文献などから引用したものですが、文献名・著者が不明なものがあります。
調査しており判明次第、明確にします。それまではご容赦をお願いします。
細川紙 ほそかわがみ
世界大百科事典(第2版)CD-ROM 日立デジタル平凡社
埼玉県比企郡小川町および秩父郡東秩父村ですかれている強靭な楮紙。《正倉院文書》によれば,武蔵国は 774年(宝亀 5)に紙すきが行われている。地元の伝承によれば,比企郡平村の慈光寺には 871年(貞観13)の写経が残っており,この写経用紙を供給するところから,この地の紙すきが始まったという。1668年(寛文 8)の資料では,すでに比企,秩父,男衾(おぶすま)の 3郡における製紙業の発展はめざましい。当時は大河原紙と称して,秩父郡の安戸村が中心であった。それから 160年後の《新編武蔵風土記稿》(1828)によれば,小川紙と称して,平村,腰越村などですき,小川村に問屋がいて,中心地となっている。初めは天領であるため,代官に税を払えば,江戸府内の販売は自由であったが,1813年に江戸十組問屋以外に販売することが禁じられ,紙の価格を問屋に一方的に取り決められた。現在の小川紙の内容は,東京の需要を反映し江戸型紙原紙,障子紙,雲竜紙,ガラス繊維入り紙,書道半紙,画仙紙,黒四つ塵紙(ちりし),大和塵紙,鯉幟紙(こいのぼりがみ),文庫紙(ぶんこし),パッキング原紙などと種類が多いが,その中心となるのは細川紙である。細川紙は本来,和歌山県伊都郡高野町細川ですき出した紙といわれる。細川紙は紙の地合がしまって,紙面にけばだちが生じにくく,きわめて強靭な楮紙で,とくに地元に近い群馬楮を使用したものは,淡黄色の明るい紙色と光沢を示して,独特の魅力を有する。細川紙の用途は,かつて大福帳,土地台帳などであったが,現在は文庫紙(畳紙 (たとうがみ) ),和本用紙,書画用紙などである。昔,晴天の日の盛んな板干しの光景から,〈ぴっかり千両〉の言葉が広まった。現在,槻(つき)川に沿い,小川町と東秩父村ですく業者により細川紙技術者協会が結成されている。1975年に重要無形文化財に総合指定され,細川紙技術者協会は保持団体に認定された。
柳橋 真 (c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.
小川和紙…細川紙
埼玉県のほぼ中央に、外秩父の山やまに囲まれた小さな盆地がある。その盆地にある小川町は、昔から和紙の産地として知られ、かつては、江戸にもっとも近い和紙の一大産地として栄えたところだ。
江戸に近い立地条件
小川の和紙が、いつから作られ始めたかは、よく分かっていない。しかし、奈良の「正倉院文書」には、774(宝亀5年)に「武蔵国(主に今の東京都・埼玉県)紙480張、筆50管」が納められていたという記録があり、当時の武蔵国で、すでに紙と筆を作っていたことが分かる。
当時の武蔵国には、朝鮮からの渡来人が多く住んでいたので、この人達の手で紙すきの技術も伝えられ、広められたと考えられている。
その後、古代・中世を通じて、小川の和紙づくりがどのように発展していったかについての記録はない。
小川の和紙生産が大発展をとげるのは、江戸時代に入ってからだ。1603年(慶長8年)に、徳川家康が江戸幕府を開くと同時に、江戸は政治・文化の中心として人口が増えはじめた。特に、1642年(寛永19年)に、三代将軍家光が、諸大名の参勤交代を義務づけてからは、各藩の屋敷が江戸に建てられるなど、江戸の人口は急増した。同時に、紙の需要も増えていった。
こうして、江戸に近い小川(東京から、約68km)は、和紙生産の中心地として発展するようになった。
江戸時代の小川和紙
かつて、全国には、多くの紙生産地があり、今でも幾つかの有名な和紙産地が和紙を作っている。
ところで、和紙産地としての小川は、それらの産地と、やや違う性格を持っていた。それは、ほかの和紙産地は、藩の力で守られ、発展したところが多かったのに対して、小川の周辺はどこの藩にも属さない天領(幕府の直接支配地)や旗本領として細かく分けられていたため、農家の副業として発達してきた小川の和紙づくりは、自らの努力で発展の道を切り開かなくてはならなかったのである。
山間の小さな盆地のため、田や畑が少なく、荒地が多い土地の貧しさから生まれた和紙づくりだったが、こうした厳しい環境は、逆に小川和紙発展の原動力にもなったともいえる。
寛永年間(1624年~28年)に、年貢の代わりに紙を納めることが許され、さらに1668年(寛文8年)には、江戸で紙を直接販売することが許されるようになった。
これがきっかけになって、小川周辺で紙をすく戸数は、急激に増え、江戸時代の最盛期には、750戸にも達していた。
小川町には、昔、使われた「ピッカリ千両」という言葉が、今も残っている。ピッカリとは、よい天気のことで、天気さえ良ければ、紙の天日乾燥がはかどって、いくらでも儲かる、という意味である。同時の和紙づくりの盛況ぶりがうかがわれる。
風船爆弾から無形文化財まで
近代になってからも、小川の和紙産業は、順調に伸びてきた。
1885年(明治18年)には、紙すき戸数は1500戸、働く人は5450人、生産量は13万9200貫(約522トン)にもなっている。
「昭和」期に入ると、県の職員が小川に駐在して指導に当たるようになり、製紙機械が入るなど、科学的な製紙技術が取り入れられた。
1941年(昭和16年)に太平洋戦争が始まると、小川の和紙は、思わぬところで注目された。戦争中は、砲弾の火薬包装紙に和紙が使われていたが、それだけでなく、珍発明ともいえる風船爆弾に、小川の和紙が使われるようになった。
これは、和紙を張り合わせて作った気球に水素ガスを詰め、爆弾を吊して偏西風に乗せ、アメリカ本土に落とそうというものだった。強制的に動員された女子(中)学生たちの手で作られた風船爆弾が、やがて打ち上げられ、そのうち数個がアメリカ西海岸に達して、山火事を起こさせたという。
敗戦後は、機械すきの洋紙に押されて、和紙の需要が減るなかで、小川の和紙は、1961年(昭和36年)ごろから機械すき和紙の生産に切り換えられていった。
和紙の需要が減ったうえに、機械すき和紙にも押され、手すき和紙は、農家の副業として、ほそぼそと続けられるようになった。
ところが、最近になって、手づくりの伝統的工芸品が見直されるようになり、小川の和紙は、再び注目されるようになった。
特に各種の手すき和紙のうちで、「細川紙」(江戸時代に和歌山の細川村で漉かれた紙を手本にして作られた小川和紙の主力商品)の技術は、1978年(昭和53年)に、国の重要無形文化財に指定されるなど、息を吹き返すようになる。
真冬の厳しい作業 和紙づくりは、真冬の厳しい寒さと、水が冷たければ冷たいほどいいものができるという、大変なな作業の連続なのである。しかも、このつらい作業を朝はやくから、夜おそくまで続けなければならない。
最近では聴かれなくなったが、小川では、いつのころからか、こんな紙すき歌がうたわれていた。
嫌だ嫌だよ 紙すきは嫌だ
夜づめ早おき 水仕事
月は傾く 夜はしんしんと
ふけてまだ打つ 紙きぬた
これほど大変な手すき和紙づくりを、コウゾ(楮)の刈り取りから順を追っていくと、次のようになる。
- コウゾかしき=12月から1月にかけて、コウゾを刈り取り、1メートルくらいに切る。それを、釜で2~3時間蒸す。
- コウゾむき=蒸したコウゾを、熱いうちに皮を剥ぐ。これを乾燥させたものを黒コウゾという。
- コウゾひき=黒コウゾを川水に漬けてふやかす。柔らかくなったものを、素足で踏んで表皮をもみ落としたところで、一本一本包丁で黒皮を削って、白皮にする。
- コウゾ煮=白皮を大釜に入れて、ソーダ灰や木灰を加えて煮る。
- コウゾさらし=煮た白皮を冷たい流水につけアクを抜く。棒ですくいあげながら、ついたごみなどをとる。これは、おもに女のひとの仕事である。
- コウゾ打ち=アク抜きした白皮を、板の上で叩いて(これが、紙すき歌に出てきた「紙きぬた」を打つ作業である)、さらに細い繊維にする。いまは機械作業が多くなった。
- トロロアオイ叩き=トロロアオイの根を木づちで叩いて、粘液を取る。この粘液は、紙すきに欠かせないもので、繊維を絡み合わせる糊になる。
- 紙すき=叩いた楮とトロロアオイをすき船に入れ、よくかき混ぜて、1枚1枚すきあげる。
- 紙搾り=すいた紙を積み重ねて、自然に脱水させたあと、てこを応用した搾り機で、さらに水分を搾る。
- 紙干し=搾り終わった紙を1枚1枚松板に張り付け、天日で干す。
- 紙揃え=きず・むら・ごみなどがないか、1枚1枚丁寧に検品し、選別する。
- 紙けずり=選別し終わった紙を、決まった大きさにカットし、完成する。
後継者問題に悩み
これだけたいへんな作業が続くために、いくら小川の和紙が見直されているといっても、和紙づくりに携わる人は、急速に減ってきている。
1970年(昭和45年)の601人が、80年には373人に減っているほどだ。残った人達も、多くは50歳以上の人達で、若い世代が育っていないことが悩みになっている。
手すき和紙は、家族だけで作業をすることが多く、辛い仕事に加えて、「首ふり3年、腰ふり3年」といわれるくらいに、熟練した技術がいるため、小川の伝統的な紙すき技術を伝えていくのは、なかなか大変なことのようだ。