お尻拭き用「紙」のはじまり
世界で初めて紙が尻始末に使われたと思われる記録は、6世紀に著された中国の「顔氏家訓(がんしかくん)」に残されています。紙の発明国であり紙の歴史がもっとも長い中国では、6世紀の中国北斉の顔之推が著した家訓(子々孫々に対する訓戒の書)である「顔氏家訓」の治家篇に紙を「穢用」(不浄なこと)に使用してはならないとあります。当時、紙は普及して間もなくで貴重であったことから、(鼻紙等の)不浄なことに使ってはならないと戒めています。(参考)「顔氏家訓」治家篇「吾毎讀聖人之書 未嘗不肅敬對之 其故紙有五經詞義 及賢達姓名 不敢穢用也」。
また、851年にアラビア人が書いた旅行記の中に、「シナ人には清潔さがない。用便をしたとき、水で洗い落とさず、シナ紙でぬぐう。「インド人もシナ人も不浄を水で洗わない。シナ人は紙でふくだけである」(「シナ・インド物語」関西大学東西学術研究所刊より)。このように中国では早くから厠で紙が使用されていました。(注)シナ紙は中国紙のこと。
それでは日本ではどうでしょうか。日本でもトイレで紙が使用される以前、古くは直接手で拭いていたか植物の葉や海草などを使用していました。さらに奈良時代に入ってから細い木の棒が使われるようになったと言うことです。このように草葉や木片などが主流でしたが、紙を使うようになったのは、平安時代(794年~1185年)になってからのことです。紙が使用された記録は12世紀の「長秋記」と「餓鬼草紙(がきぞうし)」にあります。
「長秋記」は平安時代後期の貴族である源師時(みなもとのもろとき)が記録した1111年から1137年間の日記ですか、その元永二(1119)年十月二十一日の条、上皇御所大炊殿(おおいどの)のしつらえを記した中に、「其東間為御樋殿」とあり、下に割注で「有大壷紙置台等」と説明されています。ここに御樋殿(みひどの)は屋敷の中にある便所、大壷は便器のことで、そこに用便後に使う大壷紙(おおつぼがみ)を置く台が置かれているというもので、現在のトイレットペーパー(シート状)に相当する大壷紙が置かれており、使用されていたことが分かります。大壷紙の紙質ははっきりしたことは分からないが、おそらく漉き返しの租紙と考えられています(久米康生著「和紙文化辞典」)。なお、便所の「紙置き台」のことが記載され、トイレットペーパーと思われる紙名が登場するのは、この「長秋記」にある「大壷紙」が初見と考えられています。言わば、わが国の「ちり紙」の始まりと言えます。
そして「餓鬼草紙」は平安末期から鎌倉初期、12世紀末ごろにつくられた絵巻で、東京国立博物館と京都国立博物館に各1巻が現存しています。その東京国立博物館本は詞書(ことばがき)はなく、絵のみ10段が残っていますが、その中の1段に「人の糞尿(ふんにょう)をねらう餓鬼」の絵があります。道ばたで大人や子どもが大便がつかないように高下駄をはき、いろんな格好で排便をしていますが、子どもは裸で右手には木片を持っています。また、近くには紙片や木片が散乱していますが、紙は排便のときに使ったものと思われ、子どもが持っている木切れや散らばっている小さな木片は用便の際、尻を拭う木のへらで「籌木(ちゅうぎ)」と言われるものです。(参照…東京国立博物館 館蔵品拡大1「餓鬼草紙」)。紙は後年に書き足したのではないかとの説がありますが、排便のときに紙を使用して始末した可能性のある絵巻であるとしています(関野 勉著「大壷紙からトイレットロール迄 (尻始(紙)末記)家庭紙史の一断面」)。
このように用便後に紙を使用するようになったのは中国・日本とも欧米よりもはるかに早かったわけです。それでも当時は「紙」は貴重なものでした。わが国で一般的に使用されるようになるのは、各地で紙(和紙)づくりが盛んになり、江戸(東京)ではちり紙「浅草紙」の需要がひろがる江戸時代になってからです。しかし、まだ広く全国的な普及にはなっていませんでした。そのことが「トイレットペーパーあれこれ」(JPレポートより、1993年3月)にまとめられています。それを次に載せておきます。
江戸時代には、大都市の町人階級によって落とし紙が使われ始めたと推定されますが、地方の庶民、特に農民は何を使っていたのでしょうか? 農村にまで紙が普及したのは、かなり後になってからのようです。というのは、明治大正期の「お尻の拭き方」調査によれば、調査をした長野県全体をワラ地域、葉っぱ地域、木片地域、棒地域、そして紙地域に分けることができ、紙を使っていたのは紙漉きをしていた地域に限られていたそうです。
ワラは、東北地方などでは昭和に入っても堆肥をつくることを目的に使われていましたし、赤ん坊のおむつにもなったそうです。葉っぱは、フキなどを多く使用していたとのこと。「拭く」という言葉はフキの葉がその語源であるという説もあります。棒はステギ(捨て木)ステボー(捨て棒)と呼ばれ)使用後は林や川などに捨てられたのですが、川辺に打ち上げられたこの棒を、格好な焚きつけとばかりに下流の人々が拾ったという話も伝わっています。また、海辺の人々は海藻も使っていたようです(JPレポートより)[紙の豆辞典3 、1993,3 トイレットペーパーあれこれ]。
このように明治・大正・昭和期でも地方の庶民、特に農民では用便後の始末に「わら」「葉っぱ」「木片」「棒」などが使われましたが、次第に一般の多くの人にも便所の落し紙として「ちり紙」や「新聞紙」などが普及し、「紙」が使用されるようになっていきます。
西洋式トイレットパーパーの登場
トイレ用の紙、トイレットペーパーが初めて商品化されたのは、ティッシュペーパーよりも早い1857(江戸時代の安政4)年に米国の実業家、ジョセフ・カエティによってです。この時のトイレットペーパーは1枚1枚のシートタイプで、すべての紙にカエティの名前が印刷されていたということてす。しかし、当時のトイレには古新聞、パンフレット等の紙が置かれ、それでお尻を拭いていたため、カエティのトイレットペーパーはあまり売れなかったそうです。1879年には、イギリスでもトイレットペーパーが商品化されました。こちらはロールタイプで、ミシン目入りのものでした。しかし、ここでもトイレットペーパーは時代の波に乗れず、人気商品にはなりませんでした。トイレットペーパーが一般化するのは1880年に入ってからのことです。すなわち、ロール状に移行したトイレットペーパーは下水道の発達とともに普及していくことになります。
1880(明治13)年代にアメリカ、ヨーロッパの大都市で公共下水道事業が進み一般家庭にシャワー、トイレが作られるようになりました。さらに最新式の便器「一体成型台座つき便器」が製造販売されるとともに、当時、米国のスコットがつくっていたロール状トイレットペーパーは一般の人に受け入れられようになり、スコットは「スコットペーパーカンパニー(Scott Paper Company)」という会社を興し、トイレットペーパー「スコッティティシュー」を商品化して大儲けをしたということです。それが今ではなくてはならないものとなりました。時が経ち、その「スコッティ」のスコットペーパーカンパニーも「クリネックス」のキンバリー・クラーク社に吸収合併されますが、日本でも2006年に合併があり「クリネックス」と「スコッティ」を製造してるメーカーは同じ日本製紙クレシア(株)となりました。
その米国生まれのトイレットペーパーが日本に入ってきたのは明治時代です。明治維新後の主にホテル、洋館でトイレットペーパーが必要とされましたが、当時は日本になかったので輸入していたそうです。日本の企業は外国産のトイレットペーパーをもとに、国産トイレットペーパーの開発を始めます。そして大正時代、ついに初の国産トイレットペーパーが生産されました。大正13(1924)年のことです。製造は丸網抄紙機で、当時の土佐紙会社(旧日本紙業株式会社)芸防工場で生産され、最初は外国航路の汽船に積み込まれていましたが、その名も「Rising Sun」(ライジングサン)。後に国内にも「旭トイレット」の商品名で発売されたとのことです。今と違い吸水性が悪く溶けにくく、硬くてて手でもんで使っていたそうですが、戦後の昭和27~28年ころまで生産していて旧国鉄に販売、納入していたということです。
それからようやく第二次世界大戦後(1945年)の1963(昭和38)年10月に、米国のスコット社との日米合弁で誕生した山陽スコット(現・日本製紙クレシア)がわが国最初の洋式の一般家庭用トイレットペーパー「スコットトイレットティシュー」の生産・発売を開始しました。輸入の「クリネックス」よりもやや安価で、広く出回るようになります。そしてわが国で生産され、販売されるようになった薄くて柔らかい良質の前出のティッシュペーパーとトイレットペーパーは、それまでの厚手のざらっとしたちり紙や京花紙に代わって次第に普及し大きく成長を遂げていきます。しかし、それとともにわが国で育った歴史あるちり紙業界は大きく衰退していくことになります。