紹介したのはあの名高いマルコ・ポーロであったという説があります。イタリアのベネチアに生まれたマルコ・ポーロは中国・元の世祖フビライに仕えており、1292年に帰国したときに印刷された紙幣を持って帰り、これが契機となってイタリアで木版印刷が行われるようになったというものです。しかし彼が書き残した有名な「東方見聞録」には印刷術に関する記載はなく、この説は証拠に乏しく疑問視されております。

いずれにしてもヨーロッパへ伝わった中国の印刷術は、そこで改良・実用化され、イタリアを中心にしたルネサンス期(14世紀から15世紀末)における3大発明に数えられる火薬・羅針盤とともに活版印刷(洋式活版)の発明に結びついていきます。そしてこれらの3大発明は、以後の西欧社会に変革をもたらします。

 

活字印刷の最初の発明者

ヨーロッパに活字印刷(活版印刷)が始まったのは15世紀半ばです。その最初の考案者が誰であったかについては異説がありますが、一般的にはJ.グーテンベルク(Johannes Gutenberg、1397~1468。なお、生年には1394‐1402年の幅で諸説があります)が活字印刷の最初の発明者とされています。彼は1397年ころドイツのマインツに生まれました。後にこのライン川とマイン川の合流点に近い中世以来の文化都市・商業都市マインツは、ヨーロッパにおける印刷術の発祥となります。

すなわち、グーテンベルグが1450年頃、木版に替わる金属凸版、それも彫刻でなく、まず鋳型を作り、その鋳型に鉛合金(鉛、アンチモン、スズの3元合金)を流しこんで鋳造活字を初めて作りました。また、ブドウ絞り機にヒントを得てプレス式活版印刷機を考案しました。この印刷機は、ブドウを絞るために用いた木製の圧搾器を利用したもので、機械というにはあまりに簡単な装置ですが、現在の印刷機の原点となっています。

この印刷機には、圧力を掛ける加圧板があり、それと向き合う位置にある台の上に版(活版)をのせ、その版にインキを付け、さらにその上に紙をのせたのち、レバーを引いてねじ棒を回転させて加圧板を下降させ、圧を加えて紙に版上のインキを転写します。すなわち、印刷し、印刷物が出来上がります。

なお、この発明のように、印刷機において加圧機構が最も重要な位置付けにあることから、プレス press(圧搾機)という言葉は、新聞・新聞社・報道機関・印刷印刷所や印刷機を表すようになっています。

また、このいわゆるプレス作業は、頑丈な板で短時間に圧力を加える機構でしたので、印刷時間を短くしたばかりでなく、紙の裏面を損なわないことから両面刷りができるようになりました。それまでの木版刷りにおいては版上に置いた紙の裏面を擦るため、その面が損なわれ、両面を印刷することに無理がありましたので、これは大きな改善で、特記すべき大きな進歩でした。

グーテンベルグはさらに、当時使用されていた油性インキ(油煙と亜麻仁油を混ぜて作ったもの)に工夫をこらし、1455年には最初の活字印刷本である有名な「四十二行聖書」(一般に「グーテンベルク聖書」といわれる)を出版するなど活版印刷の方法を確立しました。ヨーロッパでは、書物の中心は聖書でしたが、これらの聖書は教会の僧侶たちによって、一字一字丁寧に書き写されていましたので、ここに手書の聖書に代わって、印刷による聖書が誕生したわけです。まさに画期的な出来事です。また、書写材料として主に羊皮紙などが使われていましたが、希少で高価であることなどから、品質が良く使いやすい、中国で発明された「紙」の西進・伝播によって次第に使われなくなっていきます。

なお、この「四十二行聖書」は、30部を羊皮紙(パーチメント)に、180部を紙に印刷されておりますが、1ページが2段に分かれ、1段が42行であるところから、その名の由来があります。

グーテンベルクによって発明された金属活字印刷術(活版印刷)は、ドイツについでイタリアで盛んとなり、やがてヨーロッパの各に続々と印刷工房が生まれ、ヨーロッパ全土に広まっていきます。この新技術で機械的に製作された印刷本は、手写本と比較してはるかに安価に製作されました。そしてこの印刷術の流行はヨーロッパにおける活字文化の開幕を告げるものとなり、ヨーロッパの知識水準を高め、ルネッサンスで大きな役割を果たし、宗教改革や科学革命を促し、近世への開幕に大きく貢献しました。

このグーテンベルクによる印刷術の発明で、多くの人達に情報を知らせることができるようになり、その媒体(メディア media…メディウム medium の複数形)である「紙」の需要が高まってきました。

 

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更新日時:(吉田印刷所)

公開日時:(吉田印刷所)