コラム(63-2) 「海苔」について…

「海苔」について…語源と「海苔の日」など

それでは和紙と同じように、手漉きされる海苔(のり)について少し勉強していきます。海に囲まれた日本は、魚介類に恵まれています。古代人の遺跡である貝塚からは、たくさんの貝類が見つかっていますし、残りにくい海草類ですが、縄文時代の遺跡である島根県の猪目洞窟や青森県の亀ヶ岡遺跡からは海草類が出土しており、古代から日本人が海藻を食べていたことが知られています。

このように海草類は、昔から貴重な食物として用いられてきていたと想像できますが、海苔が初めて文献に登場するのは、飛鳥時代の持統皇3(689)年の記録であるとされており、そこに「紫菜献上」とあり、この「紫菜(漢名)…しさい」が今の海苔にあたります。

さらに奈良時代にも、貢納品中に紫菜が記載されています。奈良時代の大宝元(701)年に制定された「大宝律令」よれば、29種類の海産物が租税としておさめられていました。そのうち8種類が海藻で、海苔を意味する「紫菜」が、調(ちょう…現在の税金)のひとつとして表記されています。

これに関連して現在、「海苔の日」という記念日があります。全国海苔貝類漁業協同組合連合会(全海苔漁連)が1966(昭和41)年に業界の発展祈願の気持ちを込めて毎年2月6日を「海苔の日」と定めました。その由来は前述の「大宝律令」に租税のひとつとして紫菜(海苔)があげられていることから、海苔は産諸国の代表的な産物として、大変貴重な食品であったことがうかがえますが、この史実に基づき、日本最古の成文法典である「大宝律令」 が施行された大宝2年1月1日が西暦では702年2月6日となるため、その日を全海苔漁連が「海苔の日」と制定したものです。さらに、この時季は海苔の生産の最盛期を迎えることから、タイミングとしてもちょうどよかったわけです。

 

また、奈良時代初期の和銅6(713)年の詔(みことのり)に基づいて養老(717~724)年間に撰進(せんしん)された「常陸国風土記」(ひたちのくにふどき)は、常陸国(現在の茨城県の大部分)の誌ですが、その中の信太郡(しだのこほり)の章に、海苔について次のように記述されています。「古老曰:倭武皇,巡幸海邊,行至乘濱.于時,濱浦之上,多乾海苔.俗云-乃理.由是,名能理波麻之村」ですが、口語になおせば、「古老が言うには、倭武皇(ヤマトタケルノスメラミコト)が海辺を巡幸して乗浜(のりはま)まで行かれた。その時、浜辺の浦のほとりにたくさんの海苔が干してあった。これを土の人はノリというので、これからこのあたりを能理波麻(のりはま)の村と名付けられた」ということです。ここで「海苔」という文字が使われており、それをノリと言っていたことが分かりますが、以下にも記載のように一般には、ノリの漢字は「紫菜」が使用されていたようです。

 

  • 信太郡…現在の茨城県稲敷郡
  • 乗浜…稲敷郡の東端、霞ヶ浦に臨む古渡・阿波・伊崎付近の浦浜
  • 倭武皇…景行皇(けいこうてんのう)の皇子である日本武尊(やまとたけるのみこと)のこと。古事記では倭建命と表記されている日本神話に登場する古代伝説上の英雄で、記紀の記述に依れば2世紀、一般には4世紀から6、7世紀ころの複数の大和の英雄を具現化した架空の人物とされています。

 

なお、「出雲風土記」(733年)においても、「紫菜(のり)は楯縫郡(たてぬいこうり)がもっとも優る」という記述があります(楯縫郡は現在の平田市十六島(うっぷるい)海岸)。さらに平安時代の延喜式(927年)にも、租税の対象として「紫菜」を含む10数種類の海藻が定められています。当時の貴族は米を主食として、「紫菜」はごちそうとして珍重して食べており、大変な貴重品で、まだ庶民の食べ物ではなったようです。

庶民が口にできるようになったのは江戸時代に入ってからのことで、江戸時代に始まった養殖によって、生産量が格段に増えたことが、海苔の普及に結びついたわけです。また、長く使われてきた漢名の「紫菜」に代わって、江戸時代になって「のり」が苔(こけ)状の代表的な海藻類であることから「海苔」という漢字が当てられるようになったということです。

 

ところで「のり」の語源は、ぬるぬるする意味の「ぬら」(滑)が訛った言葉と考えられています。また、古くからヒジキや紫菜などの海草類は水に濡らすと、ぬるぬるし、その粘りでぴたっとはりつくことから、もの同士を接着する、いわゆる「糊(のり)」としても使用されました。つまり、海草類はくっつける「のり」(糊)でもあったわけです。このことから「紫菜」を「のり」と読むようになったと言う説もあります。

 

さらに話を続けます。現在食卓にあがる乾(ほし)海苔は、アマノリ類の一種であるアサクサノリで作られているものが一品といわれています。乾海苔が商品化されたのは江戸時代にアマノリの養殖がはじまってからのことで、それ以前は生海苔が食されていました。

江戸中期・元禄時代の俳人芭蕉の句に「衰えやに食いあてし海苔の砂」というのがありますが、元禄時代までの海苔の製法は、採った海苔をそのまま広げて乾かしたものであったようで、「展延法」といわれます。

海苔の生産方法に転機が訪れたのは江戸中期以降のことで、海のいけすに海苔が付着する原理から、養殖がはじまりました。海苔の生産法が「採る」から「作る」に変わったわけです。その海苔養殖は、享保2(1717)年に浅草の弥平という人物が始めたのが最初といわれています。

江戸(東京)湾の品川浦の漁民は、魚を採るために木や竹でできたひび(葉を落とした木の枝や竹を束ねたもの)を浅海に立てていました。このひびに海苔がよく付くことから、海苔の養殖(自然養殖法)が始まりました。秋の彼岸の直後に行うと海苔がよく付くということもわかってきました。

自生した海苔を摘み取り、細かく刻んで紙のように漉いて、現在のような乾海苔の形にするようになったのも、同じく江戸の享保年間です。「すいて」作る「すき製法」が最初に行われたのも「浅草」だといわれています。

 

海苔を代表する「浅草海苔(あさくさのり)」のいわれには、次のようにいろいろな説があるようです。①日本の藻類学の創始者である岡本金太郎博士によれば、むかし浅草寺近くまで海だったころ、浅草川の河口付近で採れた然の海苔を乾海苔にしたので、その名前が生まれたとのことです。また一説によると、②当時「浅草紙」は有名でしたので、元で漉かれていた浅草紙の紙漉き法を真似て乾海苔の製造が考えだされたとか、あるいは③品川大森で採取した海苔を、浅草で製造したとか、④品川大森で採取、製造した海苔が浅草観音(浅草寺)の門前で売られていたためという説もあります。なお、江戸(東京)の誌で名所旧跡、年中行事、寺社、江戸の諸職業・諸商売について記されている「増補江戸惣鹿子名所大全」(元禄3(1690)年刊)に「浅草海苔というは元来品川大森の海岸にて取れたる海苔を浅草にて製し…」とあり、また浅草海苔は浅草川にて製する故浅草海苔ともいうと記述されており、その由来はこれだと特定されていませんが、このうち①と③がもっとも有力のようです。

 

いずれにしても今の東京・浅草にゆかりのある「浅草海苔」は当時、幕府には御膳海苔として献上され、栽培者には営業税である運上(うんじょう)が付加されました。海苔の養殖は江戸の場産業として独占的に奨励され栄えましたが、その後、徐々に江戸以外の方の諸藩でも生産が広がっていきました。漁場は昭和初期まで、現在の品川沖から大森、糀谷にかけて生産されていましたが、現在では浅草海苔はなく、アマノリ類のうちのアサクサノリという代表的な養殖品種としての名が残っているに過ぎません。絶滅危惧種アサクサノリ復活計画2005! 江戸時代に品川沖から始まったと言われるアサクサノリ養殖は昭和27年ごろからスサビノリと言う種類に代わっていきました。

 

  • 浅草川…荒川の別名で、隅田川とも言いますが、浅草の東辺を流ているために、元でこの呼称があります。
  • 浅草紙(あさくさがみ)…江戸(東京)の浅草・山谷・千住などで製造された漉き返しの紙、今の再生紙です。が付いた故紙(廃紙・古紙)を水に浸し、叩いて砕き、漉く程度の、非常に簡単なもの。などがよく除かれていないのでねずみ色をしており、よく見ると紙全体にムラが多く、文字が書かれたままの紙片や、人の髪の毛なども混じっていることもあるといいます。悪紙(わるがみ)とも言われ、粗悪な下等品の塵紙(ちりがみ)で、主に落し紙(今のトイレットペーパー)や鼻紙などに使用されました。

浅草紙の名前は、江戸時代に浅草周辺でつくられたことに由来します。江戸時代は紙屑が貴重品で、町中を歩いて、落ちている紙屑を拾い集める人がおり、紙屑を買い取って商売する紙屑買い(紙屑屋、反古買い)がいました。集められた紙屑が浅草紙になったわけです。

江戸時代には各再生紙が作られるようになり、「鼻をかむ紙は上田か浅草か」という句があるように、浅草近辺で作られていた浅草紙や長野の上田紙、京都の西洞院紙などが有名だったようです。そして時が移り昭和3、40年代には浅草紙の生産は衰退していきました(なお、浅草紙については別の機会にまとめる予定です)。

 

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更新日時:(吉田印刷所)

公開日時:(吉田印刷所)