コラム(30-2) 紙の起源と蔡倫 2

蔡倫の紙

蔡倫のころの中国では、書写材料として絹や木簡、竹簡などが使われていました。後漢書・蔡倫伝にあるように、絹は非常に貴重で高価で、竹簡は手に入れやすいのですが、重くてかさばって持ち運びや、保存に適さず、大量に使うことができず、ともに不適でした。それより安価で便利な樹皮や、麻の切れ端やぼろ、漁網などの植物繊維を原料として紙を作ったのが、蔡倫です。

蔡倫は桂陽(現在の湖南省来陽県)で生まれましたが、生没年不明、字は敬仲。明帝の末の西暦75年(永平18)に宦官(かんがん)として宮廷に仕えたが、皇帝、和帝のときに出世して、中常侍(ちゅうじょうじ、宦官において高い官職)になり、さらに宮中の調度品を製作をつかさどる役所の長官(尚方令、しょうほうれい)に任ぜられました。

蔡倫は97年(永元9)、精巧で堅固な宝剣や宮中用度品をつくって模範とされたり、剛直な気質と意欲的な向学心で知られており、直言と博識で和帝を補佐しました。

この時期に、蔡倫は和帝から「かさばらず費用のかからない書写材料」の研究を命じられたので、研究を重ねて、ついに紙の製法を確立し、実用性のある紙を完成させます(上記参照)。

蔡倫の造った紙は「蔡侯紙」と呼ばれますが、この「蔡侯紙」は、原料として樹皮、麻の切れ端やぼろ、魚網などの植物繊維を用い、これらを石臼で砕き、それに陶土や滑石粉などを混ぜて水の中に入れ簀の上で漉く方法が採られました。

 

ここで小宮英俊編「紙のはなし」(ホームページ(社)日本印刷産業連合会ホームページ(JFPI)ぷりんとぴあ)から引用させていただいて、蔡倫の製紙法を次に掲げておきます。

  1. 原料の麻のぼろなどを切り刻み、水で洗う。
  2. 草や木を燃やして、灰を採り、桶の中の水に入れ、笊(ざる)で濾過して灰汁(あく)を作る。
  3. 水洗いしたぼろ切れを灰汁で煮る。
  4. 石臼で搗く。
  5. 繊維を水洗いする。
  6. 繊維を紙槽に入れ、かき混ぜて紙料液(原質)を作る。
  7. 木の枠に網をはった紙すき器(紙模)を両手で持って紙料液の中に入れ、紙料をすきあげる。
  8. 紙すき器ごと立て掛けて乾燥させる。
  9. 乾いたら、紙すき器から紙を剥がして出来上がり。

この造り方は原理的には今日の紙漉き法[①皮を剥く(剥皮)、②煮る(蒸解)、③叩く(叩解)、④抄く(抄紙)、⑤乾かす(乾燥)]と同じです。

こうして植物繊維を原料として、それを細かくくだき、漉(す)いて紙を造ったわけです。絹を原料とした紙と異なり、今の紙に通じる原点となったのが蔡倫の紙です。これが「蔡倫は紙の発明者」といわれる由縁です。

 

定説「蔡倫は紙の発明者」の見直し

しかし、この「紙の発明者は蔡倫」という定説が見直されてきました。実際に蔡倫以前の紙が発見されたからです。いま手持ちに黄色く退色した新聞の切り抜きがあります。それは25年前の1980(昭和55)年12月20日付けの日本経済新聞です。その文化往来欄にタイトル「紙の発明で説得力ある新説」として次のように載っています。

日本経済新聞文化往来欄「紙の発明で説得力ある新説」

1980(昭和55)年12月20日付け

紙の発明が、中国・後漢時代の宦官(かんがん)、蔡倫によるというのは今日までの通説となっている。その有力な根拠が5世紀初めに笵曄(はんよう)が著した「後漢書・蔡倫伝」である。ところが、こうした定説をゆるがす貴重な論考がこのほど出版された。

中国科学院自然史研究所員、潘吉星(はんきちせい)氏著による「中国製紙技術史」(平凡社、佐藤武敏訳、原題は「中国造紙技術史稿」)。

潘吉星氏の論拠となっているのは、近年出土した実際の紙の遺品である。史料よりはるかに重いいくつかの事実を例示しながら、紙は前漢時代から中国では作られていたと述べている。

前漢時代の紙の発見の第一は、1933年、新彊のロブ・ノールの遺跡から出た麻紙。以後1957年には、西安市東郊の覇橋(はきょう)でロブ・ノールのものより古いとされる「覇橋紙」がみつかり、1973年から74年にかけては甘粛省の金関で「金関紙」が発見された。著者はこれらの紙の科学的分析研究の結果、紙の発明者の栄誉を蔡倫から「前漢時代の働く人々」の手に渡し直しているのである。

ところでこの本は、上編に「製紙史通論」として古代から清代に至る中国製紙技術の変遷を詳述し、下編で「敦煌石室写経紙の研究」「中国古代書画用紙の研究」「水質の製紙に対する影響についての古人の議論」などいくつもの専門論文を収めた450ページをこえる力作である。

潘氏は、考古学的な発掘成果をもとに、文献考証を行い、古紙の化学実験、製紙作業の模擬実験、在来の方法の調査と技術研究という周到な手順をふまえており、その博覧強記ぶりとともに本書に一層の説得力を与えている。

なんとも迫力ある根拠ではないでしょうか。それではここで、前漢期の遺跡から、これまでに出土したいくつかの紙を掲げておきます。そしてこれらの発見により、紙の起源は前漢期にさかのぼることになりました。

中国・前漢の遺跡から出土した紙
名称紙の年代出土時期出土場所原料
ロプ・ノール紙 B.C.74~49 1933年 新彊省楼蘭

覇橋紙

(はきょうし)

B.C.141~87 1957年 陝西省西安市覇橋前漢墓

金関紙

(きんかんし)

B.C.52~6 1973年~1974年 甘粛省居延遺跡金関軍事哨所跡

中顔紙

(ちゅうがんし)

B.C.74~49 1978年 陝西省抉風県太白公社中顔村穴蔵

馬圏湾紙

(ばけんわんし)

B.C.65~A.D.5 1979年 甘粛省馬圏湾軍事駐屯

放馬灘紙

(ほうばたんし)

B.C.180~141 1986年 甘粛省水市北道区放馬灘前漢墓

懸泉紙

(けんせんし)

B.C.74~49 1990年 甘粛省敦煌懸泉置前漢遺跡

 

また、森本正和著「環境の21世紀に生きる非木材資源」から中国・前漢出土紙の品質特性を次表に示しておきます。

中国・前漢出土紙の品質特性
名称坪量(g/m2)厚さ(mm)密度(g/cm3)白色度(%)
覇橋紙 29.2 0.10 0.29 25
金関紙 61.7 0.22 0.28 40
中顔紙 61.9 0.22 0.28 43

 

若干説明します。

1933年に、中国の考古学者黄文弼(こうぶんひつ)がロブ・ノールの堡塁で1枚の紙を発見しました。4cm×10cmの小さな粗末な紙ですが、同じ場所で黄竜1年(前49)の年紀のある木簡が併出しており、紙はほぼ同時代のものと推定されました。しかし、このロブ・ノール紙は日中戦争の戦火で焼失してしまいました。

また1957年、中国の西安市郊外の遺跡から銅剣、銅鏡、半両銭などとともに紀元前141年以前の紙が発見されました。この紙は発見された名をとって覇橋紙と名付けられましたが、紙の大きさは10cm四方ほどの小片です。まだ文字が書けるほどの紙ではなく、麻布と同じように銅鏡などの貴重品を包む包装用に使われていたと考えられています。

1979年に出土した馬圏湾紙は、縦20cm、横32cmの完整な耳つきの紙葉です。

さらに、1986年に水市放馬灘の前漢初期、文帝・景帝(B.C.180-141)のころのものと推定される墓の埋葬者の胸部に、長さ5.6 cm、幅2.5cmの不規則な形の紙片が見つかり、それには図を思わせる描線がありました。これが放馬灘紙で、現存する世界最古の紙とされています。図の描線のあることは、早くから記録用としても用いられたことを示しています。

懸泉紙…甘粛省の考古学者たちが、1990年冬に敦煌に近い甜水井の前漢の遺跡を発掘して、前漢の武帝(B.C.140-87) から王莽(A.D.8-23)の時代と推定される木簡12,000枚と麻紙30枚が出土。このうち前漢時代の麻紙3枚の表面に文字が書かれていました。これまでの出土紙には文字が書かれたものはないので、これが初めてのものです。

また、これらの紙はいずれも植物繊維の麻を主成分とした麻紙(まし)で、その原料に破布が用いられているとみられており、それらの繊維組成分析結果から、大麻を主として少量の

苧麻(ちょま)が含まれていることが明らかにされています。

なお私自身、現物を実際に見たり、触っていないのですが、表に示しましたように、出土

紙の密度(緊度)が、0.28~0.29g/cm3と非常に小さいことから、原料をほとんど叩き、ほぐさない、いわゆる叩解度が低い、きわめてラフで、表面に平滑性がない、仕上がりの悪い紙と推定できます。

ところで、紀元前3000~2500年ころの古代エジプト時代のパピルスが、今日までも多く残っているのは、エジプトが乾いた気候なので腐らなかったからだといわれていますが、前漢の紙も湿度が低い、乾いた風土により保存されたものとされています。

これからも、あらたな出土紙が発見されれば、紙の起源も変わり、製造技術、原料および用途などに最新の知見が得られるかもしれません。

 

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更新日時:(吉田印刷所)

公開日時:(吉田印刷所)