コラム(69)補遺1 ある日突然、店頭からトイレットペーパーが消える…35年前の「オイルショック」騒動

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「トイレットペーパーがなくなる!」という噂が噂を呼んで瞬く間に全国へ波及し、買いだめ騒動が起きました。世にいう「トイレットペーパー騒動」です。今からおよそ35年前のことですから、ご存じない方も多いのかも知れませんね。

騒動は1973(昭和48)年に起きました。発端は世界を覆ったオイルショックです。オイルショックとは原油価格高騰による経済混乱のことで、石油危機、石油ショックとも言われ、1970年代に二度ありました。第一次オイルショックと1979年の第二次オイルショックですが、「トイレットペーパー騒動」は第一次オイルショック時に起きました。

その年の10月31日に多くの主婦が殺到し、瞬く間にスーパーのトイレットペーパーが売り切れてしまいました。「スーパーの店頭からトイレットペーパーが消えた」と、噂を聞いた新聞社がトイレットペーパー騒動を大きく取り上げました。これに端を発し、全国へ広がり砂糖、醤油(しょうゆ)、洗剤なども相次いで姿を消すことになりました。


トイレットペーパー騒動の

しかし、このような騒動が突然、何の前触れもなく起きたわけではありません。その景には、まず産業界や日常の国民生活に不可欠になった石油依存があります。エネルギー資源は第2次大戦後とくに1960年代に入って、石炭から石油への転換が進み、67年には石炭をしのいで一次エネルギー源の第1位を石油が占めるようになりました。第一次オイルショックが発生した73年には、世界の一次エネルギー消費に占める石油のシェアは47%強、西側先進国では53%強、日本では77%強(77.4%)となっていました。このような石油づけで石油は安価で、しかも量的にも必要なだけ供給されるものと安易に信じ込み、安心して石油資源に頼りきっていた状況下で突然の「油断」、オイルショックの発生です。安い石油に依存していた先進諸国の経済は混乱し、特に石油依存度の高い日本経済は大きな衝撃を受け、続いていた戦後の高度経済成長が終焉しました。パニック(オイルパニック、石油パニック)とも言うべき大混乱状態に陥ったのです。まさに「油断大敵」となったわけです。

直接の発端は、同年10月6日に勃発したイスラエルとエジプト、シリアの戦争です。この第4次中東戦争が予想外に長引き、これを契機にOAPEC(オアペツク、アラブ石油輸出国機構)は石油の禁輸・量的制限という石油戦略を採り、OPEC(オペツク、石油輸出国機構)は10月16日に、一方的に原油価格を一挙に70%も引き上げる大幅値上げを決定しました。加えて友好国以外には供給を削減することも宣言しました。

日本は友好国のリストに入っていなかったため、政府は11月2日にアラブ外交ならぬアブラ外交とか物乞い外交と陰口をたたかれながらも、友好国扱いにしてもらい原油供給を頼み込むために副総理を政府特使として中東8ヵ国に派遣しました。それとともに日本政府および他国が中東の石油を買い占め、それまでほとんど変動のなかった原油価格はわずか3ヶ月ほどで3ドルから11.65ドルと、およそ4倍に高騰し、日用品の物価が騰がりました。


第一次オイルショックの影響深刻

これが第一次オイルショックの大きな流れですが、この石油危機はそれまで安い石油に依存していた先進諸国の経済は、大きな衝撃を受け混乱に陥りました。なかでも石油依存度の高い日本経済は低迷し、たちまち産業界と国民に重大な影響が及びましたが、特に国民生活への影響は深刻でした。石油は産業の動脈になり、石油製品は衣食住のすみずみに入り込んでいたからです。マイカー時代の到来、しかも暖房が必要になる季節、ガソリンや灯油の値段が高騰しました。

政府は緊急の対策としてまず11月以降、11業種に対して電力と石油の10%供給削減措置をとり、さらに石油緊急二法を成立させて一般企業への石油、電力の20%削減や民間へのエネルギー節減要請が出された。そのためマイカー自粛、テレビの放送時間短縮、ネオン中止、ガソリンスタンドの日曜祭日の営業停止などの自粛が行われました。

このような中で「モノ不足」現象が起きました。その典型が「トイレットペーパー騒動」です。その震源はマンモス団をかかえた大阪千里ニユータウンのスーパーマーケット、大丸ピーコック千里中央店でした。10月31日朝のことです。中曽根康弘通産大臣(当時)は特集「紙不足はどうなる」を取り上げたNHKの主婦向け人気テレビ番組「こんにちは奥さん」に出席し、「紙の使用合理化運動」を呼びかけ、紙の節約の協力を求めました。

しかし、前年からパルプの輸入価格の上昇や渇水による十条製紙石巻工場の操業短縮などのため紙価格はジリジリあがっていました。それに石油危機です。産油国の原油価格の大幅引き上げ決定を受け、通産大臣が「紙節約の呼びかけ」を10月19日に発表しており、10月下旬には「紙がなくなる」という噂が流れていました。そのため買い急ぎ、買いだめをする人が増えていました。そこに31日のテレビ放送です。政府が「節約」の呼び掛けをすればするほど、視聴者には「紙がなくなる」と受け止められたようてす。我も我もと主婦たちをスーパーに走らせることになりました。


噂「紙がなくなる」から「トイレットペーパー騒動」へ

この番組を見た大阪千里ニュータウンの主婦たちは、前の日に新聞の折り込み広告で配られた「トイレットペーパー安売り」のチラシを見て、トイレットペーパーの値段は幾分か安い程度だったといいますが、とりあえず生活必需品のトイレットペーパーを買い急ぐために、近所のスーパーに早朝から出掛けたところ、行列ができ始め、次第に多くなり開店時間には200人以上が並びました。それが開店と同時にお目当ての3階催し物売場へ押し寄せることになり、トイレットペーパーに殺到し、店にあった1週間分の在庫1400パックは、わずか1時間で売りきれました。通常の4倍の売れ方だったと言います。その後に来店した客が広告の品物がないことに苦情をつけたため、店では在庫品の高なトイレットペーパーを「これでもよければどうぞ」と並べたところ、それもたちまち売り切れました。

そのことが当日の某新聞大阪版夕刊には「トイレットペーパーを2年分買いだめした主婦の話」が写真入りで掲載されました。後に経済企画庁は「国民生活白書」(昭和49年度版)で、「この新聞報道が掲載されるに至って大きな騒ぎになった」と騒動のきっかけを、マスコミ報道にあると分析しています。

さらに噂を聞いた新聞社が「これでもよければ」と用意した高トイレットペーパーもすぐに売り切れたことを「あっと言う間に値段は二倍」と書いたため、ますます騒ぎは大きくなったといいます。

翌日(11月1日)は朝から長い列ができ、今度は30分で売り切れて新聞やテレビで報じられました。「トイレットペーパーがなくなる!」という噂が連鎖的にたちまち広まり、品不足になったトイレットペーパーの買い占め騒動が全国に急速に波及していきました。

11月2日朝には尼崎のスーパーで準備した600パックが10分程でなくなる中、83歳の女性が殺到した人垣に押されて倒れ、足を骨折し2ケ月の重傷を負う事故が起きました。この女性は開店直後に怪我したのですが、大勢の買い物客の誰一人、助けの手を差し伸べる者はなく、嵐が過ぎ去ったあとようやく店員に発見されたそうです。

この日(11月2日)に通産省(現経済産業省)がトイレットペーパーの増産など4項目の緊急対策を決めると同時に、「トイレットペーパーは十分にあります。心配ないので買い急ぎを慎んでください」と、「買いだめ自粛」を呼び掛ける異例の事態となり政府の公式見解を発表しました。さらに通産省は衛生用紙業界に5日から7日までに、トイレットペーパー120万パックの緊急出荷を要請しました。が、後の祭りでした。同じ様な騒ぎが関西一円で起きていました。

この状況はマスコミにも大きく取り上げられ、さらに各に噂が飛び火し、パニックは広がり日本各に連鎖的に急拡大しました。しかもトイレットペーパーばかりでなく洗剤・砂糖・塩・醤油など生活必需品ほぼすべてに買いだめ騒ぎが起こりました。モノ不足のなか買い求める人々の長い行列が続き、それらが店頭から相次いで姿を消すことになりますが、企業への石油電力供給は制限され、テレビの放送時間も短縮され、街からネオンサインが消えることになりました。


トイレットペーパー騒動の収束

さらに政府の対策は続きます。通産省は11月6日、品不足ムードに便乗した値上げなどを監視するために、トイレットぺーパーとちり紙の2品目を「投機防止法」の対象品目にすることを決めました。9月4日に灯油が買占め等防止法の指定品目とされたのに続いて、11月12日にはトイレットぺーパー、ちり紙等家庭用薄葉紙4品目を、同月22日には印刷用紙のほか液化石油ガス,ガソリンなど石油製品4品目を追加指定されました。さらに、政府は11月16日には「石油緊急対策要綱」を閣議で正式決定。企業への一律10%の石油、電力供給削減や家庭へのマイカー自粛などを要請しました。11月17日には富士市の製紙業界が、首都圏にトイレットペーパー1000万個の緊急輸送を決定しました。また12月21日には、「石油需給適正化法」および「国民生活安定緊急措置法」が成立し翌22日に公布、施行。12月25日には政府のいわゆる資源外交が実を結んだ形でOAPEC(アラブ石油輸出国機構)が日本を友好国と認め一応、原油の供給が約束され、事態は落ち着きを取り戻し始めます。

しかし、物価の高騰はなお続き、翌1974(昭和49)年1月12日には当時の福田赳夫大蔵大臣が「物価は狂乱状態」と発言し狂乱物価ということばが大流行しました。その後の主な動きを列記すれば、

  • 1月16日…NHK、深夜放送打ち切り
  • 1月17日…「生活110番」設置
  • 1月18日…政府、灯油などに「標準価格」を設定
  • 1月25日…政府はトイレットぺーパー、ちり紙の2品目を「国民生活安定緊急措置法」に基づく指定品目に追加指定し、標準価格を設定し2月1日から実施。

こうして、1973年10月31日に起きた「トイレットペーパー騒動」も翌3月以降、ようやく落ち着き始め、3月末の在庫も通常レベルに回復し、オイルショック直前の1973(昭和48)年9月の水準に戻りました。そのため5月24日に国民生活安定緊急措置法の指定品目であったトイレットペーパー、ちり紙についての指定を、6月1日には同じく灯油の指定をそれぞれ解除されました。


まとめ

こうして「トイレットペーパー騒動」に代表される買いだめ、モノ不足のパニック現象は収束していきますが、パニックが過ぎて残ったのは物価の高値安定でした。すなわち74年第1四半期をピークとして、いわゆる狂乱物価の状況を呈するに至りました。原油価格は、1973年10月と74年1月の2回値上げされ、合計で4倍近くに急騰しました。日本経済は、74年に戦後初めてのマイナス成長に陥り、国際収支も大幅赤字となり、狂乱物価といわれるほどに卸売物価、消費者物価ともに年率2割を超えて上昇しました。74年には日本のGNPの3%近くが、原油価格高騰によって産油国に移転しました。世界経済全体においても経済成長率は大きく落ち込み、75年には西側先進国はマイナス成長となり、インフレは加速化し国際収支もOPEC以外の各国は大幅赤字へと一挙に転落しました。

そして教訓と反省を残しました。オイルショックをなんとか乗り越えた日本は様々なことを学び、対策を講じました。そのひとつが石油への依存度を下げることでした。成長に成長を重ねた日本経済が、実は資源・エネルギーも食糧も外国に依存した「資源小国」にほかならないことを、国民や産業界、政府に実感させたわけです。そのため二度にわたる石油危機を経験したわが国は石油備蓄を積み増す一方、省エネ(省エネルギー)の促進、然ガスや水力、原子力など代替エネルギー導入等の努力の結果、エネルギー消費に占める石油依存度は第一次オイルショック時の77.4%から現在47%(2010年度見込み45.0%)に低下しています。なお、経済産業省が昨(06)年5月に公表した「新・国家エネルギー戦略」では「およそ50%ある石油依存度を、2030年までに40%を下回る水準とする」などの目標が掲げられています。しかし、依然としてエネルギー源の輸入依存度が非常に高く、ほとんどを海外から輸入しています。「石油依存度」は下がっているものの相変わらずの「中東依存度」が高いとか、輸入に依存していることは大きな課題として残っています。


さらに大手商社などの買い占めもありました。噂に便乗して、倉庫に大量備蓄して値上がりを待っていた商社もいました。また、石油闇カルテル事件の発覚もありました。石油危機による狂乱物価の最中に、石油連盟が生産調整を行い、元売り各社は価格協定を結び、石油製品の一斉値上げを実施しました。そのことがゼネラル石油の内部文書に「千載一隅のチャンス」と載っていたことが、2月6日の衆議院予算委員会で採り上げられ、問題化しました。オイルショックに際し、「石油危機は石油製品の大幅値上げをはかり、利益を得ることができる千載一遇のチャンス」だと社内に文書で通達したもので、翌7日、ゼネラル石油の日高社長が引責辞職する破目になり、石油業界は社会的な避難を浴びることになりました。そして公正取引委員会は石油業界のヤミ協定破棄を勧告しました。

(注)千載一遇(せんざいいちぐう)…千年に1回しかあえないようなめったにないこと(広辞苑)。

もうひとつ、後日、この種の石油パニックは虚偽の情報に踊らされてつくり出されたものであることが明らかとなったことです。通産省は製紙メーカーの生産出荷状況を調査しましたが、特に問題はありませんでした。この当時、渇水による一部の製紙工場で操業短縮などがありましたが、日本の紙生産はほぼ安定しており、実際には生産量自体は流言飛語が全国的に広まるまで、ほとんど変わっておらず、パニックが発生した後は、むしろ生産量増加も行っていた模様です。むしろトイレットペーパーは、生産と流通は前年を上回っており、その事実を報じ「トイレットペーパー不足は起きない」ことを、新聞などで繰り返し報道されていました。それでもパニックが起き、容易に沈静しなかったのは、店頭に紙がないという現実に、消費者の不安が解消されず、取り敢えず買っておきたい心理を抑えられなかったからです。

当時は第四次中東戦争が景にあり、石油の禁輸・量的制限と、原油価格の大幅値上げという石油危機に曝されたわが国では、「石油の供給制限による生産削減でモノ不足が発生する」という噂が日本中に飛び交っていました。もちろんモノ不足だけでなく、本当にモノがなくなるかも知れないという不安心理も働いていました。このような今までに経験したことがない状況下で、大阪の千里ニュータウンで「石油が値上げしたから、トイレットペーパーが値上げになるらしい」とか「トイレットペーパーがなくなる」という噂が一部で広まり、「いまのうちに買っておかなければ、モノがなくなる」という不安がさらに不安を呼び、近くのスーパーに急げば、たくさんの人が並んでいる。「やっぱりか」と信じ込み、開店と同時に目指す商品に殺到。トイレットペーパーの棚は、あっという間に空っぽになっていった。この風説が口コミで広がり、これが新聞、テレビで報じられて、しかもトイレットペーパーを求める消費者が我先にと殺到してパニック状態になっている映像が全国に流れると、瞬く間に全国に広まっていったということのようです。一部の区の出来事はマスコミ報道によりあっという間に広がって全国版になり、さらに多くの人に不安を煽り、トイレットペーパーばかりでなく洗剤など日用品の買いだいめに走るなど大混乱に陥るという結果となったわけです。

このように石油に頼りすぎていたわが国は、石油危機→モノ不足になるという不安心理→(ものが高くなる、なくなると言う)噂→一部の消費者の買い占め騒ぎ→マスコミ報道(特に映像)→全国的な買い占め騒ぎ(パニック)に拡大→売惜しみ→便乗値上げ→物価の急上昇→狂乱物価という連鎖をたどったオイルパニックから貴重な経験をし、教訓を得ました。このため79年の第二次石油危機に際しては冷静に対応し、パニックが再燃することはありませんでした。


しかし、当時、主婦がスーパーの調味料売り場で「塩は大丈夫かしら」と漏らした一言から、噂が立ち食塩までもが商品棚からなくなった、という話まであったと言うことです。「噂」の怖さです。そう言えば、今年の1月7日に某テレビ局が納豆をテーマにした番組でダイエット効果があるという内容で放送しましたが、翌日には全国的にスーパー店頭から納豆が売り切れ、消えるという騒動が起こりました。納豆の品薄状態が続き、朝の内に買わないと夕方にはなくなり、「納豆は品切れ致しました」と張り紙が出る始末でした。この騒ぎは10日間ほど続いたようですが、メーカーの出荷量は、連日2~3倍のフル操業状態だったそうです。

同月21日にはこの番組の内容、データにねつ造があったと公表され、人気があり長く続いていたこの目玉番組はお詫びとともに打ち切りになりましたが、この、いわゆる「納豆騒動」はいかにこの種の情報や噂に飛びついて踊る人が多いことか、思い知らされました。「テレビで取り上げられると、バカ売れする」という噂話を聞いたことがありますが、この騒ぎも番組を見て「納豆買い」に走った人もさることながら、その後の「あるあるで納豆がダイエットに効くって。納豆が売り切れているらしい」という噂、情報で買いに走った人の方も多かったのではないでしょうか。

「納豆騒動」は、最初にテレビというメディアが火をつけ、即座に全国に広まったことなど、発端の景や社会的規模こそ違いがありますが、「トイレットペーパーがなくなる」という噂で広まっていった35年前の「トイレットペーパー騒動」と共通面があります。噂・情報・モノに対する人間の欲求と群集心理は、昔からあまり変わりなく、進歩がないということでしょうか。行動の前に少し間を置いて、考えてみる習慣を付けたいものです。

(2007年9月1日)


参考・引用文献・ウェブ



更新日時:(吉田印刷所)

公開日時:(吉田印刷所)