年の瀬が近づいてきました。年賀状の準備はできましたか。それとも新年の挨拶は、電子メール?今回は「年賀状」についてまとめてみました。
師走の行事
今年も残り少なくなり、何かと気ぜわしく感じられます。それもそのはず、12月は「師が走る」と書き、師走(しわす)とも言います。
師走の語源は諸説があり、正確な語源ははっきりしていないそうですが、「坊主が走る」というのが、有力な説としてあります。昔は正月も盆と同じように祖先の霊をともらう月でしたので、お経をあげるために、お坊さんがあちこちの家々を忙しく走りまわったのが語源だと言われています。すなわち、師匠の僧がお経をあげるために、東西を馳せる月であることから、12月は「師馳せ月」(しはせづき)で、それが転じて「師馳す(しはす)」となり、この説を元に12月に「師走」(しわす、しはす)の字が当てられたと考えられています。
なお、 師走坊主(しわすぼうず)という言葉がありますが、これは(盂蘭盆(うらぼん))とは異なり、歳末には布施もないところから) おちぶれ、やつれている坊主。また、みすぼらしい者をたとえていう語(広辞苑)だそうです。
私自身でも12月は他の月と比べて少し忙しくなります。年賀状を出す準備があるからです。会社に勤務していたときも、12月になると忙しくなったものです。通常の仕事以外に、挨拶まわりとか、忘年会とかがあり、さらに会社関係で出す年賀状の挨拶書き、宛名印刷と、その上に私事の年賀状の準備(印刷注文、挨拶書き、宛名印刷)など12月特有の恒例行事みたいなものがありました。
退職後は、挨拶まわりや忘年会と会社関係の年賀状はなくなったものの、私事の年賀状だけは今もあります。会社時代の人たちや友人、親類などへの年始のあいさつで、年に一度の便りです。それでも大きなつながりを感じます。
しかし、年賀状(年賀はがき)と喪中はがき以外は郵便はがきを出したり、貰ったりすることは非常に少なくなってきました。また、手紙(封書の郵便物)も同様です。
電話がまれなころは、郵便による信書(手紙、はがき)をよく出したり、受け取ったりしたものですが、今や、だいたい電話するか電子メールというのが普通になってしまいました。急速な通信手段の変化で、雲泥の差です。
日ごろの「郵便物」は、このように非常に少なくなっていますが、そのなかでも今なお、お世話になっている年賀状の由来や歴史と最近の動向などについて次にまとめていきます。
年賀状の起源
年賀状の起源は古く、平安時代の漢文学者、藤原明衡(あきひら 987~1066)が晩年に著した手紙模範文集「雲州消息(うんしゅうしょうそく)」(別名、明衡往来、雲州往来)のなかに年始の挨拶の文例が載っており、これが現存する最古の年賀状とされています。このように当時も、年始の挨拶を書状にして伝える風習はありましたが、それは詩歌を作れるなど一部の教養人だけのものであったようです。
ところで、年始の挨拶回りも古く奈良時代からすでにあったそうです。それが「年始回り」として習慣化されたのは8世紀末の平安時代からとのことで、元日から小正月(1月15日)までの間に、前年、世話になった主君、師匠、父母、親戚、近隣の人達の家に新年の挨拶に回ったということです。
このようにわが国には新年の年始回りという行事があり、それが行えないような遠方などの人への年始回りに変わるものとして、年始の挨拶状(年賀状)を届けることが始まったと言われています。例えば、江戸時代には諸大名が3日に年始の挨拶状を将軍に届けさせたということです。また、下級武士や商人などにも浸透し、遠く離れた親戚や知人に年始の書簡を書き送る風習ができたそうです。しかしながら、一般庶民までは広がっていなかったようです。
しかし、江戸中期以降、寺子屋が激増し幕末頃には全国で3~4万校にも達していたと推測されていますが、その寺子屋で教科書として使われた往来物(庶民の初等教育用教科書)の中に多くの年始状の例文が含まれています。
また、江戸時代後期には、それまであった公儀(幕府公用)の継飛脚や、諸藩の大名飛脚のほかに、町人も利用できる近距離用の町飛脚の制度も生まれました。そして明治の初めまでは、これらの「飛脚」が手紙・小荷物などを運んでいました。このころの年賀状が習慣としてどの程度に広まっていたかはっきりしませんが、民間にも教育や通信網が浸透してきて、一般庶民にも年賀状が広まっていたものと考えられます。