わが国の新聞の歴史
次にわが国の新聞の始まりについておさらいをしておきます。現在、日本には108の日刊紙(2007年3月、日本新聞協会加盟)があります。それらの元祖となるわが国最初の日本語による日刊紙は、1871年(明治3年…旧暦)に横浜で創刊された「横濱毎日新聞」です。この定期刊行の近代新聞である「横濱毎日新聞」以前にも新聞はあったものの、日刊ではありませんでした。
もう少しわが国の新聞の歴史について触れていきますが、依前に本コラムで紹介しましたが、あらためてここに載せます。江戸時代の17世紀初めから19世紀後半まで、わが国では社会的事件が起きたときに、文字または文字と絵でそのニュースを伝える1枚摺りのビラが大都市で売られました。これを「瓦版」(かわらばん)あるいは「読売」と総称されています。
注
「瓦版」とは、粘土版に文字・絵画などを彫刻して瓦のように焼いたものを原版として一枚摺りにした粗末な印刷物。実際は木版摺りのものが多い。また、「読売」は、社会の重要事件を瓦版一枚摺りとし、街上を読みながら売り歩いたもの。のちには歌謡風に綴り、節をつけて読み歩くようになりました。
このように江戸時代には「瓦版」あるいは「読売」という情報伝達媒体があり、今日の新聞の役目を果しましたが、日本で最初に発行された「新聞」は、外国人が外国人のために外国語で発行した新聞(居留地新聞)です。江戸時代の1860年代の初めのころのことです。すなわち1861(文久1)年6月、長崎でイギリス人ハンサード(A.W.Hansard)が週2回刊の「ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドバタイザー The Nagasaki Shipping List and Advertiser」(英字紙)を創刊したのが始まりですが、ほかに「ジャパン・ヘラルド The Japan Herald」(1861年)、「ジャパン・コマーシャル・ニュース The Japan Commercial News」(1863年)、「ジャパン・タイムズ The Japan Times」(1865年)などがあります。
次いで翌年の1862(文久2)年1月には、日本語初の新聞が徳川幕府により発刊されました。「官板バタビヤ新聞」(かんぱんバタビヤしんぶん)ですが、これは幕府がバタビア(現在のジャカルタ)のオランダ総督府機関紙「ヤファンシェ・クーラントJavaansche Courant ヤバッシェ・クーラントJavasche Courant」(マカオやバタビヤなどの雑誌)を翻訳・編集した冊子です。これは日本における新聞出版の初めとされていますが、「新聞の祖」とは認められていません。この幕府の手による外国新聞の翻訳出版事業は、この年の文久2年のみで中止されました。ほかに外国の新聞が次々と翻訳・刊行されましたが、これらの諸新聞はすべて木活字印刷で書籍スタイルの単行本でしたので、現在のような新聞とはかなり体裁が異なっていました。
その後、ジョセフ彦[ジョセフ・ヒコ、Joseph Heco(浜田彦蔵)]が、明治政府樹立(1868(明治1)年)の4年ほど前の元治元(1864)年6月28日、わが国民間による最初の新聞「新聞誌」を創刊しました。外国の新聞を翻訳したものでしたが、当初はすべて手書き(5部)で苦労したようですが、全部無料で配ったと言います。そして翌慶応元(1865)年5月には「海外新聞」と改題しますが、新聞は和紙に木版摺りして、二つ折りの半紙4、5枚をこよりで和綴じの冊子になっている書籍スタイルを採っており、1か月に平均2回、毎号の部数は100部程度で、これもほとんど無料で配付したということです。
ジョセフ彦は、江戸時代の末期、アメリカ国籍を取った日本人(今の兵庫県播磨町生まれ)ですが、ジョセフ彦が創刊した新聞は日本民間人の手による日本人のための、わが国はじめての新聞を発行したことから後に、わが国の「新聞の父」と言われています。
さらに1867(慶応3)年イギリス人宣教師ベーリー(Buckworth M.Baily)が「万国新聞紙」を創刊しましたが、これは外国のニュースだけの新聞でした。1868(明治1)年になると、日本人による、日本国内の論評,ニュースを中心とした新聞が、東京、大阪、京都、長崎などに誕生。その代表的なものが柳河春三の「中外新聞」です。しかし、いずれも日刊ではありませんでした。
そしていよいよ1871年1月28日(明治3年12月8日…旧暦)に、日本語によるわが国初の日刊紙である「横濱毎日新聞」が横浜で誕生しました。これが日本最初の日刊新聞の始まりであり、鉛活字と西洋紙を使用した新聞の誕生です。当時発行されていた新聞が和紙に木版で印刷されて、和綴じの冊子スタイルになっていたのに対し、「横濱毎日新聞」は初めて洋紙(輸入洋紙、舶来用紙)を使用し活版で印刷した画期的な新聞でした。1枚刷りの裏表2ページ(両面刷り)の新聞で、最初のうちは木活字が含まれていましたが、後に本木昌造が開発した鉛活字を使用しています。ここに今日につながる日本の近代新聞の幕開けとなりました。その後も相次いで新聞か発刊されますが、これらの民間人による近代新聞はすべて「海外新聞」が原型となっているためジョセフ彦が「新聞の父」と言われる所以です。
横浜は安政6(1859)年の開港後、外国人居留地では内外の情報を伝えるため、早い時期から新聞が発行され、様々な情報の発信地となっていました。ジョセフ彦が初めて日本語による新聞を発行したのも横浜です。このような素地のある地で「横濱毎日新聞」が横浜活版社(舎)から創刊されました。当時神奈川県知事だった井関盛艮(もりとめ)の主唱で、横浜の貿易商らに呼びかけ、その出資により刊行に至ったもので、横浜の当時を色濃く反映しており、貿易・経済関係のニュースが主でした。他には迷子・売家・移転・落し物等のお知らせが掲載され、2ページもので売られており、価格は100厘(10銭)[1厘=1/1,000円、銭の10分の1]だったとのことです。
刊行の目的は、「新聞紙の専務は、四民中外貿易の基本を立て、皆自商法の活眼を開かしめんが為め本社の因て設けし所也」とし、世界や国内の動静、物価などを載せ、諸民の智識を啓発することでした。創刊号の内容は、新聞購読料、広告掲載料、両替相場、船舶出入、内外雑報、輸出入品、競売、売家、広告などで、商況などの経済記事や商店の広告などがほとんどでした。初期の紙面からは、広告掲載料が収入のかなりの部分を占めていたことがうかがえます。「商家の便利を第一」とした横濱毎日新聞は、当時大変珍しいものだったと思われますし、横浜での貿易の商況が掲載されているため、日本各地で販売され、あるいは送られており、さまざまな場所で原紙がみつかっています。創刊号は、その所在が長いこと不明でしたが、1964(昭和39)年に群馬県高山村の旧家で発見されました。所蔵していた家には、明治2年3月に前橋藩が開設した横浜生糸直売所に勤務していた人がおり、代々その家に伝わったと思われます。現在、国立国会図書館が所蔵中との由。
創刊当時は経済情報主体でしたが、文明開化の風潮のなかで、政府や県は新しい情報媒体としての新聞を利用しようとし、様々な保護政策をとります。しかし、政策に対する批判が新聞紙上で展開されると、政府は言論を弾圧するようになりました。 その後、1872年には「東京日日新聞」(後に毎日新聞が買収、統合)、「郵便報知新聞」(報知新聞の前身)、現存最古の地方紙「峡中(こうちゅう)新聞」(山梨日日新聞の前身)など後の有力紙が相次いで創刊され、短い年月の間に日本各地で多くの新聞が生まれました。
ちなみに、現在、日本で全国紙と称されるのは読売新聞・朝日新聞・毎日新聞・日本経済新聞・産経新聞の五紙(狭義には読売新聞・朝日新聞・毎日新聞の三紙を指す)ですが、讀賣新聞は明治7(1874)年11月に創刊。朝日新聞は1879(明治12)年に大阪で創刊、毎日新聞は1876(明治9)年2月20日創刊の「大阪日報」を母体に88年「大阪毎日新聞」として発足。1911年「東京日日新聞」を買収し、43年「毎日新聞」に統合。そのため「最古の歴史」と言われることがありますが、「横濱毎日新聞」とは全くの無関係です。日本経済新聞は1876(明治9)年「中外物価新報」として創刊。また、産経新聞は1933(昭和8)年、大阪で「日本工業新聞」として創刊しました。
ところで、その後の横濱毎日新聞は1879(明治12)年に買収され、本社を東京に移し、同年11月から「東京横濱毎日新聞」と改題。さらに1886(明治19)年5月に「毎日新聞」、1906(明治39)年7月には「東京毎日新聞」と改題し、さらに1907年に「報知新聞」の経営するところとなり、1940(昭和15)年には「帝都日日新聞」に吸収され、残念ながら姿を消すこととなります。