FAQ(11) 〈資料〉 主な紙寸法の由来

1)四六判…788×l091mm(2尺6寸×3尺6寸)

四六判という名称が生まれたのは、明治時代になってからです。由来を知るためには、その源流となるわが国古来の和紙である美濃紙の判形に触れたほうが判りやすいので、それをまず説明します。

代表的な和紙である美濃紙の判型である美濃判(9寸×1尺3寸=273×393mm)の使用は、江戸時代には徳川御三家専用のものとされ、他の大名や庶民は、その使用は禁止されており、この寸法より小さいものでなければなりませんでした。

ところが、明治維新になって皆平等ということから、解禁となり、美濃判やそれより大きい寸法へと流れ、それが全国的に広まり、美濃判はわが国の標準的な寸法として親しまれ、定着しました。

明治初期、わが国でも活版印刷術が採用されるようになり、洋紙商は伝統ある美濃判を応用した印刷用紙の寸法を工夫していました。

当初、イギリスから輸入されていたクラウン判(20×30in)を面積でおよそ倍にした寸法[31×43in=2尺6寸×3尺6寸(788×l091mm)]は、ちょうどわが国の標準判である美濃判の8面取りになることから、この寸法の紙は大いに受け入れられ、「大八ッ判」(美濃判の8倍の大きさ)と呼ばれ、書籍や雑誌などの出版物に盛んに使われました。

その後、この大八ッ判全紙を32枚取り(4×8裁)し化粧裁ちすると、書籍寸法[横 4寸2分×縦 6寸2分→書籍の大きさ 横4寸、縦6寸]になりますが、この4寸×6寸からやがて「四六判」と呼ばれるようになり現在に至っています。

なお、現在の新聞用紙の基準寸法(813×546mm)は、四六判のほぼ半分の大きさですが、上記の美濃判寸法が源流にあるといえます。

 

(2)三三判…697×l000mm(2尺3寸×3尺3寸)

この寸法は現在、あまり一般的でなく、JΙSにも載っていません。しかし、新聞用紙の寸法を知る上で必要ですのでここで説明します。

三三判の原寸は、700×l000mmでドイツからきたものです。明治初期、イギリスからの輸入紙に、寸法が 697×1,000mm(2尺3寸×3尺3寸)の印刷紙がありましたが、この紙は半紙判(8寸×1尺1寸)の約8倍の大きさであり、当初「半紙八判」と呼ばれていましたが、この寸法が縦横とも、3寸がつくことから、三三判という呼称が定着しました。

明治維新ごろに発行された新聞は、手漉きの半紙や美濃判で、印刷も木版に彫刻し馬連摺りをしていましたが、明治7年ごろになると、洋紙を使った活版印刷になり、新聞用紙も三三判を四つ切りにした大きさ(1尺1寸5分×1尺6寸5分)を使い、この大きさを新聞判とも呼ばれるようになりました。

なお、明治10年、西南戦争を契機に新聞への期待が高まり、記事の増大に伴って紙面の拡大が必要となりましたが、三三判四つ切りの寸法では狭く、三三判半裁では大きすぎるため、四裁と半裁の中間の寸法 25×37in(636×939mm=2尺1寸×3尺1寸)の用紙をアメリカに注文しました。この寸法が菊判に該当しますが、この半裁判(1尺5寸5分×2尺1寸)を新聞用紙として使うようになり、新聞判はやがて三三判四裁から菊判半裁へと移っていきました。

 

(3)菊 判…636×939mm(2尺1寸×3尺1寸)

なぜ、菊判と名付けられたか。その由来を記します。

前述の新規の寸法(25×37in)の紙は、日本橋区通-丁目にあった川上正助店が、横浜にあるアメリカン・トレージング商会に注文して米国から輸入しました。当初は新聞用紙への用途でしたが、それだけでは不経済であり、拡販努力を重ねた結果、-般用として出版にも使われ始めました。使用時に16面取りナ仕上寸法が 5寸×7寸2分となることから、出版業界では最初、これを五七判と呼んでいました。

さらに、日本での商標をどうするか種々検討の結果、この輸入紙の商標がダリアの花で菊に似ていること、菊は皇室の御紋章であること、また、この紙が新聞に使用されており、新聞用紙は新しいことを聞く紙であり、新聞の「聞」の字は「きく」と読むなどいろいろなことにちなんで、菊の花を商標にし、菊印として売り出しました。

この紙が次第に普及する中で、他の印刷紙にも菊印判が流行し、いつの間にかこの菊印判の名称を略して菊判と通称されるようになったものです。

なお、この菊判は昭和 4(1929)年に標準寸法のA列を生むとともに、菊判として現在も、盛んに使用されています。

 

(4)ハトロン判…900×1,200mm

ハトロン判の由来となるハトロン紙は、包装用紙のなかの主にクラフトパルプを原料とする褐色の片艶の紙で、通常ヤンキーマシンで抄造されて軽包装や封筒などに用いられます。語源はドイツ特有の紙である Patronenpapier[パトローネンパピァー(薬莢紙…弾丸の薬莢を作る紙)]といわれ、パトロン紙と呼ばれることがあります。

戦前は、菊判の約 2倍判である3尺×4尺(909×1,212mm)に仕上げられ使用されたこともあり、三四判ともいわれたが、戦後のJIS規格でハトロン判として900×1,200mmのように整然とした数字に丸められました。

なお、他の各判の寸法は端数をもったものが多いのですが、この端数を除き整然とした数字に丸めるには、長年月にわたる習慣を破るため問題が多く、時期尚早ということで、将来の問題として残されており、現状はそのままになっています。

 

(5)A列・B列の誕生

1929(昭和4)年にわが国で初めてA列とB列が誕生しました。

わが国では、古来、文書の書写などに美濃和紙、または半紙の二つ折りが主に使われてきましたが、明治以来、洋紙が印刷用以外に筆記用にも使用されるようになり、罫紙類は、官庁では美濃判、会社関係では半紙判が多く用いられるようになりました。

しかし、次第に美濃判系には四六判が、半紙判系には菊判が取り入れられ、断裁して使われるようになりました。

一方、書籍や雑誌の仕上寸法には、当初から四六判菊判が広く用いられていました。書籍は四六判が圧倒的に多く、次いで菊判、雑誌では菊判が主流で、四六判がこれに次いでいました。

しかし、その四六判にしても菊判にしても、仕上寸法自体が統一されていなかったのでいろいろな寸法に仕上がっていたといわれています。これでは不都合で不経済だということから、寸法の標準化問題が表面化してきたわけです。

1929年12月4日に工業品規格統一調査会で、JISの前身である日本標準規格(JES…Japanese Engineering Standard)第92号P1「紙の仕上寸法」が決定され、1931年2月10日、商工省告示として公布されました。

この規格には、「原紙の標準寸法」としてA列本判、B列本判の2種類だけが制定されていましたが、A列本判が 630mm×880mm、B列本判は770mm×1,090mmとなっていて、現在とは少し違っていますが、その後、1940年12月17日決定の臨時JES第138号で、それぞれ現在と同じ 625mm×880mmと、765mm×1,085mmに改正され、今日に至っております。

また、「紙の仕上寸法」はA列、B列ともに 0番から12番までを制定。寸法表示にはメートル法が適用され、A列0番の面積が 1m2、B列0番が 1.5m2に決定されました。

規格統一にあたっては、従来日本で馴染まれてきました四六判菊判系統を考慮するとともに、諸外国の例を調査して検討され、A列にはドイツ規格のA列系統をそのまま採り入れ、B列は日本独自の寸法としました。

A列は菊判に該当し、B列は四六判を考慮したもので、面積比をA列の 1.5倍とし、幅(横)と長さ(縦)比を1:√2でB列0番を求め、1035mm×l456mmと設定。これを基本とし、あとは長辺を半裁にしていく方法でB列 1番~12番までとなっていますが、この寸法は、B1判が四六判の大きさにほぼ近く好都合であったので、B列も採用しA列とB列の2本立てとなったものです。

なお、1941年 4月 1日からは商工省令によって、新聞用紙を除き、書籍・雑誌をはじめ全部の印刷物・用紙類は、いっさい規格判の寸法に仕上げなければならなくなりました。

 

戦後、JESはJISに引き継がれますが、若干改訂され、A列とB列とも 0番~10番までとし、11番、12番のような極めて小さい寸法は国の規格として規定する必要はないとして削除され、現在の「紙加工仕上寸法」となっています。

 

参考文献

  • 成田潔英編 「最新・紙業提要」 洋紙寸法の由来 丸善㈱発行…JISハンドブック 紙・パルプ(日本規格協会)に転載
  • 金児 宰著「洋紙と用紙」 光陽出版社

 


更新日時:(吉田印刷所)

公開日時:(吉田印刷所)