コラム(66-3) 紙・板紙「書く・拭く・包む」(2)浅草紙の漉き方について

浅草紙の漉き方について

「ひやかし」の由来にもなった浅草紙ですが、その製造方法はなどが付いている屑紙をそのまま水に浸し、叩いて砕き、どろどろにして漉く程度の、非常に簡単なものでした。今のように脱色したり、漂白していませんのでなどの色が残り鼠色をしており、いろいろな異物が漉き込まれていました。そのため浅草紙は屑紙を漉き直した漉き返し紙とも言われ、現在の再生紙と呼ばれるものでした。

漉き返し紙の歴史は古く、平安時代にさかのぼります(下記(注)参照)が、その製造技術は江戸時代にはすでに民間にも普及しておりました。

浅草紙の製造工程は次のように7工程から成っています(會田隆昭著「浅草紙の三百年」)。すなわち、①冷やかし、②叩解(こうかい)、③紙料、④漉き上げ、⑤脱水、⑥乾燥、⑦荷造りですが、少し説明します。

①冷やかし…市中で使い古された屑紙を水槽に浸し、水を含ませて軟らかくする(2、3時間くらい)。

②叩解…水で軟らかにした屑紙を台に載せて棒で叩き、細かく砕く(紙砧(かみきぬた))。

③紙料…細かくなってどろどろした屑紙を紙料として水の入った漉槽に入れ、かき混ぜる。

④漉き上げ…漉桁で紙料液をすくい上げ、1枚1枚漉き上げる(手漉き)。

⑤脱水…漉き上げた紙を重ね、重しを載せて水を絞る。

⑥乾燥…脱水した湿紙の1枚1枚を羽毛で干し板に張り付け、日乾燥する。

⑦荷造り…通常、乾かした紙96枚を1帖として帯紙で束ね、40帖を1束とする。

 

このように浅草紙の漉き方は、非常に簡単で市中で使い古された屑紙を水に浸して、軟らかくなった屑紙を叩いて砕き、紙に漉く程度のもので、や異物などが除かれていないので紙片や人の髪の毛などが混入しており、鼠色に仕上がりました。なお、江戸時代は紙屑は貴重品で、町中を歩いて、落ちている紙屑を拾い集める人がおり、それを買い取って商売する紙屑買い(紙屑屋、反古買い)がいました。この集められた紙屑が漉き直しされて生まれ変わって浅草紙になったわけです。

 

漉き返した紙について…平安時代の昔、紙は大変貴重でしたので、使用済みの紙の裏などを使用したり、再び漉き返して使いました。平安時代には文字などが書かれて不用になった紙を反故(古)ないし反故(ほご)紙といい、これを集めて漉き直した紙を漉き返し紙(すきかえしがみ)とか、宿紙(しゅくし、すくし)、還魂紙(かんこんし)と言います。そのころは今のように脱技術のない時代でしたから、その紙は薄く色(薄鼠色)が残っており、後世このような紙は「水雲紙(すいうんし)」とか、「薄紙(うすずみがみ)」(鼠紙、紙屋紙)とも呼ばれています。日本三代実録によれば、清和皇の女御藤原多美子が皇崩御(元慶4(西暦880)年)の後に、生前に皇から送られた手書(手紙)を集めて漉き返した紙に法華経を書き写し、供養したのが、漉き返しのはじめと言われます。

平安時代の官営製紙所である紙屋院(かみやいん)でも、平安時代の末期には製紙原料の入手が難しくなったため、反古紙を集めて漉き返した宿紙を多くつくったと伝えられています。

江戸時代になって後水尾(ごみずのお)皇(在位1611~29年)が、宮中(京都)で使用した書類を年末に焼却処分しているのを見て、「無駄なことを」と清涼殿の下の泉に浸して漉き直させたのが民間に広まり、やがて江戸(現東京)へ伝えられたといわれます。

漉き返し紙には高なものから安価なものまで多様なレベルがありますが、安価なものは本稿のように「鼻紙」や「落し紙」などに使われました。有名な漉き返し紙には、江戸の「浅草紙」、京の「西洞院紙(にしのとういんし)」、大坂の「湊紙(みなとがみ)」などがあります。

 

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更新日時:(吉田印刷所)

公開日時:(吉田印刷所)