次に先の「日本書紀」にもあります。すなわち、「応神天皇15年(西暦405年)に百済王が子の阿直岐(あちき)を遣わして良馬二匹を天皇に奉った。阿直岐はまたよく経典を修めていたので、皇太子の莵道雅郎子(うじのわかいらつこ)皇子の師とした」との記録です。ここで読んだとされる「経典」が紙に書かれたものか、竹簡または木簡かは不明ですが、これがわが国における書物の初伝とされております。
さらに「翌16年、百済王が王仁(わに)を遣わして論語10巻と千字文(せんじもん)1巻を朝廷に献上」とありますが、この「書巻」も紙であったか、竹簡または木簡かは不明ですが、紙であろうとの説が有力であり、わが国における紙の初伝とされております。
(注)「論語」は、春秋戦国時代の中国の学者である孔子(こうし)と彼の弟子の言行を記録した書物。孔子は儒家(じゅか)の始祖と言われ、彼の思想が後に儒教(じゅきょう)という教学になりました。また「千字文」は四言古詩250句を集めたもの。
それではもっとさかのぼった邪馬台国(やまたいこく)、女王卑弥呼(ひみこ)の時代(3世紀頃)はどうでしょうか。当時の日本の様子は、中国の文献からしか知ることができませんが、邪馬台国の女王卑弥呼のことは、「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に載っております。魏志倭人伝は、中国の魏・呉・蜀3国の史書「三国志」にある「魏志」の「東夷」の条に収められている、日本古代史に関する最古の史料です。3世紀の邪馬台国と、女王・卑弥呼および2~3世紀の倭人(日本人)の風習などが記述されており、当時を知る最も重要な文献です。
それによりますと、「邪馬台国の女王卑弥呼は、西暦239(景初3)年6月に、難升米(なんしょうまい)らを帯方郡に派遣し、さらに魏(中国)の朝廷に朝貢することを願い出させた。帯方郡の長官劉夏(りゅうか)は、役人を遣わして難升米らを魏の都洛陽に送りとどけた。この年の12月、魏の皇帝は、卑弥呼に詔書を出して、卑弥呼を「親魏倭王」とし、金印紫綬を仮に授け、卑弥呼の献上した男女の生口10人、斑布2匹2丈に対する返礼の品物として銅鏡100枚、5尺刀2口などを贈ることを明らかにした。この詔書と品物は、翌240年に魏使によって卑弥呼のもとにもたらされた」とあります。
蔡倫が紙を改良したのが、西暦105年。それから100年以上経っており、普及していったであろう紙。3世紀のわが国において、紙はどんな位置付けだったのでしょうか。
ちょうど本テーマをまとめつつあるときに、タイムリーにも(財)紙の博物館から会報「かみはく友の会ニュースレター No.6」(2005年3月1日発行)が届きました。その中に和紙研究家の森田康敬氏が執筆された「紙跡探訪 和紙発祥の地を探る」が載っていました。その中から引用させていただきますと、
「邪馬台国の女王卑弥呼が魏の明帝(227~239)に友好使節を送り(239)、皇帝から歓迎の詔書を、卑弥呼からは奉謝の外交文書を交換している。当時紙の普及の高い魏・晋国であるだけに、当然紙が使用され、卑弥呼の側近には文字を解し、紙の認識を持つ人がいたと思われ、ここに我が国の紙の夜明けは、卑弥呼の頃とする考えが生まれるのである」と論じられています。
また、町田誠之著「和紙の道しるべ その歴史と化学」によれば、「邪馬台国の卑弥呼は魏の皇帝から金印を受けているが、その金印はまだ発見されていない。が、紙に捺された可能性は多い」とあります。
このように卑弥呼の時代(3世紀頃)にも中国の「紙」が伝わっていたとする考えがあります。
では、さらにさかのぼった三国時代(魏・呉・蜀)の前の中国・後漢時代(西暦25~220年)はどうでしょうか。わが国は後漢とも交流がありました。また、高句麗王朝(紀元前後建国~668年)は古く、蔡倫が紙を改良する以前から成立しており、中国・後漢の王朝とも親交がありました。このために、中国の製紙法が伝えられており、その製紙技術の会得と普及の結果として西暦610年に高句麗の僧曇徴と法定を日本に派遣したと考えられます。
わが国と後漢との関係は中国の文献「後漢書」東夷伝に残っています。それには次のように書かれています。「建武中元二年、倭奴国、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜うに印綬を以す」、意訳すれば「西暦57年、倭にある奴国(なのこく)の大臣が後漢に朝貢し、初代皇帝光武帝(こうぶてい)から金印を授けられた」となります。あの有名
な「漢委奴国王」と刻まれた金印(倭奴国王印、わのなのこくおうのいん)を後漢の皇帝から授かった文です。なお、奴国とは現在の福岡県の博多周辺にあった小国で、「漢委奴国王」と刻まれた金印が博多湾口の志賀島で1784年に発見されており、この金印は後に国宝となっています。
この時代については、町田誠之著「和紙の道しるべ その歴史と化学」によれば、「前漢時代にすでに紙はあったとしても、光武帝の時代には蔡侯紙はまだ無かった。漢委奴国王印が紙に押印されて日本へもたらされた可能性はきわめて少ない」とされており、このころのわが国への紙の伝来はなかったと思われます。
ただ、後漢の蔡倫が紙を改良したのが西暦105年、その後、蔡侯紙として広く普及。それ以前から「紙」という字と「紙」はありました(30.紙の起源と蔡倫参照)。そして西暦1~3世紀代には当時北九州にあった倭奴国と、中国・後漢との間に国書が往復し、使節が往来していますので、当然漢字も伝来し、中国産の紙も舶来していると考えられ、そのころに日本人は「紙」という漢字と、紙そのものを知っていたものと思われています。
以上、概観しましたように、不詳の部分がありますが、中国で発明、改良された紙とその製法は朝鮮半島にも伝わり、わが国には西暦2~5世紀、少なくとも西暦3~6世紀ころには、曇徴より早く、すでに中国・朝鮮との国交による人・ものなどの往来や、それらの国から来た渡来人(とらいじん)(次回記載)によって、いろいろな文化とともにもたらされていたのではないかと考えられます(コラム(29) 聖徳太子と紙を参照)。
なお、紙がわが国に最初に渡来した時期や場所は正確には明らかでありませんが、紙づくりの場所については、先の森田康敬氏が執筆された「紙跡探訪 和紙発祥の地を探る」に、「紙造りの条件は、一方に相応の紙の需要があり、一方に原料、道具、清流、更に適地と造る人の存在がなくてはならない。このことから紙の発祥地の第一は、当時の都「奈良を中心とする周辺を含めた地方」と考えるのが至当であろう[註:周辺とは山背(やましろ、今の京都)、近江]」とされています。参考までにここに紹介しておきます。
似ている曇徴と蔡倫の立場
ところで曇徴(どんちょう)の生没年を西暦579~631年という説があるようですが、根拠不明で実際は生没年は不詳のようです。594年に聖徳太子の三宝興隆の詔勅が出されて以来、仏教は国の保護を受けるようになりましたが、推古天皇の時代610年(推古18)に来朝し、帰化した曇徴は、儒教の聖典である五経にも良く通じていたため、飛鳥文化の仏教美術の発達に大きく貢献したとされています。
その「曇徴」と「蔡倫」とは似通ったところがあります。すなわち、いずれもその国の正史に記録されており、すなわち蔡倫は「後漢書」、曇徴は「日本書紀」の記録によって、それぞれ蔡倫は紙の発明者で、紙の始祖(紙祖)とされており、曇徴は日本に紙の製法を初めて伝えたとされることから、わが国の紙祖とされています。
しかし、中国では蔡倫以前に紙が存在し、紙という文字もありました。しかも蔡倫より200年以上も前の前漢時代の遺跡から麻を原料にした紙がいくつか発掘されており、実際に紙が存在していたことが実証されています。曇徴についても上記のように曇徴の来朝以前にわが国にも紙が存在し、製紙の技術も伝わっていると考えられていることです。
これによって蔡倫は紙の発明者でなく、偉大な紙の改良者で、製紙の普及者となり、曇徴はわが国に紙の製法を初めて伝えたのではないと考えられることから、曇徴はわが国の紙祖と言われなくなっております。
違うのは、わが国では曇徴以前の紙は実際に発見されていないことです。そのためにいまだ紙祖といわれている曇徴を含めて、紙祖とか、紙祖神とされる人達が複数登場することになります。(以下、次号へつづく)
(2005年4月1日)
参考・引用文献