わが国での段ボールの開発
それではわが国ではどうでしたでしょうか。段ボールは、日本では明治時代末期から作られるようになりました。最初は片面段ボールでしたが、アメリカで片面段ボールが誕生してから、遅れること35年のことです。
ところで、欧米から紙(洋紙、西洋紙)が伝わったのは明治時代ですが、板紙がわが国で初めて作られのは、1876(明治9)年10月のことです。手漉きでしたが、今日の大日本印刷株式会社の前身となる秀英舎の創業者である佐久間貞一がそれを手掛けました。輸入品の板紙を分析しての試験結果を経て、小規模工場を設け、麦わらを原料にして自分で考案した手漉き器具で板紙を製造しました。そのきっかけは冒頭に「天は自ら助くるものを助く」と謳っている、当時特に青年たちに人気があり、ベストセラーとなっていた「西国立志編」(イギリス人サミュエル・スマイルズの著書「Self Help」(自助論)の訳本…木版刷りの和装本)を活版印刷による洋装本で再版する仕事をすることになったことです。その表紙に洋式の板紙が必要であったわけです。これがわが国における手漉きによる板紙製造の最初とされています。
その後、機械抄きによる板紙生産が行われるようになりましたが、やはり佐久間貞一によってでした。そのために1886(明治19)年にわが国最初の板紙生産会社である東京板紙会社(資本金1万円)を設立しました。そしてその10月に埼玉県新座郡片山村(現、新座市)に工場を新設、これが第一工場ですが、洋式機械により麦わらを原料にして板紙製造(日産1t)を開始しました。しかし、立地条件が悪く、当時は河川の水量も少なく、冬期は渇水・凍結などで条件にも恵まれず、失敗に終わり中止せざるを得ませんでした。
そのため1887(明治20)年に資本金を17万円に増資して新工場の建設を計画し、翌1888(明治21)年6月に東京府下千住南組に第二工場が竣工しました。ここに英国から輸入した抄紙機(日産8t)を設置するとともに英国人技師を雇って、1889(明治22)年6月に操業を開始し、稲わらを原料として板紙(ボール紙)の生産しました。稲わらを原料にして製造した板紙を黄板紙または黄ボールといいますが、書籍の表紙や、紙器容器、蒸気車および馬車の切符用紙などに用いられました。これがわが国における本格的な板紙生産の始めとされており、現東京都荒川区南千住6丁目のこの地が板紙発祥の地とされています。そして今日の板紙業の先駆けとなりました。
前書きが長くなりましたが、このような中で段ボールが日本で初めて作られるようになったのは、わが国で板紙の本格生産が始まってから20年後の1909(明治42)年のことになります。開発者は井上貞治郎(ていじろう、明治14年~昭和38年)という人で、この試作した板紙を新たに「段ボール」と命名し、後に段ボールの大量生産と強固な段ボール箱の開発に成功し、現在のレンゴー株式会社の創業者であり、「段ボール工業の創始者」とか「日本の段ボールの父」と言われています。その経緯を次にまとめます(ホームページレンゴーの歴史、日本経済新聞「私の履歴書」井上貞治郎)。
井上貞治郎は、1881年兵庫県姫路市郊外の農家に生まれました。高等小学校を卒業すると、「商売を覚えて偉うなったろ」との志を立てて、神戸の商家へ丁稚奉公にでましたが、志はいつも空回りだったとのことです。洋紙店、回漕店、活版屋、中華料理店(横浜「聘珍楼(へいちんろう)」)、銭湯、酒場、パン屋、散髪屋、砂糖屋、洋服屋、材木屋、板問屋、石炭屋、…・。「段ボール」を作り始めるまでの14年間に転職は三十数回におよんだようです。この間、神戸から横浜、大阪、京都へ移り、韓国へ渡り、満州(現中国東北部)へ足を伸ばしたものの、「新天地で一旗揚げよう」という夢は叶わず、やがて大連から上海へ、さらに香港へと渡ったが、ついに日本へ戻ることになります。そして井上貞治郎は人生の再出発を決意します。それは1909(明治42)年の春のことです。ホームページレンゴーの歴史によれば、「1909(明治42)年、井上は帰国すると、春爛漫の東京・上野公園にやって来た。そのうちふと、一本の桜木の下で足を止めると、こう考えた。「商売を覚えて偉うなったろと故郷を離れたが、挙句の果てはこの有り様か。無駄な人生を過ごしたものだ。しかし、待てよ。人生はまだある。よし、裸一貫からやり直そう。独立自営を目指して進もう」とあります。その日は1909(明治42)年4月12日。井上貞治郎が人生の再出発を決意したこの日を、後にレンゴー株式会社の創立記念日として定めています。実際に事業を興した日ではないのですが、会社の創業記念日としたわけです。他社に類例の無い特異なレンゴー株式会社の創立記念日の由来には、こういう謂れがあったのです。
話をもとに戻しますと、帰国後、井上貞治郎は一念発起して間もなく、東京・上野御徒町で紙箱道具や大工道具を売る店に勤め、その注文取りを始めました。この時に道具屋で見付けたのが「手回しの綿繰り機のようなもの」でした。それは樫の木で作られた円筒形のロールに段々が付けられており、紙にしわを寄せる道具でしたが、それをきっかけに、しわを寄せた紙がガラス製品などを包む緩衝材として使われていること、「電球包み紙」「なまこ紙」「浪形紙(なみがたし)」などいろんな呼び名がついていること、ブリキ屋や焼芋屋が片手間に作っていること、ドイツ製の輸入品は高品質だが高価であることなどの知識が日増しにふえていき、その道具のイメージは脳裡から消えなかったということです。
この当時日本で作られていたのは、もとはブリキに段をつけるロールにボール紙を通したもので、正式な名はなく一般に「電球包み紙」といわれていとうことです。これは一枚の紙を山型のジグザグに折った三角形のもので、ほとんど弾力性はなく、押えればぺしゃんこになってしまうものでした。外国製品はわずかな量が日本に輸入されており、「馬喰町のレート化粧品などで使っていたドイツ製品は、波型紙をさらにもう一枚の紙にのりづけしてあり、しかも波の型が三角形でなく半円形で、弾力に富むものだった」と「私の履歴書」井上貞治郎には記述されています。これを俗に「しわしわ紙」とか、「なまこ紙」(英語でcorrugated board paper)と呼んでいましたが、この国産品を造ろうと思い立ったわけです。
その後、3人の出資者を得て出資金200円を元手にして、東京・品川(北品川北馬場)の目黒川のほとりに家賃月5円で借りた20坪ばかりの平屋に、かつて道具屋で見付けた綿繰り機をヒントに、あらかじめ製作した段繰り機(費用70円)、通称「なまこ紙」製造機を据え付け、製造を始めました。この事業所を「三盛舎」と称し、使用人を2人雇っての事業開始でした。時に井上貞治郎、28歳、1909年8月中旬のことです。
製作した段繰り機は、鋳物製の波型を刻んだ段付きロール(チクワ型ロール)一対と、左右に木製の支柱で組立てられている機械で、ハンドルでロールを回しながら、ボール紙をロールの間に通すと、しわ(段)が寄ったボール紙が出てくる仕組になっており、これを平らなボール紙に貼り付けて片面段ボールを作るというものです。
段繰り機(右写真)…紙の博物館保存
井上貞治郎製/明治42年(1909)/1,320×2,280×1,300mm
聯合紙器の創始者である井上貞治郎(1881~1963)が綿繰りにヒントを得て考案・製作し、実際に使用していたものを改修・復元したもの。鉄製の一対の歯車の間に黄ボールを通して波形をつけ、これを平らな黄ボールに貼り付けて片面段ボールを作った。これが段ボールの国産化の始まりで、「段ボール」という名前も井上がつけた(紙の博物館「紙の博物館収蔵品」から引用)。
ところが苦労が続きます。ボール紙にしわ、つまり波形の段を作るにあたって、左右が不揃いとなり、出てくる紙が扇形になったり、段をつけても風に当ると伸びてしまうなど、うまく行きません。なかなか製品が出来上がらず、悪戦苦闘が続きますが、苦心の末、バネを使いロールの左右に均一に力が掛かるようにしたり、分銅型の重りを吊るしたりしました。また、あらかじめボール紙を湿らせることで、しばらくすると段が伸びてしまうのを解決し、ようやく2ヵ月も経て初めて国産化に成功しました。そのときの喜びを次のように表現されています。「そして秋の気配も迫ったある日の昼前『出来た』見事に段がそろった製品が出来上がったのである。私は飛上がって喜んだ。うっかりすると『こりゃ、こりゃ』と踊り出しそうだった。こんなに見事な製品を人に見せるのが惜しいと思ったほどである。おげんさんと私は、三合で四銭の「やなぎかげ」を茶わんにつぎ、ひえた焼芋を七輪であたため、それをさかなに祝杯をあげた。『出来た、出来たよォー』私はデタラメの節をつけ、茶わんをたたいて歌い出した。」(注)おげんさんとは、使用人のひとりで女工。(日本経済新聞「私の履歴書」井上貞治郎から)。こうして手作りとも言うべき日本初の「段付け紙」が完成したのです。
段ボールという名の由来は
井上貞治郎は、この日本で初めて生まれた「段付け紙」に名前をつけるにあたって、他に弾力紙、波型紙、波状紙、しぼりボール、なまこ紙、浪形紙、防衝紙、波型ボール、コールゲーテッドボードなどが候補に挙がったようですが、いろいろ考えた末、素材として使用したのがボール紙で、これに段を付け加工して作った製品であり、覚え易くて言い易く、最もゴロがよい「段ボール」と名付けました。そしてそれを商品名として売り出しました。これが国産の始まりであり、わが国における段ボール産業の発祥です。後に、この商品名「段ボール」は広く知れわたり、そのまま一般的な固有名詞として使われるようになるわけです。