コラム(71-4) 紙・板紙「書く・包む・拭く」(6)輪転印刷機の高速化・オフセット印刷化

輪転印刷機の高速化

次に印刷面についてまとめます。新聞を印刷する速度の上昇も顕著です。次に新聞印刷機の歴史と印刷速度の変遷を述べます。印刷機はグーテンベルクがブドウ搾り機にヒントを得て作ったと言われています。グーテンベルグが活版印刷術を発明したとき(1450年頃)の印刷機は、ブドウ絞り機を応用した木製のものでした。ネジ式で、レバーを手前に引き圧盤を下に下げて圧力をかける構造です。

グーテンベルクの発明後、およそ350年にわたって印刷機はほとんど改良されませんでしたが、1760年代のイギリスに始まり、欧州諸国に波及した産業革命を経て、ようやく18世紀末にイギリスのスタンホープ卿(Charles Stanhope 1753~1816) が初めて総鉄製の印刷機を制作します。これによって印刷機の姿が大きく変わっていくことになりますが、印刷の産業革命は、このスタンホーププレスによって始まったのです。彼が開発した印刷機は素材の変化だけでなく、レバー部分にテコの原理をつかうことで効率良く力を伝えられるように改良されており、また、重い圧盤の上げ下げにも工夫が施されるなど、新しい加圧機構を採用しており、わずかの力によって大きな圧力を加えらるように工夫され、より簡便に多くの印刷ができるようになりました。

彼が考案した印刷機をスタンホープ型印刷機といいますが、平らな版に対して平らな圧盤で圧力をかけるもので、いわゆる平圧式の印刷機です。手でレバーを引くことから手引き印刷機ともいわれますが、その印刷機はイギリスにおいて広く利用され、タイムズ社などでも日刊新聞の印刷に使用していました。しかし、まだ手動式であり、1時間に休みなく印刷しても200~300枚くらい、4ページ新聞にして100部ほどの印刷ができる程度でした。

このころはちょうどナポレオンが台頭してきたときであり、新聞発行部数も増加傾向にあったため、さらに高速印刷機の出現が要望されていました。このような中で、1811年には、ドイツ人のケーニヒとバウアーは、平らな版盤を往復させ加圧して印刷する方法を発明しました。この平台印刷機の印刷速度は1時間あたりおよそ500枚でした。続いてタイムズ社の要請によって彼らは、平台印刷機の改良を進め、1814年には蒸気動力を利用した押胴式印刷機を作って、平らな版盤を往復させ加圧して印刷する近代的方法を発明しました。このときの印刷能力は1,100枚/時と印刷部数も増え、さらには両面印刷で1時間あたり750枚へと速度が向上しました。そして1827年にはケーニヒらの印刷機は改善され、1時間あたり4,000枚から5,000枚の印刷速度にまで達しました。

それからおよそ20年経った1846年、アメリカのバートとリチャード・ホー父子(Robert Hoe, Richart Hoe)がさらに高速を目指し、版盤を円筒状にした輪転方式の印刷機を開発しました。印刷能力は8,000部に、1850年ころには1時間に2万枚に増加しました。次いでアメリカのブロック(William Bullock)や、フランスのマリノニ社は、連続したロール紙に印刷する方法を実用化し、さらなる印刷速度の向上に貢献し、1860年ころには1時間あたり両面印刷で1万5000枚の速度に達し、ここに大量高速印刷技術は大きく進歩しました。

日本ではこのころは江戸時代が終わり、明治期(明治元(1868)年)に入り、近代化や欧化主義の風潮が高い文明開化の時代でした。西洋紙(洋紙)を使った日刊新聞もこの時期に誕生しました。平判(枚葉紙)を用いた新聞の印刷は、ほとんどが足踏み式印刷機を使用していましたが、1890(明治23)年に東京朝日新聞社が民間で最初にフランスのマリノニ社から高速輪転機一台を輸入しました。マリノニ型輪転機は、新聞を速く大量に印刷するために、丸鉛版と巻取り紙を使い、筒形の版面と筒形の圧胴の間にロール紙を通し、連続回転させて印刷する方式で、印刷能力はそれまでに比し約20倍と大幅に向上したということです。

極秘裏に準備されたこの朝日新聞社の速報印刷体制の発表は、当時、「同業各社に強烈な衝撃を与えた」(朝日新聞の九十年史)とのことです。また、「日本新聞通史」(新泉社)では、この朝日の輪転機による印刷体制の導入を、「従来の平盤ロール機は、一時間に四ページ新聞千五百枚の印刷能力しかなかったのに、朝日のこの二枚がけ機は『八ページ掛にて実際は三万部印刷』(十一月二十日社告)だったので、能力は二十倍、まさに新聞印刷上の革命であった」と評価しています。

この巻取り紙を使う高速輪転機が導入されたことによって、わが国の新聞社は大きく変わって行くことになります。その後、朝日新聞社による津田式輪転機、東京機械製作所(明治7(1874)年創業)による石川式輪転機が製造されますが、これらはマリノニ式を複製したものでした。この印刷機の偉力を見て、明治末期には各社がその設置を決め追従することになります。今でもこの輪転式の印刷機は主流ですが、さらに改良され、印刷能力は飛躍的に伸びていきます。

戦後まもない1950年代の新聞印刷は凸版輪転印刷(単色)で、公称印刷速度8万部/時(4頁建)、実質6~7万部/時程度でしたが、経済成長率が年平均10%を超え、日本経済が飛躍的に成長を遂げた1955年~73年ころまでの高度成長期に入ると、新聞のページも増え、印刷速度も上がりました。16ページ建て10万部/時から1960年代には12万部/時へ。1970年代よりオフセット印刷、カラー印刷(4色)が導入されだして、1990年代には5台の輪転機を連結し、40ページを一度に印刷印刷速度も15万部/時に上昇しました。しかも印刷時の紙切れは後述のように巻取り1000本に1~2回、あるいは1回以下となり、「印刷時の断紙は起きなくて当たり前」の時代になりました。

また最近では印刷速度17万部/時もあり、効率的でスピーディな印刷が実現されております。なお、現在、より高速化が図られ、印刷能力18万部/時の新聞用オフセット輪転機も登場し、さらに世界最速の20万部/時の印刷を可能にした最新機種が開発され、その高速印刷に成功。その第1号機が、今年(平成19年)3月から京都新聞社で本稼働に入ったとの情報があります。これからも新聞輪転機のさらなる進化が追求されていくことでしょう。

 

オフセット印刷化と紙面のカラー化

新聞用紙の印刷には、長い間凸版方式が採用されてきました。印刷方式には、凸版、平版、凹版および孔版の4種類がありますが、歴史ある新聞はもっとも古い印刷方式である凸版方式の活版印刷でスタートしました。凸版印刷はインキ膜が厚く、強い印圧による直接印刷のため、力強く文字欠けがなく鮮明で読みやすく、硬い調子の文字・画像が得られ、特に文字の多い新聞や書籍、雑誌、医薬品の説明書・注意書やパッケージなどに長い間、広く適用されてきました。

しかし、用紙の薄物化(軽量化)対応や広告ページなどで絵柄・写真の増加とカラー化要求などとともに新聞の世界にも、「網点の調子再現性」がよくて商業印刷の主流となってきた平版方式のオフセット印刷が普及してきました。

1976年までの新聞用オフセット輪転機によるオフセット化率は10%以下でしたが、1980年代にはオフセット化が急伸していきます。1980年にはオフセット輪転機の割合が20%、85年に約35%、80年代後半には新聞輪転機台数で凸版方式からオフセット印刷方式が逆転し、その後も顕著で90年に約70%、1995年には92%と90%を超えました。その後も増え、2000年には98%となっり、現在ではほとんどの新聞がオフセット印刷方式により印刷されています。一方の活字印刷が得意な凸版方式は微妙な色調が出しにくいこともあり、漸減し、伸展するオフセット印刷に取って代わられ、衰退の憂き目に遭っています。なお、この傾向は書籍、雑誌なども同様です。このオフセット印刷化によって、凸版印刷に比べてきれいな紙面のカラー化が容易になった上、用紙の平滑性やインキの発色性も非常によくなったこともあり、印刷品質が格段によくなっています。そのためか、特に最近は新聞の多色カラー化が進み、毎日のカラー面が多くなっているようです。広告主や読者の満足度が増して来ていることでしょう。

 

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更新日時:(吉田印刷所)

公開日時:(吉田印刷所)