コラム(34-1) 洋紙発祥の地 1

今回は洋紙発祥のについて触れます。末尾の参考・引用文献などからまとめました。

 


 

わが国の洋紙発祥のは、明治時代初め日本最初の洋紙会社である「抄紙会社」の創業である東京府豊島郡王子村(現、東京都北区王子)です。王子製紙株式会社の社名の発祥のでもあります。

そしてその王子工場の創立80年にあたる1953(昭和28)年に、「洋紙発祥之」記念碑が工場正門跡(東京都北区王子1-4-1)に建立されました。(「洋紙発祥之」記念碑 右写真参照…中村 資さんのホームページ江戸東京旧聞巡り江戸旧聞今昔王子飛鳥山界隈から引用させていただきました)

なお、同じ工場跡内には、「洋紙発祥之」記念碑が建つ3年前の1950(昭和25)年に「財団法人 製紙記念館」(現、財団法人 紙の博物館)が設立されておりましたが、後に工場跡の再開発にともない、この「洋紙発祥之」記念碑は、「紙の博物館」の前庭に移設されました。

しかし、こんどは「紙の博物館」が高速道路建設のために、この「洋紙発祥の」を離れることになり、近くの飛鳥山公園内に新館を建設。1998(平成10)年3月に、「飛鳥山3つの博物館」として、「紙の博物館」は「渋沢資料館」、「北区飛鳥山博物館」とともに新たにオープンし、現在に至っています。

そのため「洋紙発祥之」記念碑のみが、王子工場ゆかりの跡(JR王子駅脇サンスクエア敷内)に存立、安置されています。

この記念碑は大理石でつくられており、その大きさは高さ1.73m、幅1.03mで、碑文は巻取紙をあらわしたブロンズに陽刻して、碑にはめこんであります。

なお、戦後の旧王子製紙解体後、王子工場跡は十条製紙の所有となりましたので、「洋紙発祥之」記念碑は十条製紙株式会社によって建てられました。

その碑文には、

ハ明治5年11月渋沢栄一ノ発議ニ由リ創立シタル王子製紙株式会社ガ英国ヨリ機械ヲ輸入シ洋紙業ヲ起セシナリ 当時此会社ハ資本金15万円ヲ以テ発足シ同9年畏クモ明治皇英照皇太后昭憲皇太后ノ臨幸ヲ仰ギ奉リ東京新名所トシテ一般ノ縦覧スル所トナレリ 同社ハ昭和24年8月苫小牧製紙十条製紙本州製紙ノ3社ニ分割スルニ至ルマデ名実共ニ日本製紙界ノ中心タリキ 茲ニ80年ノ歴史ヲ記念シテ永ク洋紙業発展ノ一里塚トセン

昭和28年10月

藤原銀次郎 撰文

高島菊次郎 篆額

近藤高美 書

そして碑陰(石碑の面)には、

主要記事

明治5年11月 三井組小野組島田組等ニヨリ資本金拾5万円ヲ以テ創立

明治6年2月 紙幣寮ノ認可ヲ得抄紙会社ト命名

明治9年5月 製紙会社ト改称

明治26年11月 王子製紙株式会社ト改称

昭和8年5月 王子富士樺太工業三社合弁

昭和24年8月 王子製紙分割苫小牧十条本州三社発足

歴代首脳者

(省略)

昭和28年10月建

十条製紙株式会社社長 西 濟

と刻まれており、ここにわが国の洋紙業発展のもととなった足跡が残されています。

 

わが国における洋紙の始まり

もう少しわが国における洋紙の始まりについて説明します。

わが国における洋紙の黎明期にかかわり、忘れてはならない人物は渋沢栄一[1840~1931(保11~昭和6)]です。前出の「洋紙発祥之記念碑」にも刻まれているように、渋沢栄一は「日本近代産業の父」と言われ、王子製紙の創業者で、その前身である「抄紙会社」を設立した起業家、その人です。

 

渋沢栄一は武蔵国榛沢郡血洗島村(現、埼玉県深谷市)の富農の家に生まれ、1864(元治1)年一橋家に仕え、67(慶応3)年徳川慶喜の弟昭武に随行してフランスの万国博使節団に加わり、ヨーロッパ各を訪問して近代的社会経済の諸制度や産業施設を見聞しました。このとき得た知識が、のち政府高官としてまた近代産業の指導者としての教養の基盤となりました。明治維新後、69(明治2)年明治政府に招聘されて大蔵省に出仕、大蔵省租税司(現在の課長クラス)となり、税制の改正その他江戸時代以来の行政の改革にあたり、71年大蔵権大丞(局長、事実上の次官)となり、紙幣寮紙幣頭も兼任しましたが、陸海軍費節約による均衡財政の主張が認められず井上馨とともに辞任しました。

1873年大蔵省を退官した渋沢栄一は、同年、第一国立銀行(のちの第一銀行)を創設し総監役に就任。ついで75年から1916年まで頭取を務めながら、日本資本主義の指導者かつ財界の世話役として、多数の近代日本を代表する企業の設立・育成に関与しました。渋沢栄一が発起人、株主、重役などとして関係をもった企業は製紙・紡績・保険・運輸・鉄道など多種で王子製紙、第一国立銀行=現みずほ銀行、東京海上火災保険、東京ガス、清水建設、大阪紡績など、総計約500社にのぼるといわれております。

 

以上、渋沢栄一の経歴に触れましたが、いよいよ「抄紙会社」設立です。

 

渋沢栄一が大蔵省を退官する前の紙幣寮紙幣頭兼任のときのことです。1871(明治4)年ころに「抄紙会社」創立の議が起こりましたが、その経緯は次の通りです。

渡欧によって見聞した渋沢栄一は、「西洋各国が万事に大いなる発展を遂げているのは、文運の発達にある。その文運の発達には、先ず印刷事業を盛んにして書物なり新聞なりを便利に多く出すことが必要である。その書物なり新聞なりのもとは紙である」と痛感しました。

そして「製紙および印刷事業は文明の源泉である。しかし、紙も日本紙では適わず、印刷のできる西洋紙が必要である。文明の近代化のためには西洋紙と、西洋流の印刷に拠るのが一番の近道である。そのために何より先に西洋紙の製造をやらなければなるまい」と説き、西洋式(機械抄き)の製紙事業を発議しました。

 

その後、1872(明治5)年に渋沢栄一の勧誘で三井組、小野組、島田組等により、「抄紙会社」設立の出願があり、同年11月に日本最初の洋紙会社が創立されます。

翌1873(明治6)年2月には、大蔵省紙幣寮の認可を得て「抄紙会社」と命名。その最初の工場である王子工場の建設はイギリス人技師の指導のもとに、1874(明治7)年9月から始まり翌年の6月には完成、運転を開始しました[設置抄紙機は、イギリス製78インチ(1,981mm)長網抄紙機(全長20m、1台)で、設計最高抄速30m/分]。

しかし、操業当初はうまくいかず、苦労があったようで、紙ができるまでに3か月を要しましたが、やがて白紙と新聞用紙を生産し、その年の1875(明治8)年12月16日に盛大な開業式が執り行われました。ここに洋紙産業の幕開けとなったわけです。

 

なお、インターネットで「きょうは何の日?」式に「紙の日」(紙の記念日)を検索しますと、12月16日が「紙の日」となっています。これは上記のように、「抄紙会社王子工場」が1875(明治8)年12月16日に盛大な開業式が執り行われ、洋紙産業の幕開けとなった日です。

然もありなんと思いますが、実はこの「紙の日」という日は、製紙業界として公認されていなく、「紙の日」は公には制定されておりません(日本製紙連合会に確認済み)。

 

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更新日時:(吉田印刷所)

公開日時:(吉田印刷所)