前々回に紙需要拡大のもととなった印刷機の発明と進展について述べました。今回は、その続きとして洋紙の進歩・発展のもととなった手漉き法から機械抄き法(抄紙機)、および製紙原料である木綿や亜麻などの布ボロから木材繊維活用によるパルプ製造・機械化の発明と進展について説明します。
手漉きから機械抄きへ…抄紙機(しょうしき)の発明と進展
紙は自然にあったものではなく、必要のために人間が作り上げたものです。そして長い歴史の中で、より良いものへと、その作り方や使い方が改良され原料、性質、機能などが変わってきました。
中国で紙は発明されましたが、その紙を作るのに、手で行っておりました。そのため紙の製法が中国から伝わったヨーロッパ各地でも当初、紙漉きは手漉きでした。
15世紀半ばには、ドイツのグーテンベルクによって、金属活字鋳造が発明され、さらにブドウ搾り機にヒントを得たプレス式活版印刷機が考案され、広まると、紙が大量に必要になりましたが、その紙はやはり手漉きでした。手漉きは18世紀まで続きましたが、18世紀末の抄紙機の発明と、19世紀初めにその実用化により機械抄きが行われるようになりました。
すなわち、1798年フランスのルイ・ロベールはそれまでの手漉きに代わり、継目のない(エンドレス)布製の網を使って連続的に紙を抄く機械(連続式抄紙機)を発明し特許を取得しました。これは今日、主流になっている長網抄紙機の原型であり、彼は「近代製紙法の父」と言われています。さらにイギリスのドンキンが改良し、ついでイギリスの資産家フォードリニア(Fourdrinier)兄弟がその特許を買って、技師ドンキンの技術的援助で1804年に実用化しました。さらに改良を重ねて、1808年に現在の形に近い長網式抄紙機を完成させ、連続運転に成功しました。これは水平に置いたエンドレスのワイヤにパルプ懸濁液を流し、ワイヤが移動する間に脱水して紙シートを連続的に作るのもので、これを長網抄紙機といいます。そのため兄弟の業績を称えて、今日でも長網抄紙機はフォードリニア(Fourdrinier)マシンとも呼ばれています。
さらに形状の異なる丸網抄紙機という、ワイヤを円筒形の枠に張りパルプ懸濁液の中で回転させて円筒内に水を吸引することによってワイヤ上に紙層を形成する抄紙機を、1809年にイギリスのディキンソンが特許をとり、その2、3年前から実用化しています。なお、この丸網抄紙機は、長網抄紙機が薄紙・中厚紙を抄くのに適しているのに対し主に厚紙・板紙を抄くのに使われています。
これらの抄紙機の発明によりそれまでの手漉きに代わり、機械抄きが普及するようになり、一度にたくさんの紙が生産されるようになりました。
そして、このヨーロッパの抄紙機は1827年にアメリカへ初輸入され、日本へは1870年代になって輸入されることになります。
ところで抄紙機の発明によって、紙の大量生産が始まると製紙原料の不足が表面化し、問題化しました。次に原料対応について述べます。
製紙原料の変遷…ぼろ布から木材へ
中国で発明された紙の製法は世界各地に広まりました。ここでもう一度おさらいをしておきます。
紙は中国の四大発明(火薬・羅針盤・印刷術)の一つであり、およそ2100年前の前漢時代(紀元前2世紀)に大麻の繊維を使った紙が発見されており、紙の起源とされています。その後、紀元2世紀の初め(西暦105年)の中国・後漢時代に、蔡倫(さいりん)が製紙技術の改良を行い、今日の基礎を確立しました。蔡倫は、原料として樹皮、麻、ぼろ布などを用い、これらを石臼で砕き、それに陶土や滑石粉などを混ぜて水の中に入れ簀の上で漉く方法ですが、このやり方は原理的には今日の紙漉き法とほとんど変わりがありません。
そして、650年余りも頑固に守りつづけていた製法、ノウハウを持つ中国で発明された紙は、西暦751年の「タラスの戦い」を契機にシルクロード(絹の道)を通って西進し、西域からヨーロッパ全土へと伝わっていきますが、それまで書写材料として使われていたパピルスや羊皮紙などが、この紙によって次第に使われなくなっていきます。中国の製紙術はヨーロッパへは1000年以上もかかって伝わり、さらにヨーロッパ全土に広まるのに400年以上もかかります。そしてヨーロッパに伝わった中国の紙は17世紀(1690年)にはアメリカに、19世紀初頭(1803年)にはカナダと伝播して行きます。そしてこの東方の紙は、伝播の過程で改良され「洋紙(西洋紙)」として大きく発展していきます。
一方、中国の紙漉きの技術が、わが国に伝えられたのは、アラビア、ヨーロッパより早く、朝鮮・高句麗から僧侶曇徴(どんちょう)と法定(ほうじょう)が来朝した推古天皇18年(西暦610年)のことであると日本書紀に記録されています。そのころは、すでに戸籍など国家機構の整備が始まっていたので、紙の必要性にも迫られていたと思われます。
この紙はわが国でさらに改良され、日本独自の紙(後で言う「和紙」)として開化していくことになります。
もとは同じ中国の紙ですが、「紙」を作る原料面でヨーロッパの「洋紙(西洋紙)」と日本の「和紙」とは違っています。日本独特の「和紙」では楮、三椏、雁皮などの靱皮繊維を使いました。
ヨーロッパでは、最初のころは中国から伝わった樹皮、麻くずなどの植物繊維が主体で、後に綿ぼろ、わら、エスパルトなども使われました。印刷物が増加し、紙の需要が増え、しかも抄紙機の発明によって紙の大量生産が始まると製紙原料の麻くず、綿ぼろなどが不足し、この「ぼろ」をどのようにして集めるかが、大きな課題となってきました。そこで「ぼろ」にかわる原料が求められるようになり、しかも大量に、かつ安価に入手できる原料が求められるようになり、新たな材料で紙を作る方法が研究されるようになりました。
ところでスズメバチは枯れ木の皮などをかじって唾と混ぜ、ねばねばにしたものを、引き伸ばしてボール状の直径30~100cmくらいの巣を作ります。巣の表面にある縞模様は、材料である木の色の違いによって生じるもので、ちょうど紙を張り合わせたように見えます。このスズメバチの巣にまつわるエピソードです。
フランスの博物学者レオミュールは、スズメバチを観察していて、木材を砕いた繊維を集めてスズメバチが巣をつくるのを見て、その巣が紙によく似ていることを発見しました。そして論文の中で、「蜂は、自分たちが住んでいる森の木から繊維を取りだし、非常に良い紙が作れることを、われわれに教えてくれる」、また「ボロや麻でなく、木材を原料として紙が作れるのではないか」と提案しました。1719年のことです。木材から紙ができることを見出したのです。
今では紙は木材を原料にして、あたりまえに作られていますが、当時は信じがたいことでしたので、レオミュールの提案に対して世間は冷やかでした。そのため、ようやく木材からパルプが作れるようになったのは、レオミュールの発見以来、120年以上も経つことになります。
すなわち1840年にドイツのケラーという技師によって、木材を機械的に細かくすり潰してパルプを作る方法を発明しました。そしてさらに1844年、ケラーが木材を繊維にする機械(砕木機、グラインダー)を開発しました。これが今で言う機械パルプに分類されている「砕木パルプ」の創製です。これが木材が実際に製紙原料に使われるようになった最初となります。
なお、「砕く」という英語から砕木パルプをグランドウッドパルプ(Grandwood Pulp、略してGP)といいますが、次いで62年に化学パルプに類する亜硫酸パルプ(サルファイトパルプ、SP)、84年にはクラフトパルプ(硫酸パルプ塩、KP)の製法に対し特許が成立し、木材を製紙原料とする紙の大量生産体制が出来上がりました。その当時、安くて豊富な木材は、紙の原料として大変便利となり、木綿や亜麻などの布ボロから木材繊維活用によるパルプ製造・機械化の発明などにより、紙の量産対応が可能となったわけです。
このようにヨーロッパやアメリカでは紙を作るのに麻や木綿のぼろ布を原料に使っていましたが、ぼろきれが不足し、その打開策として木材パルプを製紙原料にするようになり、伝播した中国紙が改良され、西欧独自の本賂的な洋紙の登場となります。
それでは日本ではどうでしたでしょうか。
付記
後述していますが、紙漉き法の原理は、①皮を剥く(皮剥ぎ)、②煮る(蒸解)、③叩く(叩解)、④抄く(抄紙)、⑤乾かす(乾燥)ですが、この中で、③叩く(叩解)操作は製紙上、紙の品質が決定づけられ、紙は叩解(こうかい、beating)で作られると言われるくらいに重要な工程です。叩解は原料パルプを粥(かゆ)状にときほぐし、束になった繊維を、一本一本の繊維にバラバラに離解し、また、短くして、からみ合うようにします。
わが国の手漉き和紙製造のように、今でも充分水洗いした白皮を石または木の台の上で、叩き棒で丁寧に手打ちし、叩き、原料調製しています。
中国の紙もこのように昔はすべて手打ちでしたが、今日ではビーター(打解機、叩解機)などの機械処理が増えてきております。その最初の歴史は、17世紀半ばにオランダで発明されたホランダー hollander(フホレンダー叩解機とも言われ、発明者は不明。国名にちなんでこのように命名)です。当時は画期的な製品で、その原理は現在まで、形式は変わっても受け継がれており、叩解機(ビーターbeater)として以後200年ばかり使われました。なお、現在ではパルプの離解、叩解、精製などを行うリファイナー refiner が主流となり一般的に使われています。