コラム(66-4) 紙・板紙「書く・拭く・包む」(2)その後の浅草紙

その後の浅草紙

右図は會田隆昭著「浅草紙の三百年」から転載させていただいたものですが、1878(明治11)年頃の東京北部の紙及び紙製品産状況(記号:●…漉返紙、▲…紙問屋、░░░…屑物取扱業者、他は省略)を示しています。この図で上方(北側)にある足立区内に、漉き返し紙産を表す黒印●がひときわ大きく目立ちますが、これは当時、本木、梅田などを中心に広範囲にわたって足立区内で漉き返し紙、すなわち浅草紙が盛んに生産されていることを表しています。

また、図の下方にあたる浅草寺近くでは、浅草紙の産を示す黒印●が小さくなっていますが、すでに「浅草紙」の紙漉きの中心は発祥のである浅草田原町(現在の雷門一丁目(田原小学校付近))から、隅田川(荒川)に沿って新吉原に近い上流の山谷区に移っています。これについては上記しましたので、ここではその後について概記します。

紙漉きは、さらに山谷区から北上し千住方面へと移動します。すなわち、江戸末期には浅草紙生産の中心は、南足立郡(足立区)千住付近に移りました。

文政10(1827)年刊の佐藤信淵著「経済要録」には、「江戸千住近在の民は、漉き返し紙を製する事、毎年金十万両に及ぶ」と記載されており、紙漉きは繁盛しました。また、文化文政時代(1804~30年)の「新編武蔵風土記稿」にも、「村民戸ごと世にいう浅草紙といふものを漉きて生産の資とす。(中略)農隙に浅草紙といへる紙を漉きて江戸にひさげり」との記録があり、村の農家は副業として浅草紙を生産し生活の糧とし、江戸の紙問屋に「浅草紙」として収めていました。

このように千住は漉き返し紙の産としても知られていましたが、さらに千住の北部に位置する本木(ほぼ現在の足立区本木・関原・梅田の一部)近辺に浅草紙生産の中心が移動することになります。こうして足立の漉き返し紙の生産量は、江戸市中の使用量の大半を占めるほどになりますが、俗に「一舟一町」といわれるように、紙漉き道具一式から生まれる収益が田一町歩(約1ha)の生産高に匹敵したというくらい、莫大な収入であったようです。そして江戸末期から明治、大正、昭和初期まで農家の副業として漉紙の生産が盛んに行われており、その製品を千住の漉紙問屋に卸していました。

そうした伝統をもつ本木や梅田の紙漉き業者は、大正時代には砂糖袋を主に漉き、後に古新聞紙を原料にして、鼻緒や草履、帽子の芯紙にする張子紙を漉くようになりました。さらに明治時代の初めから中ごろにかけて、足立の紙漉き農家は、伊興や竹の塚あたりまで北上し、広がりました。製品の種類も増え、下駄や・草履の鼻緒の芯や西新井大師のだるまなどに使われる張子紙、襖の下張り紙、袋用の厚紙なども生産されるようになりました。

なお、漉紙とは本木、梅田あたりで盛んに作られた主に浅草紙である漉き返し紙のことですが、荒川河畔の千住大川町にある氷川神社境内には歌碑「紙すきの碑」があります。この記念碑は荒川放水路開削のため大正6年現に移築されたものですが、歌碑は保14(1843)年6月晦日(かいじつ、みそか、つごもり=毎月の末日)、幕府の命により漉紙を献上したときの喜びを記念して漉紙問屋の人たちが建立し、碑文には「永続連」の題字と「水無月のつこもりの日公より岳のすき立御付られる時」という前書きがあり、歌は「すきかえしせするわさは田をつくるひなの賤らにあしかめにしかめやも 保十あまり四とせ葵卯角斉丸勇」と刻まれています。当時、紙漉きが農作業に劣らず重要な位置付けにあったことが分かります。また、北千住旧街道千住4丁目には、江戸時代から戦前まで「漉紙問屋」を営み繁昌し、足立区有形文化財として保存されている横山家の住宅があります。横山家は宿場町の面影を今に伝える商家で、屋号を「松屋」といい江戸時代の安政2(1855)年に建てられています。現在の建物は昭和11年に改修されたということですが、代々、農家から漉紙を仕入れ、日本橋方面の小売店に品物を卸す間屋でした。

ところで浅草紙を支えた屑物業者は東京市内の浅草、下谷などで営業していましたが、明治末には警視庁により倉庫を市内に置くことが禁止され、さらに大正初めには、市内での営業が禁止されました。火災予防と疫病(ペスト)の発生の防止がその主な理由だそうですが、そのため屑物業者は、市内に隣接する北豊島郡(現荒川区)日暮里町・三河島町方面に移転することとなりました。そして昭和初期には、一部の業者は日暮里・三河島からさらに荒川放水路の北の本木方面へ移転していきました。

しかし、その後、大資本による製紙工場の出現や、機械すきの導人による大量生産で、各の紙漉き(手漉き)農家や紙問屋、屑物業者は次第に廃業に追い込まれたり、転業などを余儀なくされ、減少していくことになります。そして戦後なって急激に衰えていきました。

 

おわりに当たって

このように浅草を離れて産の中心が北方に移った長い間も、「浅草紙」という銘柄は「塵紙」の代名詞として通用し生産されてきました。明治時代になって抄紙機による近代的抄紙技術が導入されてからも「機械漉浅草紙」と銘打って、浅草紙は市場に出回りました。これは伝統的ないわゆる「浅草紙」でなく、一般的な機械抄き塵紙ですが、東京では「浅草紙」が「塵紙」の代名詞になっていたことから、銘柄として引き継がれたというわけです(會田隆昭著「浅草紙の三百年」)。

こうして農業を基盤とした伝統的な「浅草紙」は姿を消すことになりましたが、機械抄き「浅草紙」は戦後(昭和20(1945)年以降)も生産は続きました。脱色技術などの進歩で幾分は白くなった「鼠色の浅草紙」として売られていましたが、今から4、50年前の昭和3、40年(1955、65年)代には絶滅していきました。

しかし、「浅草紙」そのものが絶滅したとは言え、その約300年の歴史の中で大きな役割を果たしたうえ、後世に多大な足跡を残しました。それを2、3紹介します。

「浅草紙」は「塵紙」(鼻紙や落し紙)として主に使われましたが、女性の生理処理用(今の生理用ナプキン)としても、江戸時代には一般的に使用されたとのことです。さらに明治時代になっても浅草紙や布が使われたといわれます(ホームページ日本衛生材料工業連合会)。この例のように塵紙以外にも「浅草紙」は、多くの人に安価なため身近に親しまれて、なくてはならない日常品として使用されたようです。

また、乾し海苔(のり)の大きさや製造法のもとになったのが「浅草紙」です。海苔1枚(全判)の標準サイズは縦21cm×横19cmですが、これは浅草海苔が先駆けの浅草紙の漉き方など製造方法を真似て作られたことに由来しています。すなわち、浅草紙を漉いていた木枠や簀が長四角で、その大きさや漉き方、日乾燥法などが浅草海苔に踏襲されました。その後、昭和40年代に各産でばらばらであった海苔のサイズが今の標準サイズに全国統一されたというわけです。

それから昭和39(1964)年に、初めて日本で発売されたティッシュペーパーの消費量は、今や世界一だそうですが、そのティッシュペーパー1枚の大きさは、ほぼ20cm四方になっています。厳密にはメーカーや銘柄(ブランド)によって多少違いがありますが、縦197mm×横229mmのサイズが多いようです。これは「浅草紙」の大きさと略同じですが、ティッシュペーパーの寸法も、使いよいとされる「浅草紙」の大きさに由来しているのかも知れません。

そして、ものを作るためには多くの人の係わりがなくてはなりまんが、「浅草紙」についても、江戸時代になってその原料である紙屑を町中を歩いて拾い集める「紙屑拾い」や、それを買い集める「紙屑買い」といわれる屑物業者がおり、その生産のために大きな役目を果たしてきました。それが明治時代の近代化によって西洋式の製紙会社と工場が誕生し、洋紙の製造が始まると、主に浅草・下谷の屑物業者により木綿や麻のボロが新聞紙などの原料として集められようになりました。今やなくてはならなくなった現代の古紙産業は江戸時代に起源をもつといわれますが、「浅草紙」生産を支えた当時の屑物業者・団体も今日のリサイクル社会発展につながる一端を担ってきたといえます。

 

ところで、皆さんの中には「浅草紙」をご存じない方が多かったかも知れませんが、終戦を経験した私にとっては、その当時使った「塵紙」(鼻紙や落し紙などに使用)は今ではよき思い出となっています。

私の子供のころ、すなわち戦後間もない、ところどころしか記憶が残っていないころのことですが、新聞紙(雑誌も)を鼻紙やトイレ(便所)用に使った思い出があります。その当時のトイレは汲み取り式でしたが、今の水洗式でロール式のトイレットペーパーが普及している時代では考えられないことで、物が豊富で欧米式の生活様式で育った、特に若い世代の人にとってはびっくりされることでしょう。

そのころはいろいろな物資が少なかった時勢で、紙も少なく貴重でトイレ用の紙も手に入らなかったころです。そのため読み終わった新聞紙を細かく切って、塵紙代わりに用いたわけです。新聞紙そのままでは硬いので、使うときにはしっかり揉んだ記憶があります。

その後、鼠っぽい色で一枚一枚のシートタイプの「塵紙」(板チリ紙)を使うようになりました。それは少し厚めでごわごわしており、乾し海苔くらいの大きさで、何枚か束ねて何かの空箱に入っているのを使ったような気がします。このときの塵紙には、前述のようにさまざまな斑点や異物が混在していた記憶はなく、色だけが鼠色でした。昭和20年代ころのことです。しかし、これが「浅草紙」だったか、どうか定かではありません。

そして次第に生活が落ち着き、経済が成長してくると、紙も豊富になり、「塵紙」の色も白くなってきました。シート状の塵紙がしばらく続きましたが、「汲み取り式」から「水洗式」へ、「和式便器」から「洋式便器」へと変わり、ロール式のトイレットペーパーとティッシュペーパー(シート状)の時代となり、どっぷりとその世界に浸っています。が、しかし、新聞紙やごわごわと嵩張った鼠色をした紙を、塵紙として使ったおよそ60年前の記憶は今は懐かしい思い出として残っています。

(2007年6月1日)

 

参考・引用文献、サイト

 


更新日時:(吉田印刷所)

公開日時:(吉田印刷所)