「ひやかし」の由来は浅草紙
ここで少し話題を変えます。日常、買う気もないのに品物を手にとったり、値段を聞いたりするだけで、相手を「からかう」という意味などに使われる「ひやかし」とか、「ひやかす」の言葉は、この浅草紙の製造法に由来しています。その舞台となったのが「山谷(さんや)」と「新吉原」ですが、もともと現在の雷門一丁目(田原小学校付近)辺りで興った浅草紙の紙漉きの中心は、浅草から隅田川に沿って上流の山谷に移りました。本題に入る前に、予備知識として「ひやかし」由来の舞台となった「山谷」近辺の状況について若干触れます。
山谷には堀があります。山谷堀と言って、江戸にたくさんあった堀を代表するもので、堀といえば、山谷堀を指したほどであったとのことです。この山谷堀の周辺に田原町方面から転出してきた紙漉人の多くが集まっていて浅草紙を生産しました。
山谷堀は江戸を水害ら守るために、元和6(1620)年に築かれた運河ですが、昭和50年代に埋め立てられて暗渠となり、緑道が整備され今は「山谷堀公園」になっています。山谷堀に架けられた橋は9つありますが、隅田川寄り下流から今戸橋、聖天橋、吉野橋、正法寺橋、山谷堀橋、紙洗橋、地方(じかた)新橋、地方橋、日本堤橋というように、隅田川から新吉原のある日本堤に通じており、堀の両岸には多くの船宿や茶屋がありました。その途中にある「紙洗橋」は現在の東浅草一丁目に橋柱だけが今も残っており、その付近で屑紙を漉き返して「浅草紙」を製造していたことが知れます。浅草紙の漉家にとっては用水を供給してくれる貴重な源泉でした。また樋で漉場へ水を引くのみならず、堀端に水槽を設けて「ひやかし」(紙漉きの工程…後記参照)にも使われたようです。
この近くにかつては「郭(くるわ)」と呼ばれる別世界がありました。「新吉原」です。1657(明暦3)年の江戸明暦の大火で現在の日本橋地区にあった「吉原」が全焼したために、日本堤に誕生した新しい遊郭です。新吉原は浅草寺裏の田圃の中にできたので、遊客は駕籠か船で通ったようです。猪牙船(ちょきぶね)といわれる小さな船で柳橋から隅田川を上り、今戸(いまど)の山谷堀まで来て日本堤まで歩きました。山谷の遊郭に通うことを「山谷通い」といい、山谷通いする遊客が乗り合った船のことを山谷船、また、山谷の遊郭通いをする者が用いた草履を山谷草履(さんやぞうり)と言うように、山谷には「郭」がらみの言葉が今でも残っているようです。
それでは「ひやかし」の由来について説明します。広辞苑(第五版)によれば、「ひやかし(冷かし)」の意味は、
①(氷や水に漬けるなどして)ひやすこと、
②張見世の遊女を見歩くだけで登楼しないこと。また、その人。素見。
③買う気がないのに売物を見たりその価を尋ねたりすること。また、その人。
④(相手が恥かしがったり当惑したりすることを言って)からかうこと。なぶり辱しめること、とあります。このなかで今では、一般的に③とか④の意味で使うことが多いのですが、もともとは下記のように、浅草紙に由来する②の意味が語源だったようです。
また、「ひやかす(冷かす)」は「嬉遊笑覧によれば、浅草山谷の紙漉業者が紙料の冷えるまで吉原を見物して来たことに出た詞(ことば)で、登楼せずに張見世の遊女を見歩く」と言う意味であると説明されています。すなわち、「嬉遊笑覧」(きゆうしょうらん)によれば、「ひやかす(冷かす)」の語源は「浅草山谷の紙漉業者が紙料の冷えるまで吉原を見物して来たことに由来しており、遊郭で妓楼に上がって遊興することなく、店先に居並んで客を待っている遊女を見て歩くことの意味である」と解釈されています。
もう少し説明します。「嬉遊笑覧」(喜多村信節著、文政13(1830)年刊)は江戸時代の百科事典ですが、そこには「ひやかし」の語源について、「山谷にはすきかえし紙を製するもの多く、紙のたねを水に漬けおき、そのひやくる迄に、廓中のにぎはひを見物して帰るより出でる詞なり」と解説されています。
これをさらに補足して説明しますと、江戸(今の東京)の浅草山谷には、漉き返し紙を製造する職人が多くいましたが、紙を漉く準備として、夕刻になると翌日の紙料作りをしました。そのためにまず、紙の原料となる屑紙を水の入った水槽の中に放り込む作業を行い、充分に水を吸収させて軟らかくしました。この工程を「ひやかし」と呼んでいましたが、屑紙をしばらくの間は水に浸して置きました。この間の2、3時間くらいは暇でしたので、職人は時間つぶしのために、近くにある遊廓「新吉原」に出掛け、店の遊女を見て歩いたということです。客待ちをしている遊女をからかうだけでしたので、女郎を買う気も無いのに、からかうだけで帰ってしまう彼らは、紙をひやかしてきた連中、というわけで「ひやかし」と呼ばれました。
それまでは、このような行為を「素見(すけん)」「素通(すどほり)」が使用されていたということです。例えば、素見騒き(すけんぞめき)という言葉は遊里をひやかして歩くだけで、登楼しないことや、その人に対して使われていたようですが、江戸時代の半ばぐらいから「ひやかし」が使われ始めたと言われます。以上のように、「ひやかす」という言葉の由来は、「浅草紙」の漉き場であった「山谷」と遊廓「新吉原」にあったというわけです。
注
- 張見世(はりみせ)…遊郭で、娼妓が店先に居並んで客を待つこと。張店とも言う。
- 遊女(ゆうじょ)…宿場などで歌舞をなし、また枕席に侍するのを業とした女。安土桃山時代以降、遊郭が公許されてからの公娼・私娼の称。女郎。娼妓。あそびめ。
- 登楼(とうろう)…妓楼に上がって遊興すること。
- 素見(すけん)…見るばかりで買わないこと。また、その人。ひやかし。
- 遊郭(ゆうかく)…多数の遊女屋が集まっている一定の地域。いろざと。いろまち。くるわ。遊里。遊廓とも言う。
- 吉原(よしわら)…江戸の遊郭。1617(元和3)年、市内各地に散在していた遊女屋を日本橋葺屋町に集めたのに始まる。明暦の大火に全焼し、千束日本堤下三谷(現在の台東区千束)に移し、新吉原と称した。売春防止法(1956年公布)により遊郭は廃止。
- 山谷(さんや)…東京都台東区の旧町名、三谷とも。1657(明暦3)年の大火に元吉原町の遊郭が類焼して、この地に仮営業して新しい遊郭ができたから、新吉原の称ともなった。
- 隅田川(すみだがわ)…正式名は荒川。明治29年制定の河川法に基づき、荒川水系であるところから荒川と認定されて以来、法律上隅田川の名は存在しない。なお、浅草の地元に流れている浅草川について「荒川の一名なり、浅草の東辺を流るるゆえ呼名とす。又大川とも、宮戸川とも、隅田川とも称す」とされているように、隅田川は荒川の別名に過ぎない。しかし、荒川よりも隅田川のほうが一般に知られ、親しまれている。