コラム(31-1) わが国の紙のはじまり(1-1)

前回は、「紙の起源と蔡倫」というテーマでしたが、今回はわが国における紙の始まりについて整理し、2回に分けてまとめてみました。なお、今までに記述したところもありますが、ご容赦ください。

 

初めに前回の「紙の起源と蔡倫」をおさらいしておきます。

紙は中国で発明されました。その始まりは、中国の史書である「後漢書」(西暦432年に完成)が典拠になり、長い間、紙の起源は中国・後漢時代の西暦105年で、その発明者は蔡倫(さいりん)とされてきました。

しかし、近年、さらに古い年代の中国・前漢時代(紀元前206~後8)の複数の遺跡から、麻(植物繊維)を原料にした紙(麻紙)が発掘されており、蔡倫より200年以上も前に紙が実在していたことが判明しました。

この事実により、「蔡倫は紙の発明者」という長い間の定説がくつがえされ、今では「蔡倫は偉大な紙の改良者で製紙の普及者」とされています(詳細はコラム(30) 紙の起源と蔡倫をご参照ください)。

 

それでは、わが国に紙が伝わり、紙づくりが行なわれたのはいつごろからでしょうか。

 

紙の伝来と国産化…曇徴が紙祖?

日本で紙づくりが始った時期については、「日本書紀(にほんしょき)」にある記述が、わが国最初の紙の記録であることから、朝鮮・高句麗から僧侶曇徴(どんちょう)が来朝し、中国の紙漉き技術をわが国に伝えたという「推古皇18年」、すなわち西暦610年であるとされています。そして曇徴をわが国の紙祖とする説が一般的です。

 

ここでその典拠となっている「日本書紀」は、こ存知のように、日本最古の勅撰の正史で、神代から持統皇までの朝廷に伝わった神話・伝説・記録などを修飾の多い漢文で記述した編年体の歴史書、30巻です。舎人(とねり)親王らの撰により、奈良時代の720(養老4)年5月に完成した六国史(りつこくし)の一つですが、ちなみに六国史は、奈良・平安時代の朝廷で編集された六つの国史のことで、日本書紀・続日本紀・日本後紀・続日本後紀・日本文徳皇実録(文徳実録)・日本三代実録(三代実録)の総称をいいます。

 

その「日本書紀」の巻22推古皇の条に、「十八年春三月 高麗王貢上 僧曇徴法定。曇徴 知五経 且能作彩色紙 并造碾磑。蓋造碾磑始于是時歟」(18年の春三月、高麗王、僧曇徴、法定を貢上す。曇徴は五経を知り、且た能く彩色及び紙・を作り、并せて碾磑を造る。蓋し碾磑を造るは是の時に始まるか)とあります。すなわち、「推古皇18年、西暦でいえば西暦610年の春三月に、高麗王(こまのきみ)[高麗(こま、朝鮮・高句麗)の王]が僧侶曇徴(どんちょう)と法定(ほうじょう)を遣わした。曇徴は儒教や仏教に通じている上に、彩色(しみのもの、絵の具)や、紙、の製法もよく心得ており、碾磑(てんがい、水車を利用した石臼、水臼)も造ったが、碾磑を造ったのは、このときが初めてであろう」というものです。

 

このようにわが国における製紙について記録されていますが、ときに7世紀初頭の西暦610年のことです。日本最古の正史で権威ある「日本書紀」に残されているために、わが国へ伝来した製紙の始まりとされています。そして紙の製法を初めて日本に伝えた高麗の僧曇徴をわが国の紙祖としてあがめているわけです。

 

曇徴以前に紙と製紙技術は伝来

しかし、先の文章で曇徴が「碾磑(水臼)はこの時に初めて造った」と、敢えて断わっているのに、紙なども初めてである、とは書かれていません。このことから推察すれば、紙そのものはそれ以前からわが国に伝わっていて、すでに作られていることをほのめかしていると思われます。

しかも、そのころのわが国は飛鳥時代(6世紀末から7世紀前半)で聖徳太子が活躍していた華やな時代ですが、この時代は朝鮮半島から仏教やさまざまの技術や文物などがもたらされ、人の交流も盛んな時代でした。

このような状況ですので中国で生れた製紙術の東方への伝来は、西方(西アジア、ヨーロッパ等)よりいち早くもたらされたであろうと考えられます。ちなみに西方へは、751年の「タラス河畔の戦争」で高仙芝の率いる中国の軍隊はイスラム軍に大敗、このときに捕虜となった中国人紙漉工が製紙術を初めて伝えたとされています。

これに対して東方への伝播は早く、朝鮮に伝わった年次ははっきり特定できませんが、4世紀ごろに始まるという説があります。そのため日本には早くから朝鮮の写本が伝わり、紙の存在を知っていたとされています。

 

このため紙そのものと製紙技術は、曇徴来朝以前にわが国に伝来している可能性が強いと考えられています。その裏付けとして、紙が使用されていると思われる記載があります。以

下に年代順にさかのぼって紹介していきます。

 

まず、「日本書紀」欽明皇13年の条にある記述です。仏教が日本(倭国)に伝来した、いわゆる仏教公伝となる西暦552年(諸説があり「元興寺縁起」では西暦538年)に、朝鮮・百済の聖明王(せいめいおう)が、はじめて怒利斯致契(ぬりしちけい)を倭国に遣わして、釈迦仏の金銅像一躯と、幡蓋(はたきぬがさ)若干・経論若干巻を欽明皇に献上したとありますが、この経論は紙とされています。

 

それから中国の史書「宋書」倭国伝ですが、それによれば倭の五王が晋や宋に使節を送っていたことが記載されています。西暦421年から478年のことです。

ところで、「倭(わ)」は7世紀以前の日本の呼び名で、中国人が付けた名だそうですが、倭の五王とは、中国・南朝の宋に朝貢した五人の倭国王のことで、中国名で讃(賛)・珍(弥)・済・興・武ですが、通説では仁徳(にんとく)・反正(はんせい)・允恭(いんぎょう)・安康(あんこう)・雄略(ゆうりゃく)の各皇とされています。なお、讃を履中または応神、珍を仁徳にあてる説もあります。

そして中国・宋へは西暦421年、倭讃が使者を派遣したことから始まり、478年の倭武まで続いています。使者の派遣とともに国書も送っていますが、有名なのが、「武の上表文」で「倭国王「武」が宋の順帝の昇明二(478)年、使を遣わして表を上(たてまつ)る」とあるように、上表文を書き送ったことが記述されています。内容は省略しますが、この上表文は紙に書かれたものであろうとされています。

 

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更新日時:(吉田印刷所)

公開日時:(吉田印刷所)