コラム(50) 約1700年前のパピルス文書を修復「ユダの福音書」の写本と確認、ユダは裏切り者じゃない(新事実?)

今からおよそ1700年前のパピルス文書が修復・鑑定・解読され、調査の結果、この文書はキリスト教の黎明期に教会から異端とされた幻の書「ユダの福音書」の、現存する唯一の写本であることが判明しました。新約聖書ではイエス・キリストを処刑へと導いたユダは、この文書では裏切り者ではなく、イエスを最もよく理解していた弟子とするなど、多くの議論を呼びそうな内容が含まれているとのことです。この発見により新たな歴史が刻まれるかもしれません。

 

これは米国の科学教育団体、ナショナル・ジオグラフィック協会がワシントンの本部で去る4月6日に発表したものです(朝日新聞2006年4月7日付)。

 


 

このパピルス文書は1970年代にエジプト中部の砂漠帯、カララ山の墓で発見されたパピルス紙の束ですが、エジプトの古物商から、欧州を経て米国に渡ったが、買い手がつかないまま長年の間、ニューヨークの銀行の貸金庫で眠っていたため、激しく傷み、2001年に作業が始まった段階では触っただけで粉々になりそうな状態だったといわれます。

同協会を支援した国際的な専門家チームが、5年がかりで放射性同位体(炭素)による年代測定法、インクの成分分析、紙のマルチスペクトル画像の解析、文章構造や文法の分析、文字の書体などの古文書学的な検証という五つの手法で鑑定を行った結果、この写本は3~4世紀(紀元後220~340年)の文書で、後世に修整は加えられておらず、偽書でなく古代に記された本物の聖書外典である「ユダの福音書」であることが確認されたということです。(写真左側…復元作業開始前の「ユダの福音書」のパピルス写本、写真右側…断片をつなぎ合わせた「ユダの福音書」写本の序章部分=いずれもナショナル・ジオグラフィック協会提供)

 

発見されたパピルス文書は冊子状の写本(コデックス)で全体は32折、66ページあり、そのうちのパピルス紙13枚(26ページ)の表裏が「ユダの福音書」。インクでコプト文字(エジプトのキリスト教徒が使った古代文字)で記述されており、解読したところユダのことが記載されていたというものです。

なお、この「ユダの福音書」は、西暦150年頃にギリシア語で書かれた福音書(原典)を3世紀か4世紀にコプト語で写したも(写本)というこになります。

 

「ユダ」はキリスト十二使徒の一人ですが、新約聖書では銀30枚でイエスを裏切りイエス処刑への道を開いた「裏切り者」、「信の徒」として記載されています。そのため転じて、今でも悪名高い裏切り者、教者の代名詞になっています。

ところで福音書(ふくいんしょ) は新約聖書中でイエス=キリストの生涯・言行をイエスの弟子が記録したもので、多くの福音書があったとされますが、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4人分だけが新約聖書に載っています。

古代キリスト教では、グノーシスと呼ばれる一派があり、「ユダの福音書」はこの一派が残したものですが、上記のような理由でヨハネなど四つの福音書とは相いれない内容が多く、初期キリスト教指導者からは異端とされ、文書そのものもほとんどが抹消され、新約聖書からは除外され、外典となっています。

 

ユダは裏切り者ではなく、イエスのよき理解者

しかし、今回解読され、発表された「ユダの福音書」(原本…コプト語写本)では、イエス・キリストが捕らえられて十字架にかけられる前の一週間、イエスと弟子ユダの間で交わされた会話などが記載され、イエスは他の弟子には教えなかった秘密をユダには説いたとされています。また、イエスは自らの魂を「肉体の牢獄」から開放するためにユダに指示して密告させたとして、イエスをユダヤ教当局に売り渡したのは、「イエス本人の命令に従った」からだとしており、ユダは実は裏切り者ではなく、イエスを最もよく理解していた弟子で「善行の人」だったとするなどの内容が含まれているとのことです。

 

解読したロドルフ・カッセル元ジュネーブ大学教授(文献学)は「真実ならば、ユダの行為は裏切りでないことになる」としており、内容や解釈について多くの議論を呼び、世界的に大きな論争を巻き起こしそうだとしています[右写真…「ユダの福音書」写本の一部=共同(米理学協会提供)]。

 

新約聖書では裏切り者として非難されているユダですが、今回発表された「ユダの福音書」は、イエス・キリストとユダの関係に新たな光を当てる重要な史料となり、長い間失われていたユダの名誉回復になるかもしれません(2006年5月1日)。

 

なお、内容詳細は雑誌「ナショナル ジオグラフィック日本版」2006年5月号(4月28日発売)に公表されていますのでご参照ください。見出し…世紀の大発見!「ユダの福音書」-ユダは裏切り者ではなかった-。書籍「ユダの福音書を追え」も5月初旬に発売(1,995円…税込み)。また、ホームページナショナル ジオグラフィック 日本版もご参照ください。

 


 

付記

主として世界大百科事典(日立デジタル平凡社発行)から引用。

 

〇パピルス(papyrus)

パピルス草とかカミガヤツリともいう。温室に栽植されるカヤツリグサ科の大型の水草で、古代エジプトでこれを使って世界最古の紙が作られた(右イラスト参照)。

 

太い根茎に沿って、高さ2mにも達する茎が立ち並び、葉はすべて無葉身の比(さや)に退化して、茎の根元にある。直径40cmにもなる大型の花序には、細長い枝が無数に束のようにつき、その先に、薄茶色の小穂が少数個つく。北アフリカや中部アフリカの沼や河畔に大群落をつくって生える。

古代エジプトではナイル川流域のパピルスの茎を採り、皮を薄くはいで白い髄を細く裂き、その維管束を縦横に並べて重しをかけて強く圧縮してシートにしたものを乾燥し、さらにこすって滑らかにしたパピルス紙を作り、当時の中海方の唯一の筆写材料とした。

エジプトは、国の大部分が砂漠で木に乏しいため、パピルスの茎は紙作り以外に、繊維から布を作ったり、また茎をたくさん束ねて、ちょうどチチカカ湖のトトラ・ボートのような小舟を作った。

紙の原料であるパピルスは英知の象徴であり、古代エジプトでは大気の神アメンの標章であった。これが茂るナイル下流域では、ワニの危害を防ぐ力があると信じられ、イシスは殺された夫オシリスを探してナイル川にこぎ出たとき、パピルスの舟を使ったので、ワニに襲われなかったという。この信仰は聖書伝説にも持ちこまれ、幼いモーセがパピルスの籠に入れられて護られたという話(出エジプト記)にもなっている。なお、パピルスの形を模した石柱は〈パピルス柱〉と呼ばれ、エジプトの神殿にしばしば用いられている。

また紙を意味する英語 paper、フランス語 papier などは、このパピルスに由来する。

 

なお、パピルス紙は次のような工程によって作られたとされています(パピルス-Wikipediaから)。

①刈り取ったパピルスの茎の皮(表皮・皮層・維管束の部分)を剥いで長さを揃え、針などを使って縦に薄く削ぎ、長い薄片を作る。

②薄片を川から汲んだ水に漬け、細菌が繁殖してある程度分解が始まるまで二日ほど放置する。

③フェルトや布を敷いた台の上に少しずつ重ねながら並べ,更にその上に直交方向に同じように並べ、さらに布で覆う。

④配列を崩さないように注意しながら槌などで強く念入りに叩いて組織を潰し、更に圧搾機やローラーなどで圧力を加えて脱水する。

⑤その後さらに乾いた布で挟んで乾かし、日陰などで乾燥させる。

⑥表面を滑らかな石や貝殻などでこすって平滑にし、その後、縁を切り揃えて完成となる。

 

材料として数mの高さがある草の中ほどの部分を切って使用した。製作にはかなりの人手と日数(浸漬に一、二日、叩打・圧搾に二日、乾燥に四日ないし一週間)を要し、高価だった。

 

ヨーロッパ各国の紙の語源となっている古代エジプトの書写材料であるパピルス紙は、パピルス(papyrus)の茎を薄くはぎ縦横に並べて強く圧縮してシートにしたもので、中国で発明された「紙」を基準に、定められた現代の紙の定義でいう「植物繊維を水に分散させ、絡み合わせる」という紙の作り方でないため、厳密にいえばパピルス紙は紙でありません。いわゆる、今でいう不織布の一種といえるもので、紙そのものではありません。

 

参考

 

〇パピルス文書(パピルスもんじょ)

パピルス草から作られたパピルス紙(単にパピルスともいう)に記された文書。パピルス紙は羊皮紙、粘土板とともに古代における重要な筆記素材であった。エジプトの特産物で、本国で使用されたほか、西アジアおよび中海沿岸各に輸出され、かなり高価なものであったらしい。

パピルス文書は風土の関係から、1752年のヘルクラネウムにおける発見などを例外とすれば、出土もほとんどエジプトに限られている。18世紀末ころから、エジプトの農民が偶然入手したものをヨーロッパの商人が購入して本国に持ち帰るという経路で世に知られるようになり、19世紀末ころから、欧米の学者たちによる科学的な発掘が始まった。出土場所は住居址や墓内などで、ミイラの包装に用いられていたものもある。 出土品はエジプトや欧米各の博物館や大学に収められたが、また個人のコレクターの手に渡ったものも少なくなく、後者はしばしば所有者名を冠して〈ハリス・パピルス〉〈エーベルス・パピルス〉などと命名された。パピルス紙使用の上限はエジプト第1王朝(前3100年ころ)、下限は10世紀ころである。これに記された言語はエジプト語(ヒエログリフ,ヒエラティック,デモティックの3書体)やコプト、ヘブライ、アラム、シリア、ペルシア、アラビア、ギリシア、ラテンなどの各語にわたっている。

 

そして短い契約書のようなものは一片のパピルス紙に記されたが、文学作品のようなものは巻物とされた。この場合、日本の巻物のように縦書きでなく、ほとんどの言語が横書きであったので、適当な幅を1ページとして区切り、左→右あるいは右→左と書き継がれている。後代には同形のパピルス紙を重ねてとじた、今日の本の形式のものも作られた。

エジプト語文書には〈トリノ・パピルス〉(トリノ博物館所蔵)のような王名表、《ホルスとセトの争い》や《ウェンアメン旅行記》のような文学作品のほか、〈死者の書〉その他の宗教文書、医学書、書簡、各種契約書、碑銘の写しなどがあり、コプト語のものには、聖書のギリシア語からの翻訳やシェヌーテの宗教論などキリスト教文書が多い。量的に最も多いのはプトレマイオス朝時代に記されたものを中心とするギリシア語文書で、これには哲学書、史書、文学作品、法令、裁判の記録、税務関係書、結婚契約書、遺言書などが含まれ、その中にはギリシア史研究に新しい光を与えた、新発見のアリストテレスの《アテナイ人の国制》のようなものもある。コイネー(共通ギリシア語)で書かれた諸文書はヘレニズム時代史究明に不可欠な史料であり、また聖書や外典など多くのキリスト教関係書もこの中に含まれていて、聖書の文献学的研究などに重要な役割を果たしている(以上、世界大百科事典から)。

 

参考・引用文献

 


更新日時:(吉田印刷所)

公開日時:(吉田印刷所)