和紙紀行・夢の和紙めぐり(11) 〈資料〉 石州和紙関係

津和野[町]

世界大百科事典(第2版 CD-ROM版)…日立デジタル平凡社から

島根県西端,鹿足郡の町。〈山陰の小京都〉と呼ばれる旧城下町で,山口線が通じる。人口6541(1995)。13世紀末の吉見氏以来,吉見氏14代,坂崎氏 1代を経て,1617年(元和 3)亀井氏が入府し,この後亀井氏12代の城下町となった。亀井氏 2代藩主茲政(これまさ)による殖産で,石見半紙(石州半紙)を特産とする紙業が栄えた。また東方にある青野山東麓の沼原(のんばら)(沼であった)の開拓により水田が開かれた。現在も石見方南西部の農山村域の中心として木材,和紙などの集散となり,沼原のサトイモ,津和野川のコイ,マスなどが知られる。酪農も進んでいる。側溝の清流にコイが泳ぐ中心街の殿町をはじめ,景勝や史跡が多い。津和野城(三本松城)跡(史),津和野出身の文豪森鴎外の旧居(史),啓蒙思想家西周(あまね)の旧居などがその代表である。町の中心付近には日本五大稲荷の一つ太鼓谷稲成(たいこだにいなり)神社があり,開運・産業の神として西日本各の信仰を集めている。津和野駅北方の乙女峠にあるマリア聖堂は,1868年(明治 1)から73年まで明治新政府によって配流・迫害された長崎浦上のキリシタンを記念して建てられたものである。また京都八坂神社を勧請(かんじよう)した弥栄(やさか)神社(梢園社)には鷺舞が伝わり,7月20日と27日の例祭に奉納される。 池田 善昭

 

[津和野城下]石見国南西端の津和野盆の中心に位置する城下町。13世紀末に吉見頼行が津和野に入り三本松城を築き,14代300余年石見西部を支配したが,関ヶ原の戦後長州に移った。1601年(慶長 6)坂崎直盛(出羽守)が津和野に封じられ津和野藩が成立した。坂崎は三本松城に大改修を加え,防塁的山城とし,また城下町の経営にもあたった。02年の検帳によると,津和野川の橋北区に城主の居館,家中屋敷があり,橋南は侍屋敷,町屋敷が混在している。城下の本格的な町割りが行われるのは亀井時代の寛文~元禄期(1661‐1704)といわれ,鷲原,中座,町田,森,後田(うしろだ)に城下町を形成した。鷲原区には百姓,町屋,侍町,足軽町,中間町があり,中座にも足軽町が散見する。町田区は商人,職人,百姓の寄合域であり,森区の中ノ島,堀内は重臣層の居住で,そのほか中間町,足軽町があった。後田区は町人の町となり,津和野の経済的中心であった。1805年(文化 2)の記録では家中上下5464人,町方2540人で,武士階が圧倒的に多いのが特色である。藩校養老館は最初堀内に設けられたが,のち殿町へ移った。津和野藩は1871年 5月率先版籍を奉還し浜田県へ編入され,政治の中心は浜田へ移ったが,養老館はなお石見の文教の中心として残った。 江面 龍雄 (c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.

 

半紙 はんし

世界大百科事典(第2版 CD-ROM版)…日立デジタル平凡社から

和紙の一種。《延喜式》の紙屋院(中央の官営製紙所)の漉簀(すきず)の規格寸法から推定すると,だいたい 1尺 3寸に 2尺 3寸(1尺は約30.3cm)が全紙の標準の大きさだったと思われ,したがってそれを半裁したものが古代の半紙と想像されるが,詳細は不明である。《好古小録》(1795)には古代の半紙の寸法は,縦 1尺ほど,横 1尺 3寸ないし 1尺 4寸と記されている。半紙という名称は《正倉院文書》にも現れているが,広く大衆化して用いられるのは江戸時代で,良質と評判の高かった岩国半紙をはじめとして,山代半紙,大洲半紙,石州半紙など各ですかれた。規格は大半紙,小半紙などに分かれ,各産でも少しずつ違っていたが,標準としては,縦 8寸,横 2尺 2寸の紙を半分に切った縦 8寸,横 1尺 1寸の寸法である。用途は幅広く,明治以後は大量に習字に用いられた。現在,伝統的な半紙としては,広い用途をもつ石州半紙(現在の規格は縦 8寸 2分,横 1尺 1寸 6分)が島根県那賀郡三隅町ですかれている。また書道半紙の産としては,愛媛県川之江市などがあげられる。なお半紙を延紙(のべがみ)の半裁とする説があるが,江戸時代の延紙の寸法がだいたい縦7寸に横9寸で,小半紙とほぼ同じくらい小さな判なので誤りであろう。延紙は柔軟な紙で鼻紙などとして用いられた。 柳橋 真 (c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.

 

改良半紙 かいりょうはんし

世界大百科事典(第2版 CD-ROM版)…日立デジタル平凡社から

半紙は本来,純粋にコウゾのみですいたものであったが,原料不足のために江戸時代から栽培がはじまったミツマタを代用原料とした半紙が盛んに生産されるようになった。まず駿河方でつくられたが,色が赤みを帯びて汁がにじみ,で書くのに不便であった。明治以降,水酸化ナトリウムによる煮熟,さらし粉による漂白によって,すぐれた半紙がつくられるようになり,各に広がった。それを従来のものと区別して改良半紙とよんだが,しだいに木材パルプ等を原料とするものまで改良半紙と称するようになった。 柳橋 真 (c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved

 

民芸紙 みんげいし

世界大百科事典(第2版 CD-ROM版)…日立デジタル平凡社から

民芸運動のなかから生まれてきた各種の手漉和紙の総称。近代の手漉和紙は二つの大きな流れをもつ。一つはタイプライター原紙(典具帖紙(てんぐじょうし)),謄写版原紙(雁皮の薄様(うすよう)),図引紙(ずびきし)(三椏紙)のように工業紙として高価に輸出された紙である。わずかな厚さのむらや,一つのピンホールも許さない厳重な規格によって,漉く技術は限界まで洗練されたが,和紙の美しさは失われた。他の一つは障子紙,傘紙などとして日常生活に供給されたが,生産能率を上げ,価格を安くし,さらに都会趣味に応じるため,鉄板乾燥などの改良策を行い,原料に木材パルプなどを混入し,薬品漂白などで紙を真っ白にするなどの工法が,製紙試験場等の指導で普及していった。このように手漉和紙本来の特色が失われる傾向に対し,知識人の間で批判はあったが,とくに昭和初期から民芸運動を活発に指導していた柳宗悦は強く反対した。柳は1931年に島根県松江市で開催した新作民芸品の展示会のおりに,当時,29歳の安部栄四郎(1902‐84)の漉いた厚手の雁皮紙を賞賛したのが機縁となって,安部の東京における紙の個展や雑誌《工芸》の和紙特集(1933)などによって,民芸紙の内容が整ってきた。それは,コウゾ,ガンピ,ミツマタの未晒紙,植物染紙,粗い繊維の筋などを入れた素朴な装飾の紙などで,装丁,襖紙,色紙,短冊,封筒,案内状などの用途を配慮したものであった。柳はこれらの実践をもとに,自然の素材の美を発揮した和紙を主張する〈和紙の美〉(1933),〈和紙の教え〉(1942)等を発表,この民芸紙の論考にそって,寿岳文章らの研究と実践が続く。その後,民芸紙の試みは八尾民芸紙(富山県八尾町),因州民芸紙(鳥取県青谷町),琉球民芸紙(沖縄県那覇市)などと広がり,現在,和紙産では多かれ少なかれ,民芸紙が生産されるほど普及し,大衆化されている。 柳橋 真(c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.

 


更新日時:(吉田印刷所)

公開日時:(吉田印刷所)