コラム(35-2) 板紙発祥の地 2

その後の東京板紙会社と千住工場

新しく建設された東京板紙会社第二工場の成績も最初はよくありませんでした。そのため佐久間貞一は1890(明治23)年3月に責任をとって社長を辞任します。

翌1891(明治24)年6月、東京板紙会社は第一工場を売却し、千住工場を第一工場と改称します。その後、生産も順調になり、明治26、7年ごろには板紙の生産量が大巾増加し、富士製紙を押さえ、業界トップに伸し上がり、会社の経営も立ち直っていきます。そのころに佐久間貞一は、再び東京板紙会社の社長に復帰しますが、持病の呼吸器病がこうじて、1898(明治31)年11月6日に51歳で、数々の業績を残しその生涯を終えました。

 

さて、残された東京板紙会社南千住工場については、生産も順調で経営も安定していきます。しかし、その後の合併や太平洋戦争などの荒波を受け、社名・工場名の変更と工場閉鎖を余儀なくされていきます。すなわち、

1920(大正9)年2月に突然、富士製紙会社に買収・合併され、富士製紙工場と改名されます。そして1933(昭和8)年5月には王子製紙株式会社、富士製紙会社、樺太工業株式会社の3社が合併し、資本金1億5000万円、日本の洋紙生産量の80%以上を支配する王子製紙株式会社が新たに誕生します。この合併により、日本の紙・パルプ工業は王子製紙の独占体制が確立し、安定期を迎えるようになりますが、この板紙工場は王子製紙千住工場と再び改称することになります。

 

さらに太平洋戦争突入により、1943(昭和18)年9月海軍の軍需工場として王子兵器株式会社となりますが、戦後には再び製紙業のボール紙の製造に復活し、千住製紙株式会社と改称。板紙業界の中心的な存在となります。

その後、千住製紙株式会社は、1983(昭和58)年十条板紙株式会社(現、日本大昭和板紙株式会社)に合併されて、翌年に移転し、南千住との長い歴史も終わり、工場は閉鎖されることになります。

 

このおよそ1世紀の歴史を持ち、伝統ある板紙工場は解体され、その跡には、今はアクロシティと名付けられるモダンで巨大な高層マンションが建立されています。工場の勇姿はなくなりましたが、「板紙発祥の」記念碑がその足跡を残しています。そして佐久間貞一の名声も、後世までにとここ発祥のに刻まれています。

 


 

今日の王子製紙株式会社のの前身、「抄紙会社」の創業者であり、わが国の紙(洋紙)の先覚者である、渋沢栄一の言葉として、「製紙および印刷事業は文明の源泉である。文明の近代化のためには西洋紙と、西洋流の印刷に拠るのが一番の近道である」を前回紹介しましたが、やはり、わが国の文運発展のために西洋流の印刷業を興したのが、佐久間貞一です。それが秀英舎であり、その後身が世界にも誇れる今の大日本印刷株式会社です。

しかも、佐久間貞一は紙の世界でも苦心して会社、東京板紙会社を興し、わが国板紙発祥となり、今日の板紙業発展につながる多くの業績を残しました。

 

高い「志」を見事に実現された偉大な先覚者に、深く感服するとともに、心より感謝!

(2005年8月1日)

 

参考・引用文献

  • 「紙跡探訪 板紙発祥の記念碑」「百万塔」105号より抜粋)…(財)紙の博物館友の会「かみはくニュースレター No.2」(2003年11月1日発行)
  • 財団法人 紙の博物館「百万塔」(第105号) 植松達也著「板紙発祥のの現況」(平成12年2月29日発行)
  • ホームページ彫刻天国荒川区画像
  • 「紙の文化と産業 製紙業の100年」…王子製紙株式会社・十条製紙株式会社・本州製紙株式会社発行(凸
  • 印刷株式会社 昭和48年6月1日発行)
  • 成田潔英編「最新紙業提要」(新版)…昭和33(1958)年12月、丸善株式会社発行
  • 財団法人 紙の博物館「百万塔」(第108号) 高橋弘治著「板紙戦後五十年の歩み」(平成13年2月28日発行)
  • ホームページ東京都製紙原料協同組合 ホームの最新情報(広報 平成17年 新年号)「ダンボール発祥の地 荒川」サン商事(株) 西内澄江著
  • 財団法人 紙の博物館ホームページ紙の博物館
  • 大日本印刷株式会社『図解印刷技術用語辞典―第2版―』(1998年日刊工業新聞社刊)
  • 日本製紙連合会「紙・板紙統計年報」…「板紙の品種分類表」
  • JISハンドブック2005 紙・パルプ 日本工業規格(JIS)「紙・板紙及びパルプ用語」(日本規格協会発行)
  • 「広辞苑(第五版)…CD-ROM版」(発行所:株式会社岩波書店)
  • 世界大百科事典(第2版 CD-ROM版)…日立デジタル平凡社発行

 


更新日時:(吉田印刷所)

公開日時:(吉田印刷所)