※この記事は、建築家の丸谷博男氏が因州和紙協業組合の塩義郎氏への取材を素に、住宅季刊誌『チルチンびと』に寄せた文章を転載したものです。
和紙が漉き込んでくれた人生を歩む
丸谷博男
和紙は日本人の心の故郷である。
楮、三椏、雁皮などの木の皮から取り出された靭皮繊維が、清流で洗われ、木槌で叩かれ、ほど良い紙の繊維として丹念につくられていく。そして、それを漉き槽に入れていく。この溜め水には和紙製作上の重要な秘術が隠されている。それは簀で漉くために欠かせない粘性のある水であり、繊維と同程度の比重をもつ溶液でなければならない。程良く繊維が散在した溶液を簀で漉くことにより丈夫で味のある和紙が仕上げられるのである。日本の多くの産地では、これにトロロアオイを用いてきた。そのために使用する季節は寒冷期に限られていた。
和紙は専業者を除けばそのほとんどは農閑期の農民の仕事であったからそれで良かった。
和紙の味わいはこうした製作上のプロセスと環境によってつくられてきたものである。
今、和紙は日常品から嗜好品へとその存在が変わられてしまった。手漉きの和紙は工芸品として珍重されるようになっている。そして、実際には和紙という名で手漉きではなく機械漉きで生産され、さらには日本の風土で育った楮ではなく、外国の楮が使用され、さらには靭皮繊維ではないパルプが混ぜられて生産されている。
はたして、和紙とは何処までを和紙と考えたらよいのであろうか。
和紙は、その本来のもつ性質、性能に所以があるはずである。1000年以上の長い年月で培われてきた良さが和紙であるはずである。その良さを失うことなく日本人の紙づくりがさらに発展されていけば、和紙を愛し日本人の眼力と技を愛する人間が納得できるはずである。
鳥取県気高郡青谷は因州和紙の産地であり、産地として千年以上の歴史をもつ。しかし全国の多くの和紙産地と同様に製紙従業者は激減している。もともと因州和紙は全国の産地に較べてとくに特徴のあるものではなく、ごく一般的な書道用の紙、画仙紙、障子紙の類がほとんどであった。
こうした産地にあって、塩義郎さんは昭和30年より、当時高知で開発された機械漉きをいち早く導入し、導入時の様々な困難を乗り越えて、現在では家族の皆さんをはじめ従業員50数名が働く大因州製紙協業組合として力強く和紙の生産に取り組み続けていらっしゃる。
和紙の里因州に育つ
大正15年3月17日鳥取県気高郡山根の農家に長男として生まれたのが塩さん。和紙の産地に生まれ、和紙の生産に従事することは本人の意思を超えた運命のなす業であった。「すべては仏のはからい」といわれる塩さんの言葉そのものが塩さんの人生であり、紙の道における塩さんの歩みは「はからい」以外の何ものでもない。
産地に生まれ育った物が、因習にとらわれず、新しい道を切り拓くためには、その人間の人生を大きく揺るがすほどの出会いを必要とする。塩さんと和紙との取組は、人との出会いの歴史であったということができる。
塩さんは早く父親をなくし、高等小学校を卒業すると和紙職人として出稼ぎに出ていた母親と父親が死んでから中断していた紙漉きを再開することになる。仕事場の改築などを済ませて、実際に稼働したのは太平洋戦争前夜の昭和16年のことであった。
昭和18年、当時の鳥取県商工奨励館(現在の工業試験場)で和紙技術者養成員の募集があり、さっそく応募し高知に2ヶ月間赴任する。
土佐和紙の生産は因州のような家内工業とは大違いで50人くらいが働く工場であった。これには大変驚き、その後の塩さんの和紙づくりの規範ともなっていく。
最後の応召となり入隊し、九州の日向灘で昭和20年8月終戦を迎える。昭和20年10月帰郷、再び母親と紙漉きに取り組んでいく。
価値とは何か、柳宗悦に教えられる
昭和24年7月、民芸運動の創始者柳宗悦が願正寺に約1ヶ月間滞在される。この地に柳さんが来られたのは「妙好人 源左」の調査のためであった。柳氏が源左の存在を知ったのは、鳥取市内の開業医であり民芸運動の先駆者であった吉田璋也を通じてである。
柳氏が来られると、村中にうわさが流れた。「目効きが来た」「ええじいさんが来とる」という話であり、秘蔵していた九谷焼など価値のあると思えるものをかかえて、村人が往来していたという。ところがそれをみても何も言わなかった。訪れた人も仕方なく帰っていく。人によっては玄関先で「何もわからん人じゃ」とはき捨てて帰っていく人もいる。そんな時に、傍らにいた塩さんに「あんなもんもって喜ぶ人間にはならんようにな」といわれたそうだ。
塩さんは柳宗悦がどういう人かは知らなかったが、何かに惹かれ、滞在中何度も訪ねたという。ある時柳さんのところに焼きとうもろこしを包んでもっていった。そうしたらその包み紙を手で広げて「味がいいね。美しいね。」と言われたそうだ。その包み紙とは売り物にならないもので木の皮がはいっていたり、欠点のあるもの。それを褒められた。産地で育った塩さんは、「強いか弱いか、黒いか白いか、厚いか薄いか、高いか安いか」の世界でしか紙を見ていない。その包み紙をみて美しいと言われたのには天地がひっくり返るほどに驚いたというのである。
和紙の原点とは何か、そこから道が開けた
柳氏が帰られて後、塩さんはいろいろ考えあぐねていた。村では若者たちが学校を出ると東京に出ていってしまう状況であったし、手仕事や家内工業の限界を重く感じる時代でもあった。このままではいけない。何とかしなければという焦燥感にかられていた。
ちょうどそのような時に、高知から高岡式という機械漉きのニュースが飛び込みすぐに見に行かれた。その仕組みは単純で自分でもすぐに取り組めるように思えたという。
しかし、柳氏の言葉がそこに重くのしかかる。「味があるね。美しいね。」 そこで機械漉きへの道を歩むべきか、逡巡してしまうのである。
そんな時に、仏教の教えに救われた。法然上人のいう五念門の教えである。礼拝、聞法、読経、観察、念仏。はじめの四つはかたわらに置け、しなければならないことは念仏を唱えることという教えであった。
これを和紙におきかえると、板干しを鉄板干しに、手漉きを機械漉きに合理化してもよい。これらは二次的なもの、これはかたわらに置いてよい。材料が「正定業」であり、手段はなるがままにまかせてよい。材料の働きにこそすがるべきなのである。楮、三椏、雁皮は紙になりたくてこの世に生まれてきている。それを邪魔せずに自然にまかせればよい。
こうして、手漉き和紙から機械漉き和紙への心の道が塩さんにとってようやく開けたのである。
昭和30年、当時のお金にして90万円で機械を購入した。3年は赤字で4年目にして黒字とすることができた。実際に商品になる場合には、機械漉きということでどうしても安く仕入れられてしまったので、履歴用紙、タイプ原紙、そして障子紙を主に納めた。手漉きに較べて3割から7割近くまで安く売っていたという。こうして初めての機械が安定して動き出したのである。
もっといい和紙を もっと安く
塩さんは、再び民芸の原点を考えた。民芸は「美しく」「多く」「安く」が原則。手仕事でも横着して高くというのは違う。良品のままでみんなが使えるようにしたい。坊さんのことを考えても、何故坊さんというと上座に座るのか、それは衣を着ているから。中身は私らと同じ人間である。衣は純粋な価値をもつ。
楮も同じである。楮は楮の純粋な価値をもっている。そこで、表紙を楮で漉き、裏紙をパルプで漉いた紙を合わせることにより、良品を安くつくり出すことができる。そのために2重、3重に漉ける機械を考え出した。 出来上がった紙を吉田先生や芹沢先生のところに持っていった。怒られたらという不安をもちながらであったが、手にしたら喜んでいただけ本当に感激したという。この機械なら壁紙もつくれる。そんなことも考えたが、具体的な形として進む話はその当時には生まれなかった。
壁紙として展開する
家内工業からさらに企業として和紙を取り組むためには、もう一つの展開が必要と塩さんは感じていた。何かとの出会いの必要性を感じていたのである。
そのような思いを抱いていた時に、出会うことができたのが凸版印刷の斉藤氏であった。
凸版印刷はメラミン化粧板やビニルクロス、あるいはフロア材などのプリント(印刷)基材をさまざまな建材メーカーに提供している。世の中のありとあらゆる素材を集め取捨選択していた。塩さんはそのような仕事を経験している人、近代的な大量生産を熟知している人こそが伝統素材、伝統製品を次の時代に生かせると考えていた。この出会いにより壁紙への道が大きく開けていく。
ちょうどその頃、郷里に戻ってきた化学畑出身の三男が、工業製品としての厳しい品質基準を一つ一つ解決していった。そして、それまでに中途になっていた和紙の壁紙化へのみちが斉藤氏の力を得ることによって前に進めることができた。さらに壁紙会社のトミタの社長の勇断を得たこと。全ては塩さんが呟かれる「仏のはからい、楮のはからい」である。
こうして壁紙が世に出て今年で12年ほどになる。和紙の工業製品化が成功し定着したといえる。
これからが真の和紙づくり
機械を手がけた者にしてはじめて、機械では絶対にできないものが解る。1000年、2000年もつ和紙をつくりたいと塩さんは呟く。手で漉き、灰で焚いてつくった和紙には香りがある。和紙の香りのする和紙、そんなあたり前の和紙を改めてつくりたいといわれる。
機械は一枚を圧縮してしまうが、手漉きは重ねてしぼる。そこにふくよかさと温かさが生まれる。鉄板ではなく天日乾燥だからこそ自然の色艶が生まれる。そんな原点をあらためて見つめ直したい。感性をみがいて勉強する以外にない。塩さんの心はさらに燃え続けている。
和紙との出会いによって、塩さんの人生は楮が漉き込んでくれたように思える。和紙という価値が塩さんの人生を価値づけ形づけてくれた、それが塩さんの出会いの人生であった。そして一人の人生が決して一人の話で終わらないところに人間という社会の神秘さを感じるのである。
和紙と人間との出会いは限りない真理を物語っている。