通信手段の移り変わりについて
それではここで、通信手段の変遷を「郵便」を中心にして、おさらいしておきます。なお、資料は「世界大百科事典(第2版)」を中心に参考、引用させていただきました。
昔、むかしのこと、人がその意思や情報を他人に知らせる、いわゆる通信の手段は大きな声を発したり、ものを叩いたり、かがり火を焚いたり、狼煙(のろし)をあげたりするなどの原初的な方法が用いられたと教科書で習いました。
しかし、これらは、聴覚あるいは視覚の及ぶ範囲内のことであり、限定的なものでした。しかも、これは受信者を特定して発せられた通信であったとしても、その通信の状況を見たり、聞いたりできるのは特定の受信人だけではありませんでした。その意味では、あまりにも開放的な通信手段であるといえます。
ところが人間が文字を発明し、粘土板やパピルスなど、さらに紙に書き記すようになったときに、通信は飛躍的に発展することになりました。人間の到達できる範囲であれば、文字の書かれたものは、どこまでも届けることが可能になりました。しかも、通信の内容を受信者に特定することができるようになりました。これは、まさに画期的なことでしたが、まだシステムが確立されておらず、今日の「郵便」の初歩的な第一ステップの段階であるといえます。
通信システムが制度として実施されたのは、わが国では大化改新(645年)にともなう一連の制度改正による「駅伝制」が最初でした。それは唐の制度にならったもので、大宝律令(701年)によって確立されました。首都から地方にのびる道路網に原則として、30里(約16km)ごとに中継所となる「駅」を設け、ここに宿泊施設や乗り継ぎのために人・馬を配置しました。しかし特定地域で、しかも公用にしか利用できませんでした。いわゆる、この「駅」をつなぐかたちで築きあげられた交通、情報伝達システムが「駅伝制」です。
緊急の公務出張や重要文書の伝送に利用され、例えば、日本の西の玄関であった九州・太宰府から都のあった奈良、京都へは馬を乗りついで4~5日で走りきるシステムができあがっていたということです。この制度を「駅制と伝馬制」、あるいは「駅伝貢進」とも言いますが、現在の陸上競技の「駅伝」は、この「駅伝制」にちなんで命名されました。
鎌倉時代になって、1185(文治1)年、鎌倉幕府によって駅路の法が定められ、街道に発達した宿を利用して早馬が走るようになりました。しかし、やがてこの制度も衰微していきましたが、豊臣秀吉の天下の統一とともに軍事・政治上の必要から再び国内の主要地を結ぶ通信設備が整えられました。
江戸時代になると、次第に幕府の手で五街道をはじめ宿場が整備され、「飛脚」による通信制度が整えられました。今の郵便や電話の役目をしていたのが、この飛脚ですが宿場には、人馬の継立、旅人の宿泊、通信業務という3大任務があり、幕府は各宿場に飛脚を置いて、公用の手紙や荷物をリレーしながら目的地まで届けました。
江戸時代の飛脚は馬を用いず、自らの足で走りました。江戸から京都までは約492km、普通、歩くと2週間ほどかかりますが、飛脚はわずか3~4日で走ったということです。
飛脚は公儀(幕府公用)の継飛脚のほか、諸藩の大名飛脚、後に町人も利用できる民間の町飛脚の制度もできました。町飛脚は幕府から定飛脚の免許を受け、東海道を6日かかって運行したことから定六(じょうろく)と呼ばれ、毎月3度往復したことから三度飛脚とも呼ばれました。
なお、飛脚制度は明治時代になっても続き、手紙・小荷物の輸送を続けていましたが、明治4(1871)年に国営事業として郵便制度が発足後、それに取って代わられ幕を閉じ役割を終えることになりました。飛脚は貨物の輸送だけとなったため、明治5年、飛脚業者は結束して陸運元会社を設立したり、車夫などに身を転じました。
そして明治時代。明治維新は生活をとりまくすべての文化を革新し、近代的な統一国家を形成しようとするものでした。その中で郵便制度の重要性に着目し、その制度創設を建議したのが前島密(まえじまひそか)でした。明治3(1870)年のことです。
明治3年、租税権正になった前島は、駅逓権正兼任を命じられました。駅逓権正に就任して最初に文書決裁したのが、公用通信費として飛脚業者に支払う運賃でした。それはあまりにも大金であり、そのことから問題意識をもった前島は、官民ともに安価で、自由に、どこからでも利用できる郵便事業の創業について構想をたて、建議しました。駅逓権正就任10日目のことです。前島はやがて租税権正本来の仕事の関係でイギリスに出張することになったため、明治4(1871)年1月24日の郵便創業の布告、同年3月1日(新暦4月20日)の郵便創業は杉浦譲の手によって行われました。
前島は帰国後、駅逓頭に就任し、「郵便切手」の発行、「郵便ポスト」の設置、時間を設定した業務運行を実施しましたが、「郵便」という名称も前島の考案です。均一料金制の実施、郵便事業の独占、日米郵便交換条約の締結(以上1873)、万国郵便連合への加入(1877)、郵便貯金の創業(1875)も彼の指導によるものです。
近代日本の郵便制度はイギリスの制度を真似たものですが、この郵便制度が新式郵便といわれたのは、郵便は毎日運行され、郵便取扱所等のほか、郵便ポストを設置し、郵便物に切手をはり、戸別に配達するもので、従来にない制度であったからです。これらの現在に通ずる郵便事業の業績のために、前島密はわが国の「近代的郵便制度の創始者」とか、「日本郵便の父」と言われています。
郵便事業の創業当初は、東京・京都・大阪に郵便事務を取り扱う郵便取扱所(郵便役所)が設置され、東京~大阪間とその沿線での試行的なスタートでしたが、当時は東京と大阪間を3日と6時間で届けたそうです。また、郵便ポストは最初「書状集箱」と呼ばれ、郵便取扱所内に置かれたほか、市内用に東京に12、京都に5、大阪に8か所置かれました。ちなみに、東京市内の郵便集配は1日12回だったとのことです。
明治5(1872)年7月には、全国的に広がり日本全国、どこからでも、どこへでも郵便物を届けることができるようになりました。こうしてわが国の郵便制度が次第にできあがっていきます。
(注)郵便(ゆうびん)という言葉について…「郵便」は、はがきや封書などの郵便物や、これを送達する仕組みのことですが、1870(明治3)年に前島密が選定・建議した語(和製漢語)です。郵便の「郵」は、「阝」(=むらざと)+「垂」(=地のはて)から成り、宿駅、宿場の意を表し、辺境の地に置かれた伝令のための屯所や、飛脚が中継する宿駅、さらに手紙や物品などを(中継して)運送する制度を意味します。例えば「郵」を使った漢語には、人馬を継ぎかえて宿駅から宿駅へと人や荷物・文書などを送ることを意味する「郵伝」、駅伝・郵便で送る便りを表す「郵信」、また、文書を郵便で送る意味の「郵送」などがあります。
また、郵便の「便」は、「たより」や「手紙」といった意味があり、この二つを合わせて「郵便」と名付けられました(ホームページ語源由来辞典)。