コラム(44) 新聞誕生「新聞の父」ジョセフ彦

これは今年(2006)年2月1日(水)、NHK総合テレビで放映された「その時歴史が動いた 日本に新聞が生まれた日 『新聞誕生』~幕末維新・ジョセフ彦の挑戦~」をベースにまとめました。なお、コラム(37) 「新聞」という語の由来とわが国における初期の「新聞」についての続編にも相当します。

 

ジョセフ彦は、江戸時代の末期、アメリカ国籍を取った日本人で、日本で初めて民間の新聞を発行し、わが国の「新聞の父」と言われています。時は元治元(1864)年6月28日。明治政府樹立が1868(明治1)年ですので、その4年ほど前のことです。

 

生い立ち

それではジョセフ彦とはどういう人でょうか。触れていきます。ジョセフ彦は、保8(1837)年8月21日に(今の兵庫県)播磨町古宮の漁師の家に生まれ、本荘の浜田で育ち、幼名を彦太郎といいました。嘉永3(1850)年10月29日、13歳のときに江戸見物を終え、栄力丸で故郷への帰途中、遠州灘にて暴風に遭い遭難。52日間太平洋を漂流中の彦太郎ら17名はアメリカの商船オークランド号に救われ、翌嘉永4(1851)年2月にサンフランシスコに到着します。

アメリカは、漂流した彦太郎らを日本へ送り帰し、国交開始のきっかけをつかもうとし、翌年の嘉永5(1852)年3月、帰国のためサンフランシスコを発って、5月に香港に到着。そしてマカオでペリーの東インド艦隊に乗せる手はずをとりましたが、ペリーのマカオ来航が遅れたため彦太郎は再び渡米することになりました。

 

再びサンフランシスコに着いた彦太郎は、子供がいなかった税関長サンダースに可愛がられ、アメリカの中心であるワシントンや二ユーヨークに連れていかれました。彦太郎は、二ユーヨークで初めて大きな建物や電信・ガス燈・汽車などを見て驚き、また、ワシントンでは、嘉永6(1853)年に時の大統領ピアースに謁見するという幸運に見舞われました。これは、アメリカ大統領と正式に会見した「最初の日本人」という栄誉でした。また、安政4(1857)年には大統領プキャナンとも会見しています。

その後、彦太郎はアメリカので教育を受け、安政元(1854)年にキリスト教の洗礼を受け、「ジョセフ」のクリスチャンネームを用いて、ジョセフ彦(ジョセフ・ヒコ Joseph Heco)と名乗るようになりました。さらに安政5(1858)年には、日本からの帰化第1号としてアメリカの市民権を得ました。

 

祖国を離れて9年振りの安政6(1859)年、21歳のときに、領事館員として初代駐日総領事ハリスに伴われて開国した日本に帰国します。ジョセフ彦は日米の格差に愕然とし、日本の近代化には幕府役人だけではなく、庶民一人一人の意識改革が必要と痛感します。その思いを持ちながら、ジョセフ彦は横浜にあるアメリカ領事館の通訳として、幕府との間で日米修好条約・貿易章程の締結や幕府の遣米使節の派遣などに奔走しますが、攘夷浪人から外人として狙われるようになって身辺が危くなったので、文久元(1861)年に3度日の渡米をすることになります。

 

この3度目の渡米中の文久2(1862)年に、ジョセフ彦はリンカーン大統領と会見する栄誉に恵まれ、民主主義の理念を伝授されたとも伝えられています。また、リンカーンは、大きな手を差し出して握手し、夜明け前の日本についてさまざまなことを尋ねたといわれています。なお、ジョセフ彦は、日本の歴史上の人物で、歴史に残る名大統領、リンカーンと握手したただ一人の日本人ということになります(上写真参照…ホームページ播磨町へようこそ!から引用)。

 

新聞発行へ挑戦…民間人による最初の新聞誕生

南北戦争(1861年から1865年)の動乱をあとにして文久2(1862)年10月に、再度日本に帰ったジョセフ彦は、横浜で再びアメリカ領事館の通訳の仕事を始めました。しかし、翌年9月には命を狙われやすい領事館を辞め、横浜にある外国人居留で商社を開き貿易商に従事します。

ちょうどそのころ、リンカーン大統領の名言「人民の人民による人民のための政治」(原語"government of the people, by the people, for the people"は「人民による人民のための人民統治」という意味)を残した南北戦争の激戦ゲティスバーグでの演説(1863年11月19日)とその反響を載せた「ニューヨークタイムズ」を目にします。そしてこのことを一瞬にして国民に知らしめた新聞の威力に感嘆し、日本での新聞の発行に挑み始めます。しかし、その道のりは困難を極めました。

民衆にも知る権利があると主張するジョセフ彦は、情報を手元に置きたい幕府に厳しく監視され取材活動は全くできない状態でした。攘夷派の浪士からは、アメリカ文化を持ち込む危険人物とみなされ、命を狙われました。

しかし、ジョセフ彦は「事実を正しく民衆に伝えること、そこに感動が生まれる」という強い信念のもと、命をかけて新聞発行へと突き進み、医師ヘボンの弟子だった岸田吟香(ぎんこう)や本間潜蔵の協力を得て、遂に元治元(1864)年6月28日、わが国民間による最初の新聞「新聞誌」を創刊しました。当初はすべて手書き(5部)で苦労しましたが、全部無料で配りました。

翌慶応元(1865)年5月には「海外新聞」と改題し、木版印刷となりましたが、いずれも和とじの書籍スタイルで、「海外新聞」は、二つ折りの半紙4、5枚をこよりで仮つづりしたもので、1か月に平均2回、毎号の部数は100部程度で、ほとんど無料で配付したということです。

発行所はジョセフ彦の住居を兼ねていた、横浜の居留141番(現、中区山下町141番・新聞発祥記念碑所在…後述参照)ですが、慶応2(1866)年11月に居留内で火災が発生したため、新聞発行を断念しました。新聞発行はその10月ごろまで続き、この間、号数は全26号を数えました。

 

「海外新聞」の表紙は港湾に入る帆船や富士山を描写し、当時の横浜港を空から見下ろすという構図になっており、本紙は、当時の諸外国の珍しい話題、事件、貿易の状況やアメリカ史略といった読み物も載せ、日本人に最新情報を提供しています。他に金や海外の相場、在日外人の商店等の広告を載せたこともあり、貿易商人も興味を持ち、横浜居留の内外人に好評を博しました。

ジョセフ彦は、攘夷浪人が横行する幕末、開国ニッポンのために先進欧米の海外ニュースや自由の風土・考え方などを載せて世の中の事実と時代の変化を正しく伝え、当時開国の意気に燃えていた多くの人々に影響を与え、庶民の近代化に貢献しました。しかも新聞を営利目的にせず、幕末の日本人の視野を海外まで拡大しようとしました。

 

これ以前の1862(文久2)年1月に徳川幕府が「官板バタビヤ新聞」(かんぱんバタビヤしんぶん)を発行していますが、新聞の祖とは認められていません。

また、ジョセフ彦の新聞創刊後、1870(明治3)年12月8日横浜で「横浜毎日新聞」が創刊されました。これは舶来用紙(洋紙)に本木昌造が開発した鉛活字を用いた活版印刷による日本最初の日本語による日刊新聞で、その後も新聞の発刊が相次ぎましたが、これらの民間人による近代新聞はすべて「海外新聞」が原型となっております。

ジョセフ彦が発行した新聞は、日本民間人の手による日本人のための、わが国はじめての新聞であり、ジョセフ彦が「新聞の父」と呼ばれる所以です。

 

その後のジョセフ彦

新聞発行を断念したジョセフ彦は、慶応2(1866)年12月に長崎に移り、英国商館と鍋島家との間を斡旋し、高島炭坑の共同経営を成立させたり、1969(明治2)年には大阪造幣局の設立に尽力したり、1972(明治5)年大蔵省に入り渋沢栄一のもとで国立銀行条例の編纂に従事したり、実業界の発展にも大きく寄与し、新生日本の近代化に向けて八面六腑の活躍をしました。

また、慶応3(1867)年に長崎に在住していたジョセフ彦を訪ねた木戸孝充と伊藤博文は、米英の歴史・国家制度・政治内容などを質問し、ジョセフ彦からリンカーン直伝のアメリカ民主政治の機構を聞きます。この見聞が明治日本に与えた影響は大きなものであったと言われています。

さらにジョセフ彦の業績に、二つの著書の出版があります。一つは文久3年(1863年)に出版した「漂流記」で、もう一つは英文の自伝「The Narrative of a Japanese」(邦訳《アメリカ彦蔵自伝》)です。

 

なお、ジョセフ彦は日本人女性と結婚し、日本名浜田彦蔵と名乗るようになりますが、子供がいなかったため、子孫はおりません。そして明治30(1897)年12月12日、心臓病により波乱の生涯を閉じ、東京で没しました。享年60歳でした。墓は東京の青山霊園の外国人墓に建立され、碑文は英語で、その下に漢字で「浄世夫彦之墓」と刻まれています。日本への帰化を望んでいたジョセフ彦でしたが、終は外国人としての国籍でした。

 

ジョセフ彦の記念碑など

ここでジョセフ彦に関する記念碑を下記参考・引用文献から紹介しておきます。まず、故郷兵庫県播磨町と神戸市にあるものです。

 

  • 「横文字の墓」ジョセフ彦は生まれ故郷の播磨を三度訪れていますが、1870(明治3)年10月に両親の墓碑を建てるために帰郷。翌1871年11月2日に除幕した両親の供養墓が町の西北端にある蓮花寺にあります。この墓碑の裏に英文が刻まれていることから、元では俗に「横文字の墓」と呼ばれています。風化が著しく何と刻まれているか読み取ることができません。
  • 「新聞の父 浜田彦蔵の碑」阿閇村(現在の播磨町)が日米修好条約百周年を記念して、1960(昭和35)年12月19日に阿閇小学校(現在の播磨小学校)の校庭、南東隅には石組みの上に建立。ジョセフ彦研究に没頭した近盛晴嘉氏による碑文が刻まれています。
  • 「新聞創造者ジョセフ彦の胸像」播磨町役場の隣にある中央公民館の前庭にジョセフ・ヒコの洋服姿の胸像が1980(昭和55)年4月12日に建立。
  • 「新聞の父 ジョセフ・ヒコ生誕の」の碑…巨大な工場が立ち並ぶ人工島新島に通じる播磨大橋の北詰め、浜田海岸の高みに1974(昭和49)年6月建てられました。
  • 「ジョセフ・ヒコの生家跡」彦が呱々の声をあげた古宮にあり、古宮を通る県道から浜側に少しはづれたところに「ジョセフ・ヒコの生家跡」があります。
  • 「本邦民間新聞創始者ジョセフ・ヒコ氏居址」碑…元町の駅から西側、中国式寺院関帝廟から東に少し行ったマンション前の植え込みの中(生田区中山手通六丁目)に建てられています(1935(昭和10)年神戸市が建立)。ジョセフ・ヒコは神戸時代にこの辺りに住んでいました。
  • 「ジョセフ・ヒコの英文碑」神戸市兵庫区北逆瀬川町の能福寺の境内には、ジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)の英文碑があります。ジョセフ・ヒコは、ペリー来日時の通訳として活躍した人ですが、明治になって外国人が能福寺に大仏を参拝に来るようになったため、能福寺の住職がジョセフ・ヒコに依頼して英文碑を製作したもの。わが国最初の英文碑と言われます。

 

そして「海外新聞」が発行された横浜には、それを称えた記念碑があります。

  • 「日本国新聞発祥之」この碑はジョセフ彦記念会が1994年「海外新聞」発刊130年を記念して建てられたものです。碑文によると、このは1864年ジョセフ彦が「海外新聞」を発刊した居館の址です。彦蔵は当時リンカーン大統領に謁見し、握手した唯一の日本人で、リンカーンの民主政治が新聞の力に負うところ大なることを体得して帰国、開国したばかりの祖国のため日本最初の新聞を創刊したと記されています。

横浜の中華街関帝廟のすぐ近くの歩道上に建立されております。それはジョセフ彦の住居を兼ねていた、居留の141番(現、中区山下町141番)ですが、真中に新聞創造者ジョセフ彦〈浜田彦蔵〉の丸いレリーフを配した御影石づくりの記念碑です(右写真参照…ホームページ発祥2(横浜が発祥巡り)から引用)。

(2006年3月1日)

 

参考・引用文献

 


更新日時:(吉田印刷所)

公開日時:(吉田印刷所)