和紙紀行・夢の和紙めぐり(2) 〈資料〉 越前和紙関係

文献などから引用したものですが、文献名・著者が不明なものがあります。

調査しており判明次第、明確にします。それまではご容赦をお願いします。

 


 

越前紙

世界大百科事典(第2版)CD-ROM 日立デジタル平凡社

代表的な和紙産である福井県今立郡今立町で産する手すき和紙の総称。奈良時代の正倉院文書や平安時代の延喜式によれば,古代の越前国は有力な産紙国の一つであった。しかし,代表的な産にまで発展するのは,中世に優れた奉書紙をすくようになってからと思われる。越前奉書がはじめて文献にあらわれるのは,興福寺の大乗院尋憲の《尋憲記》の元亀4年(1573)のくだりで,越前にて奉書かみを購入したとある。奉書紙は武家社会を代表する紙ともいえ,各ですかれたが,江戸時代の《紙譜》(1777)など諸書が物語るように,越前の岩本,大滝,新在家,定友,不老(おいず)の 5ヵ村ですき出す越前奉書は日本一と評価された。越前では奉書紙,檀紙,杉原紙などの楮紙のほか,鳥の子紙,間似合紙,薄様などの雁皮紙,あるいは内曇,すき模様紙などの装飾的な紙をすいており,幅広い技巧をもっていた。その高い技術を見込まれて,各藩の御用紙や藩札などをすき出した。明治以後,新たに雅邦紙(がほうし)などの日本画用紙を開拓し,大画面に応じた3間(約5.5m)四方の巨大な紙や,中絶していた麻紙(まし)の復興など新しい工夫を行った。そのほか襖紙を飾る各種各様のすき模様紙(美術小間紙)の技術を開発したり,ヨーロッパのためすきをとり入れた局紙をすくなどの創意工夫に努めた。現在では,越前奉書,小間紙,朕紙,局紙,画仙紙,しわ入り檀紙などをすいている。1968年に重要無形文化財〈越前奉書〉の保持者に岩野市兵衛が指定されたが,76年に死亡。また76年には,越前和紙は伝統的工芸品に指定されている。

柳橋 真 (c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.

 


 

奉書紙

世界大百科事典(第2版)CD-ROM 日立デジタル平凡社

中世に始まり,とくに近世になって最高の公文書用紙として盛んに漉れた楮紙。公文書の形式に,将軍など上位の者の命令を,直接その名前を出さずに,下位の者が仰せを奉って書く〈奉書〉という間接的な方法があった。その奉書を記した上等な楮紙をも,しだいに奉書と呼ぶようになった。江戸時代に各藩の御用漉きなどを中心として,数多くの産で奉書紙を漉き出したが,そのなかで日本一といわれるほど高い評価を得たのは,越前の5ヵ村から漉き出された越前奉書であった。奉書には大きさで大中小,あるいは大広,中広などの違い,装飾方法によって五色奉書,縮緬(ちりめん)奉書,打曇(うちぐもり)奉書,流(すみながし)奉書,絵奉書など多くの種類があった。明治時代以後,木版の浮世絵版画用紙など,新しい用途を開拓して,今もなお福井県今立郡今立町に伝統的製法が伝えられている。

柳橋 真 (c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.

 


 

越前奉書紙

室町時代になって使われだした、公文書用紙を奉書紙といいます。将軍や執権が発する命令書は、「下」と記して与えるので、下文(くだしぶん)あるいは奉書と呼ばれていました。厚手で寸法も大きい奉書紙は、越前で古くから漉かれていました。江戸時代に編纂された「和漢三才図会」によれば、「越前府中より出るを上となす」と記され、全国の紙の産を記した紙譜」によれば、 奉書類 越前より出る所、宮家の奉書に用いるに堪えたり。故にこれを奉書という。(中略)

越前の国。岩本、大滝、新在家、定友、不老(おいず)という五箇村より漉き出すを上品とす。と評価しています。

さらに出羽の学者である佐藤信淵は、その著書である「経済要録」の中で、「凡そ貴重なる紙を出すは、越前国五箇村をもって日本第一とす」と絶賛しています。

このように越前五箇村の和紙は、その古い伝統とともに、品質、紙漉き技術の点でも他国を圧倒する評判を勝ち得ていたのです。

 


 

始祖神話の国・越前

京を東へ下り、山科を過ぎると穏やかに波打つ琵琶湖が見えてきます。東岸を北上し、彦根、長浜を経て、やがて愛発(あらち)の関を越えると、「み雪降る」と万葉集に歌われた「越の国」に入ります。

越の国は後に、越前、越中、越後の三国に分かれますが、越前福井は「越の道の口」すなわち越の国の入り口と言われていました。もっとも都に近かった越前は、畿内文化の影響も強く受けた先進域でした。

 


 

紙の始祖神伝説

継体皇が男大邊王としてまだ越の国にいた頃、越前今立の五箇村を流れる岡太(おかもと)川の上流に、美しい女神が現れました。女神は村人に、「この辺りは山間の僻で、田畑が少ないが、良い水に恵まれているので紙を漉くのが良い」と言い、上衣を脱いで傍らにかけ、紙漉きを教えました。村人が名を尋ねる.と、川上に住む者だと告げただけで姿を消しました。村人はこの女神を「川上御前」と呼んでこれを崇め、そのに神社を祁り、以後紙漉きを代々伝えたというのです。

この岡太神社は、今立町の大滝神社の後の山項近くに、奥の院として合紀されています。祭神は、材11如釦ど邦,胴が彬,水波能売命は火の神の暴威鎮圧のため、伊耶那美命イザナミノミコトの尿から生まれた水の神で、川上御前にあたると考えられています。水分神は山項の水(水)を配る神で、飲料水や灌慨用水を適正に配分する神です。何れにしろ、岡太神社は水神信仰の社でありその霊水で紙漉きを営んでいることに対する感謝を顕しているのでしょう。

大滝神社は中世には大滝寺と称し、台宗平泉寺の末寺として、辺りの白山信仰の中心となります。室町時代に入ると、大滝寺はこのの紙座の中核として強い権力を維待していましたが、 織田信長の一向一撲の討伐の際の兵火で焼失します。

岡太神社・大滝神社の所在は、かつて越前国国府が置かれた武生市の東部近郊に続く今立郡今立町大滝。いわゆる越前和紙のメッカであり、わが国の紙のもっとも古い始祖伝説がこのにあるのです。

 


 

越前五箇村

中世、五箇村の精神的支柱である台宗大滝寺は足利将軍の管領細川氏や越前国主朝倉氏の庇護により、多くの土の寄進を受け、その域一体に広大な領を有して権力者として存在し、また、紙座を組織していました。

五箇大滝の三田村家は、座の中心人物として、朝倉氏の保護の下に、奉書紙を独占的に漉いていたようです。

元亀元年(1570年)、織田・徳川連合軍は近江姉川の合戦で浅井・朝倉軍を破り、さらに正元年(1573年)、織田信長は朝倉義景を一条谷で破り、朝倉家を滅亡させ、越前を領国とします。

社会情勢の変化を察知した三田村家は、織田信長に対して朱印状の公布を求め、信長は正元年、二家0石保障の朱印状を下しています。「中世に於ける呻製紙業と紙商業」(小野晃嗣著)によれば、この時以来三田村家の中央政府への接触が始まるのです。

引き続いて正3年、信長は越前一向一撲を弾圧します。越前府中で一撲勢を撃破した際には、一府越中は空き所なく、死骸ばかりにて、」という惨状であり、捕虜の12,000人は老若男女を問わず切り殺したと伝えられています。越前一向一挨の討滅の後、越前の支配に当たった前田利家、佐々成政ら府中三人衆は、大滝寺紙座に越前の半国という広大な域における商業活動の独占を保障しています。

信長は、当時すでに座を破壊し、楽市楽座制の政策を指示していた時期でした。一向一撲の討伐に協力した台宗への恩賜の意昧もあったのでしょう。

正9年(1581年)、論功行賞によって府中一体を手に入れた武将佐々成政は、三田村家に対して自国内での奉書紙の売買の独占権を認めます。

正10年の本能寺の変の翌年、羽柴秀吉は賎が嶽の合戦で越前北の庄の領主柴田勝家を、さらに佐々成政を討ち、越前を丹羽長秀の領とします。三田村家は長秀が領に入ると、すかさず奉書紙の売買の独占権を従来と同様認めさせています。

三田村家は営業独占権を得るとともに、奉書紙に押す印章の使用を独占するのです。信長から七宝印、秀吉からは桐の印を受け、紙座構成員が生産した奉書は全て、三田村家が独占した印章を打ちます。印章は品質の保証でもあったので、印章のない奉書は「似せ紙」として厳重に取り締まります。漉き出された紙は全て、三田村家に引き渡す規定としていました。こうして三田村家は座内の生産と販売を支配していきます。

江戸時代に入っても、越前の領主はことごとく三田村家の独占権を保障しています。やがて三田村家は徳川暮府の御用紙屋となり、江戸大伝馬町に屋敷を割り当てられ、暮府への紙を独占的に引き受けるようになるのです。

時代の流れを的確に読み、政策に逆行している権利も、支配者に巧みに取り入って保護させる。三田村家の事業家としての手腕には目を見張るものがあります。

「日本技術の社会史(第一巻(高野利彦著)によれば、江戸中期に入ると、三田村家以外にも紙の仲買いを専門に行う商人が育ってきます。彼らは、不振に陥りだした漉き屋に対し、原料である堵の購入資金を前貸しし、場合によっては紙漉きの道具までも質として預かります。一度資金の前貸しを受け、紙製品で返済する関係を結んでしまうと、漉き屋は下請け関係となり、もはや独自に生産量を決定できず、商人よりノルマとして生産量を規定されるようになっていきます。

しかし、これら新興の商人たちは、命三年(1783年)に始まった大飢饉により、資金の回収不能に陥り、飢餓民の打ち壊しを受け、やがて倒産していくのです。 越前の紙漉きは、多くの試練の中でも、最高の水準を維持していました。明治元年、維新後の明治政府は、各藩が勝手に発行していた藩札の統合と、外国への銀貨流出を防止する目的で、統一紙幣である太政官札を発行します。その時、紙幣用紙の製造を一手に引き受けたのが、越前五箇の紙郷だったのです。三田村家の当主は、現在も大滝で製紙業を営んでおられます。

 


 

手漉きの和紙を越前に訪ねる

「にほんのにほん・和紙」 ㈱千趣会 発行(1999年2月)

越前和紙の里として知られる今立。

美しい姫によって紙漉きの技術を伝えられた人々は、

清らかな水と厳しい冬の寒気の中で

美しい和紙を漉き続けてきました。

ここでは今もなお伝統の手漉きによって

さまざまな和紙が作られています。

五箇と呼ばれる五つの村を流れる川。

その川に沿って今も多くの紙漉きの家が並び、

守り伝えられた技術で世界に誇る和紙を生み出しています。

福井県今立町。この土にある五つの村、不老、大滝、岩本、新在家、定友は古くから五箇と呼ばれ、美しい水に恵まれた越前和紙の里として知られています。約1500年前、大滝の岡太川上流に美しい姫が現れて村人に紙漉きの技術を伝えたという伝説があります。村人はこの姫を川上御前と呼び、紙祖神として岡太神社(大瀧神社)に奉りました。そしてその教えどおり紙漉きの技術を守り伝えて現在に至っているのです。大瀧神社の本殿・拝殿は江戸時代の建築の粋を集めて保14年に再建されたもので、重要文化財に指定されています。祭礼は春と秋に行われ、特に春祭りは「神と紙の祭り」として五箇の里をあげて賑わいます。越前和紙の総合卸を手がける清水和紙株式会社の清水英二社長に越前和紙の歴史と現状をうかがいました。

「日本に紙が伝わった頃、越前でもすでに和紙が漉かれていたと伝えられています。鎌倉時代には紙座(組合)が設けられ、評価の高い奉書紙や紙の王と称賛される鳥の子紙を漉いています。明治にはさらに改良が加えられ、後に横山大観やピカソなどの芸術家からも熱烈に支持されるほどの和紙を生み出しました。

最近ではむしろ欧米での人気が非常に高く、アーティストがエッチング用に使ったり、レターヘッドやインテリア用として評価されています。戦後、洋紙に押されて廃れた和紙の生産もありますが、ここ越前は今でも手漉きを続けているところも多く、揺るぎない位を占めています。まさに日本一の和紙の里なんです」。

手漉き和紙を生産している岩野平三郎製紙所を訪ねました。初代の岩野平三郎氏は紙漉きの鬼、名紙匠と呼ばれ、古代麻紙の復元をきっかけに雲肌麻紙、大徳紙などのすぐれた日本画紙を創製した達人。特に鳥の子紙に加飾する打曇や流しに独自のすぐれた技術を持っていました。こちらでは現在も大勢の職人によって手漉きで美術工芸紙を製造しています。原料の楮を大釜で煮熟、水洗い、水につけた籠の中で不純物を手で丹念に取り除くちり取り、束になった繊維を叩いてばらす叩解、そして漉桁で挟んだ漉簀を使って、流し漉きという方法で紙を漉きます。岩野平三郎製紙所で作る和紙は大判なので二人一組で漉きます。原料を汲んで漉桁を動かして繊維を平均にならし、漉き上げた紙を簀からはずして紙床板に重ねていきます。その後、紙の水分をしぼり取り、一枚ずつ干し板に張りつけて乾燥させます。干し板には木肌がなめらかな銀杏の雌の木を使うとのこと。手漉きは漉く人の手の動きがすべて。その日の体調や感情までが紙に表れるといいます。また、二人が呼吸ぴったりに動かなくてはなりません。相性も大きな要素ですが、長く組んでいると相手の機嫌まで手に取るようにわかるそうです。紙漉きとはそれほどデリケートな仕事なのです。

平成九年、福井県の無形文化財に指定された9代目岩野市兵衛さんは、生漉奉書と呼ばれる手漉き越前奉書紙を漉く伝統工芸士[2000年 6月、国の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される)。先代は人間国宝八代目岩野市兵衛氏。水上勉や津村節子の小説のモデルにもなった人物で、彼が漉いた紙はピカソも愛用したそうです。奉書紙とは室町後期に生まれた楮繊維の紙で越前五箇が代表的な産。楮の繊維は最も長いため奉書紙は強靭でしなやか、独特のふっくらした肌合いが特徴の紙の元祖です。古くから公家や武家、寺社などの公用紙として用いられ、現在では高木版画用紙としても愛用されています。生漉紙とはパルプなどを混ぜず、 100%楮だけを使用した紙のこと。市兵衛さんはこの生漉奉書一筋の紙漉き職人なのです。

「父は国宝と呼ばれるのを嫌っていましたが、私も自分をただの職人だと思っでいます。紙漉きの仕事は死ぬまで一年生、死んでから名人という名がついてくるものでしょう」と市兵衛さん。意外にも先代から特に厳しい修業をさせられたことはないといいます。ただ、儲けを考えてほかの紙に目移りすることだけはするなと叩き込まれたそうです。生漉奉書を漉く作業は気が遠くなるほど手間と根気のいる仕事。一日に漉くことのできる枚数も限られています。

「紙漉きのどの工程においても手間と時間を充分かけること。無理せず、ごまかさず、決して急いで作らない。これが私のモットーです」。1987年、ボストン美術館の下収蔵庫から葛飾北斎の原画が見つかりました。それを当時と同じ紙で版画に再現するための紙を漉いてほしいという依頼が市兵衛さんにありました。それは 100分の11ミリという極薄の紙。しかも版画を刷るためには何度もバレンをかけるため、特に丈夫でなければなりません。非常に困難な仕事でしたが、越前和紙職人の先祖が作ったものを自分が作れないのは情けない、と引き受けました。他の注文を断り、何日もかけて6千枚を漉き上げ、刷り上がった版画を見たときは最高に感動したと市兵衛さんは語ります。

「岩野さんの紙だから美しい版画が刷り上がったといわれたときがいちばんうれしい。毎日、今日は昨日よりもいい紙を漉きたいと思っているんです」。自分が漉いた奉書紙以上の紙を作る人が現れたら潔く紙漉きをやめるという市兵衛さん。しかし、日本国内のみならず海外からも市兵衛さんの紙を、という熱烈なラブコールは絶えません。市兵衛さんが紙を漉く日々はまだまだ続きそうです。

 


 

越前和紙(福井県今立町 今立和紙)

福井県の武生市は、今から千数百年前の奈良時代に越前国の府があった古い町として知られている。この武生からバスで2~30分のところに、全国の手すき和紙の25パーセントをつくっている今立町がある。

 

和紙のふるさと

福井県には、第2次世界大戦(1939~45年)前までは、9か所の和紙産があったが、今では今立町と小浜市の2か所になってしまった。1985年の事業所は、今立町97、小浜市7だから、ほとんど今立町だけといってもいい。

今立の和紙は、中世以来、「奉書紙」「檀紙」「鳥の子紙」の産として知られ、その優れた技術は全国各に伝えられて、新しい紙産を生み出してきた。

この有名な「和紙のふるさと」今立について、主に歴史・理的なところから詳しくみていこう。

「紙の神」の言い伝え 今立町は、JR北陸線武生駅から東へ約7キロの谷あいに位置している。かつては武生駅と電車で結ばれていたが、1981年(昭和5年)に廃線となってしまった。

和紙産は、この今立町のうち「五箇方」と呼ばれている大滝・不老・岩本・新在家・定友の5つの集落(全体で約1平方キロ)に集まっている。

五箇方の中心は大滝で、大滝神社の奥の院にある岡太神社には、全国でも大変珍しい「紙の神」の川上御前(水波能売命)が祭られている。

五箇の人々が「紙の神」として大事に守ってきた川上御前については、こんな言い伝えが残されている。

「男大迩王子(後の継体皇)が越前(今の福井県)におられたころの話じゃ。岡本川の上流にそれはそれは美しい姫が現れて、こういったんじゃ。「この村里は谷間にあって田畑も少なく、さぞ、暮らしに難儀をしていることであろう。しかし、この谷間の水は、いかにも美しい。この水で紙をすき、暮らしを立てるがいい」と、姫は、里びとに紙のすきかたをねんごろに教えたんじゃ。喜んだ里びとが、「あなたさまのお名まえは?」と聞くと、「岡本川の川上にすむ者」とだけ答えて、消えてしまったそうじゃ。里びとたちは、それ以来、紙すきを神わざとしてのちにいたっているのじゃ……」(今立町商工観光課「越前和紙の里 今立」)

こんな言い伝えがあるうえに、奈良の正倉院文書によると、越前国は紙を納める14か国のなかに入っており、越前国の国府のあった武生に近いことも考え合わせると、今立は奈良時代の昔から和紙の産だった可能性が強い。

 

中世から近世の歩み

しかし、今立の和紙が歴史上に現れるのは鎌倉時代以後で、室町時代に入ると一層はっきりしてくる。

今立の北、約12キロの一乗谷に戦国大名の朝倉氏が城を移し、約100年間(1471年~1573年)越前を支配したが、朝倉氏は今立の紙づくりをあつく保護した。そして、それ以後も、今立はそれぞれの時代の支配者の保護を受けてきた。

こうして奉書紙・檀紙・鳥の子紙が中央に送られる一方、今立和紙の優れた技術は、僧侶などによって密かに各に伝えられた。今立は、和紙の全国的な技術センターのような役割を果たしていたともいえる。

江戸時代には、今立は福井藩に属し、有力な紙屋四軒が「御紙屋」として、福井藩で使う紙を漉く特権も与えられた。うち一軒(大滝の三田村家)は、幕府の御用紙も扱うようになった。

これらの有力な紙屋を中心にして、次第に専業の和紙集団が作られるようになった。そうした紙すき屋の数は、1789年(寛政1年)には162軒に達し、総戸数の46パーセントを占めていた。また仲買人も、1832年(保3年)には26軒あって、次第に今のような和紙業の密集ができてきた。

 

「局紙」の大ヒット

やがて江戸時代が終わった。1868年~71年(明治1年~明治4年)まで、新政府の紙幣(太政官札)は、すべて今立で漉いた紙を使い、今立の和紙産業は好景気に湧くことになる。

しかし、こうした-時的な好景気も、政府自身で紙幣を作るようになるとともに、不況を迎えることとなる。原料の値上がりやほかの和紙産との競争のなかで、今立の和紙産業は、苦しい時代に入った。

このとき、今立では、素晴らしい新製品を作りだした。1875年(明治8年)に今立の紙すき職人数人が、紙幣づくりのために大蔵省印刷局に雇われていた。このうちのひとり、山田藤左衛門が今立に帰ってから開発した「溜めすき」(奉書紙などは「流しすき」で漉く)で作った紙がそれで、印刷局の局の字をとって「局紙」と名づけられた。

この紙は、1892年(明治25年)ころから一般の紙すき屋でも漉かれるようになり、1908年~39年(明治41年~昭和14年)にかけては、今立の和紙生産高の40~45パーセントを占めるほどヒットした。 局紙は、卒業証書や表彰状・証券・株券用紙として使われているものだが、このころの全国の局紙のほとんどが今立で作られた。

「大正」時代に入ると、局紙のほかに、「ふすま紙」の生産が伸び、さらに「昭和」に入ると、「美術小間紙」が伸びてきて、今に続いている。

 

古くて、新しい今立和紙

全国の和紙産の大半が、消えかかったり、規模を小さくしているなかで、今立は力強く生き残っているが、今はいったいどんな規模で生産が行われているのだろう。

福井県和紙工業協同組合の新しい統計でみると、事業所の数は、手すき22、機械すき50、加工15、兼業4、合計91か所、となっている。働いている人は、1事業所平均8.2人で、全体では、約750人の人達が紙づくりに励んでいる。

主に作った紙は、

手すき和紙=ふすま紙・美術小間紙・特殊印刷用紙など、

機械すき和紙=ふすま紙・かべ紙・小間紙類・仙貨紙など、

加工紙=ふすま紙加工・かべ紙加工・小間紙加工など、となっている。

もともと、和紙の原料は、コウゾ(楮)・ミツマタ(三椏)・ガンピ(雁皮)だが、最近では、製品の値段を押さえるために、パルプ・マニラ麻・古紙を混ぜて使っている。主な原料をどこから買っているかをみると、コウゾは高知県・茨城県、ミツマタは高知県、ガンピは和歌山県・岡山県、パルプは約3分の2を外国から輸入している。

製品は、主に紙すき屋から直接、あるいは元の問屋を通して大都市の問屋に渡り、そこから小売店へというルートで出荷される。

やはり、東京・大阪・名古屋・京都の大都市だけで、約80パーセントの製品を使っている。

昔の今立の代表的な製品だった手すきの奉書紙・檀紙・鳥の子は、今では全体のの1パーセント程度しか作られていないが、伝統的な技術を受け継いでいる職人・名人が多く、品質の良さは全国的に知られている。これを求めて、わざわざ今立を訪れる有名な画家や書道家も多いということだ。

こういう紙すきの歴史を勉強する場として、町では「和紙の里会館」を作り、観光や見学の場所として「パピルス館」(パピルスは、パルプや紙のことをラテン語でいったもの)を作っていて、手すき和紙を作る作業も、見学者に実際にやらせてくれている。

古くて、しかし新しい伝統産業でもある今立の和紙づくりを知るためには、こうした「和紙の里会館」や「パピルス館」ができたことはプラスであり、将来に向けても大きな期待をもたれている。

 


 

日本経済新聞広告から抜粋(1997年12月19日)

古さと新しさに支えられ、越前和紙は輝き続ける。伝統の継承と機械化による近代化。対照的なテーマであるが、うまく両者を生かすことで産全体が発展することがある。手漉き業者と機械漉き業者が共存し、それぞれの役割を果たしている。

 


更新日時:(吉田印刷所)