まず最初に、地元の名山「大山」(だいせん)が「日本の名峰」として3位に選ばれました。大変うれしいことです。
日本の名峰(50選)…「大山」第3位!!
去る7月28日にNHKが募集していた「日本の名峰…おすすめの山(50選)」の投票結果が発表されました(投票・投稿の締め切りは6月30日)。これは今年1月から6月末まで、NHKが全国の視聴者から、日本の名峰と呼ぶにふさわしい山を募集したもので、5万件以上の投票数があったということです。
順位 | 名称 | 得票数 | 標高(m) | 所在地 |
---|---|---|---|---|
1位 | 富士山 | 3770票 | 3776 | 静岡・山梨 |
2位 | 槍ケ岳 | 2403票 | 3180 | 長野・岐阜 |
3位 | 大山 | 2144票 | 1729 | 鳥取 |
4位 | 石鎚山 | 2100票 | 1982 | 愛媛 |
5位 | 穂高岳 | 1689票 | 3190 | 長野・岐阜 |
その結果、人気投票第1位は、富士山。さすが日本一の名山です。断トツでした。第2位が北アルプス南部にある槍ケ岳。そして第3位が私の郷土である鳥取県にある大山(だいせん)です。以下、石鎚山、穂高岳、剱岳、鳥海山、八ケ岳、白馬岳、大峰山、…と日本の名山がならびます。また、富士山とともに日本三霊山と言われる立山、白山はそれぞれ第11位、第13位でした(詳細はホームページNHK-日本の名峰-参照)。
なお、「大山」に投票された方は、もちろん鳥取県の方が多かったようですが、県外の方のウエイトが大変高かったそうです。大山の「美しさ」と「嶮しさ」、「優しさ」と「厳しさ」を併せ持つ「聖なる山」として高く評価されたもので非常に素晴らしいことです。
大山はご存知のように登山家 深田久弥氏の「日本百名山」の一つにも選ばれています。主峰は剣ヶ峰(けんがみね、1729m)で中国地方の最高峰。米子や松江など西の方角から見る大山は特にきれいで富士山に似ていることから伯耆富士(ほうきふじ)とか出雲富士(いずもふじ)の別名も持つ一方、北・南壁を見ると日本一の規模の溶岩ドームによって形成された荒々しいアルペン的景観でまるで違う山を見ることができます。
大山はまた、「火神岳(ほのかみだけ)」(異本に大神岳(おおかみのたけ)、大神嶽もある由)ともいわれるが、古くから山岳信仰の対象とされています。大山の現存する最も古い記述は「出雲国風土記」(奈良時代の天平五(733)年完成)です。出雲国風土記の最初、「意宇郡(おうぐん)」の冒頭に、出雲国の成り立ちが書かれています。いわゆる「国引き神話」(国引きの条)で、出雲国の産みの親、八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと、大国主と同一神とされる)は、出雲の国は狭い若国(未完成の国)であるので、他の国の余った土地を引っ張ってきて広く継ぎ足そうとしました。そして現島根県にある佐比売山(三瓶山)と火神岳(ほのかみだけ、現大山)の双方を杭として綱をかけ、「国来国来(くにこ くにこ)」と国を引き寄せて、できた土地が現在の島根半島であり、国を引いた綱は「夜見嶋」[現在の弓浜(きゆうひん)半島(弓ヶ浜、夜見ヶ浜(よみがはま))]になった、というものです。
ちなみに継ぎ足された島根半島の東端の「三穂埼(みほのさき)」(美保関)は能登半島の一部から、西端の「支豆支の御埼(きづきのみさき)」(日御碕)は朝鮮半島の新羅から、その間の「闇見(くらみ)の国」と「狭田(さだ)の国」はそれぞれ「北門(きたど)の良波(よなみ)国」、「北門の佐伎(さき)国」から引いてきたとされます。なんとも雄大な話ですね。
このように大山は古くから神の宿る神聖な山としてあがめられていますが、奈良時代の養老年間に山岳信仰の山として開かれたと言われ、中腹に大神山(おおかみやま)神社と天台宗大山寺があります。また、この地方は出雲の国に近く、天地創造的神話や伝説の多いところでもあります。
ところで、大山がある鳥取県は日本でも小さな県です。人口60万人、日本でもっとも人口の少ない県です。面積は35.708m2で41番目。市の数も日本一少なく4つです。また、山陰にある島根・鳥取の二つの県は場所も字面も似ていて混同されがちですが、西側が島根県、東側が鳥取県です。両県ともどちらかといえば目だたない県と言えます。
今の鳥取県は古代から明治4(1871)年の廃藩置県まで、旧国名で東部の因幡(いなば、因州は別称で因幡の国という意味)と西部の伯耆(ほうき、伯州)に分かれていました。因幡は古くは「稲羽(稲葉)」とも書かれていますが、因幡も神話で有名なところです。
そのひとつは出雲神話の「古事記」に記載されている「稲羽の素菟(因幡の白兎)」(いなばのしろうさぎ)ですが、『淤岐島(おきのしま)から因幡国に渡るため、兎が海の上に並んだ鰐鮫(わに)の背を欺き渡るが、最後に鰐鮫に皮を剥ぎとられる。八十神(やそがみ)の教えに従って潮に浴したためにかえって苦しんでいるところを、そこに最後に通り掛かった大国主神に救われる』という話です。
なお、県庁所在地はこの東部にある鳥取市ですが、2004年に国府町、福部村、河原町、用瀬町、佐治村、気高町、鹿野町、青谷町と合併し、人口20万人規模となったばかりです。
鳥取県東部の和紙、西部の洋紙
鳥取県には、国の指定を受けている伝統的工芸品がふたつあります。因州和紙(いんしゅうわし)と弓浜絣(ゆみはまがすり)です。弓浜絣は県西部の弓ヶ浜地方で、農民の自給品のため、綿を栽培し、着物を作ったのが始まりで、それだけに素朴で、枯淡な藍の色調が特徴となっており、独特の味わいがあります。
もうひとつの因州和紙は、古来からの伝統手漉き紙が発祥で、県東部で受け継がれている和紙で、わが国でもトップクラスの位置づけを持っています。紙抄きといえば、県西部には、歴史は浅いが日本でも有数の洋紙生産工場があります。それでは因州和紙から簡単に説明していきます。
因州和紙は因幡紙(いなばのかみ)ともいわれ、鳥取県東部の旧国名、因幡国で生産される手漉き和紙の総称です。因州和紙の起源は古く、それ以前は記録がなくはっきりしませんが、現存する因州和紙の最も古いものは、奈良時代の正倉院文書「正集」の中に因幡国とあり、因幡の国印の押されたものが発見され、正倉院に保存されています。その記録は「養老5年(721年)」から天平宝字元(757)年、天平宝字6(762)年および宝亀3(772)年まで及んでいます。
「養老5年」の根拠は解っておらず今後の調査が待たれますが、この頃から因幡の国で造紙が行われていたと推論すれば、因州和紙の歴史はおよそ1280年となり、天平宝字元(757)年または天平宝字6(762)年とする説を採ればおよそ1250年となります。
なお、平安時代中期(927年)に完成した「延喜式(えんぎしき)」には伯耆、因幡とも有力な産紙国であり、朝廷へそれぞれ紙麻70斤が献上されたという記録があることから、立派な上納国でもあったようです。このように古い歴史があります。
このあと、因幡の紙は引き続き盛んで、因幡の国で栄えていきます。そして近年は因幡地方の気高(けたか)郡青谷(あおや)町と八頭(やず)郡佐治(さじ)村(今の鳥取市青谷町と佐治町)の2か所に紙郷が集約されることになります。このように因州和紙は、この因幡の国で古くから栄え、時代の流れにもまれながらも、今も引き継がれており、画仙紙などの書道用紙と工芸紙、染色紙などを生産し、全国の多くの和紙愛好家や書道家に愛用されています。
そして現在、その伝統技術を活かして立体形状の紙や機能性和紙の開発など新製品の開発にさらに力を注いでいます。これからも生き延びていくであろう約1250年の歴史ある伝統的で進化しながら息づいています。
一方、伯耆の紙は次第に廃れて、鉄(たたら)が代表的な産物になり、日本のおよそ3分の1と言われる生産を誇ることになりますが、その伯耆の鉄も、江戸末期から明治初めにかけて廃れてしまうこととなります(参照…和紙紀行(12) 因州和紙(鳥取県)…(その1)はじめに(2002年7月1日まとめ))。
しかし、因州和紙生産が廃れたその鳥取県西部には現在、王子製紙株式会社米子工場(米子市吉岡)があります。米子市は鳥取県の最西部で大山の麓にあり、県の北西端に突出した日本最大の砂洲、弓浜半島(弓ヶ浜、夜見ヶ浜ともいう)の元をなし、先端が境港市となります。半島をはさんで中海(なかうみ、汽水湖)と美保湾があり、美保湾に面して温泉地、皆生(かいけ)温泉があり、大山のそばを流れ美保湾に注ぐ日野川があります。 なお、日野川は中国山地を源泉としています。しかも「大山」が蓄え育むきれいな水も取り込み、日本海美保湾に流入する全長77.4kmの県内最大の河川です。また、弓浜半島は日野川や佐陀川から流れ出した砂が北東風による波の力と対馬海流の分岐沿岸流によって、土砂が北西方向に堆積してできあがったと考えられています。
ところで、文豪 志賀直哉が「暗夜行路」で、大山からの眺望を次のように書いています。
中の海の彼方から海へ突出した連山の頂が色づくと、美保の関の白い燈台も陽を受け、はっきりと浮び出した。間もなく、中の海の大根島にも陽が当り、それが赤鱏を伏せたように平たく、大きく見えた。村々の電燈は消え、その代りに白い烟がところどころに見え始めた。しかし麓の村はまだ山の陰で、遠いところよりかえって暗く、沈んでいた。謙作(主人公)はふと、今見ている景色に、自分のいるこの大山がはっきりと影を映していることに気がついた。影の輪郭が中の海から陸へ上って来ると、米子の町が急に明るく見えだしたので初めて気づいたが、それは停止することなく、ちょうど地引網のように手繰られて来た。地を嘗めて過ぎる雲の影にも似ていた。中国一の高山で、輪郭に張切った強い線を持つこの山の影を、そのまま、平地に眺められるのを稀有のこととし、それから謙作はある感動を受けた。
このように夜明けを迎え、眼下に米子の街、弓浜半島、中海などを秀峰大山から見下ろしながら描写した風光明媚なところです。
また、大山は1936(昭和11)年に日本最初の国立公園となり大山国立公園として指定されました。さらに1963(昭和38)年には鳥取・岡山・島根3県にまたがる蒜山(ひるぜん)・島根半島・隠岐諸島を含む大山隠岐国立公園に指定され、その中心を成していますが、この麓に王子製紙米子工場があります。
王子製紙は1873年に創業し、日本最大の製紙会社ですが、米子工場は1952年に日本パルプ工業株式会社米子工場として操業を開始。1979(昭和54)年には合併により王子製紙米子工場となりました。
米子工場はパルプから紙(抄紙・塗工)の一貫生産体制を持つ洋紙製造工場ですが、現在は国内最新最大の塗工紙ダブル塗工設備であるN-1マシン・コーターをはじめ、最新の技術を取り入れた設備を持ち、需要の多い印刷用紙、その中でも旺盛な塗工紙(軽量コート紙、コート紙、アート紙、キャストコート紙、高級白板紙)を年間60万t(5万t/月)生産する近代的な国内有数の総合塗工紙専抄工場となっています。
ちなみに生産規模ではわが国の紙・板紙生産工場数130中、16番目。また、印刷・情報用紙の生産工場としては62あるなかで8番目の国内屈指の工場といえます。
なお、紙造りには多くの水を使います。しかも、きれいな水がなくては製紙は成り立ちません。米子工場は豊富できれいな水を持つ日野川の下流に建設されており、その伏流水を工業用水として使用していますが、霊峰「大山」の雄姿を背景に、その恩恵を受けながら、きょうも煙がたなびいています(写真…王子製紙米子工場パンフレットから)。
(2006年9月1日まとめ)
参考・引用文献
- ホームページNHK-日本の名峰-
- ホームページ「神々のふるさと山陰」(山陰観光・旅のポータル) (特ネタ最前線)http://furusato.sanin.jp/p/11/1/18/
- ホームページ「大山王国」(NPO大山中海観光推進機構)
- 気ままに大山王国・日本酒で乾杯! 日本の名峰に大山が…。
- 世界大百科事典(第2版 CD-ROM版)…日立デジタル平凡社発行
- 「広辞苑(第五版)…CD-ROM版」(発行所:株式会社岩波書店)
- 日本製紙連合会 機関紙紙・パルプ「紙・パルプ産業の現状」(2006年特集号)
- 日本製紙連合会「紙・板紙統計年報」(平成17年版)
- 王子製紙パンフレット「米子工場案内」