秀吉の栄華描いた屏風見つかる 聚楽第行幸を忠実に
(出所)asahi.com(朝日新聞社):秀吉の栄華描いた屏風見つかる 聚楽第行幸を忠実に(2009年9月11日付)
上越市イベント情報
豊臣秀吉が贅(ぜい)を尽くして京都に建てた「聚楽第(じゅらくだい)」に、後陽成(ごようぜい)天皇が行幸する光景と、御所へ出迎える秀吉の行列を描いた2枚1組の「御所参内・聚楽第行幸図屏風(びょうぶ)」が、新潟県上越市で発見され、市が11日、公開した。秀吉の私邸で政務の場でもあった聚楽第を描いた屏風は、これまで三井文庫所蔵の「聚楽第図屏風」と堺市立博物館所蔵の「聚楽第行幸図屏風」などの3例が知られており、このたび上越で発見された屏風が4例目となる。このほか、東京藝術大学資料館が所蔵する「探幽縮図」にも上記とは異なる「聚楽第図屏風」の模写が含まれている。なお、秀吉の御所参内と、行幸の光景がそろっているのは初めてという。専門家は、完成から8年で破壊され、謎が多い聚楽第に関する「第一級の資料」と注目している。(注)「第」=邸
(聚楽第を出る秀吉の行列(左の屏風)御所から聚楽第に向かう後陽成天皇の行列(右の屏風)=新潟県上越市立総合博物館提供)
屏風は、それぞれ幅3.6メートル、高さ1.5メートル。紙の上に金箔を張り、左は聚楽第を出た牛車(ぎっしゃ)を中心とした行列が右側の御所に向かう様子。牛車には秀吉の桐(きり)の紋がある。一方、右は御所を出て聚楽第に向かう天皇を乗せた輿(こし)と行列だ。
保存状態も極めていい。行列の人々の顔まで見てとれ、通りの店や見物人、トンボを捕まえて遊ぶ子どもなど当時の京のまちの様子が生き生きと描かれている。
後陽成天皇の聚楽第行幸は天正16(1588)年4月14日。この屏風を調査し、上越市で会見した狩野博幸・同志社大教授は「史実に沿って描かれており、秀吉を語る際に今後は欠かせない。歴史の教科書に載る絵画だ」と高く評価する。
制作は、画風などから秀吉死去(1598年)後の慶長年間とみられ、まだ、行幸からさほどたっていないことから、作者(絵師)は行幸を見た可能性もあるという。
上越市には、秀吉を支えた五大老の一人、上杉景勝の居城・春日山城があったが、上杉家は秀吉が亡くなる直前、会津に移っている。見つかった屏風は、民間で取引が繰り返されたとみられ、同市内の所有者が昨年11月、市に調査を依頼し、歴史的な価値が確認された。 屏風は12日から10月4日まで同市立総合博物館で一般公開される。(遠藤雄二)
◇
樋口一貴・三井記念美術館学芸員の話 実物ではなく画像で見ただけではあるが、当館の「聚楽第図屏風」が当時の景観の描写に力点を置いているのに対し、新出の屏風は、天皇の行幸という歴史上まれな出来事を記録しており、描かれた目的の違いを感じる。絵画としてはもちろん歴史資料としても貴重だ。
◇
聚楽第…豊臣秀吉が京都に建てた壮麗な邸宅。内野(平安京大内裏旧址)に建築されました。「長生不老の楽しみを聚(あつ)める」意に由来する。1587(天正15)年完成。翌年に後陽成天皇を招き、権勢を示した。おいで養子になった秀次に譲られたが、不和から1595(文禄4)年に秀次は自害させられ、聚楽第も取り壊された。
同館によると、聚楽第を描いた屏風が見つかったのは4例目。2枚1対で、それぞれ高さ1.56メートル、幅3.58メートル。右側に御所、左側に聚楽第が描かれ、後陽成天皇を迎えに行く秀吉の行列と、御所を出発して聚楽第に向かう天皇の行列が向かい合わせになる構図。
物々しい警備とは対照的に、扇子などを売る店や魚売り、竹馬にまたがったり、トンボを捕まえたりして遊ぶ子供たちなど、当時の生活も生き生きと描かれている。
行幸は天正16(1588)年に行われたが、聚楽第は造営後わずか8年で壊された。発掘調査が進んでいないために、不明な点も多い聚楽第の謎を解く手掛かりとなりそうだ。
(2009年10月1日)
参考・引用資料
- ホームページasahi.com(朝日新聞社):秀吉の栄華描いた屏風見つかる 聚楽第行幸を忠実に
- 上越市イベント情報