コラム(73-5) 紙・板紙「書く・包む・拭く」(8)木箱から段ボールへ...包装革命

木箱から段ボールへ…包装革命

段ボール事業はアメリカが先行していましたが、戦後、アメリカの進駐軍とともに段ボール箱入りで多くの物資が日本に持ち込まれました。加えて1950(昭和25)年6月に勃発した朝鮮戦争を契機としてアメリカから日本に送られてくる軍需物資のほとんどが段ボール箱で入ってきたと言われます。さらに米軍によって段ボール箱が調達物資として指定されたことによってわが国の段ボール需要が拡大し始めるようになります。しかもわが国の森林資源は、敗戦によって木材の宝庫であった樺太(からふと)を失い、加えて戦時中の乱伐によって森林面積は戦前の2分の1、備蓄量では70%に激減していました。それに対し逆に木材の需要は、戦後の復興のため建築用材、パルプ用材ともに急増したため、猛烈な原木争奪戦が展開されるようなりました。そのため1952(昭和27)年ごろからは木材価格は一般卸売物価と比較して格段の急上昇を見せることになります。これに対し当時紙パルプ産業は二つの対策を採りますが、そのひとつは木材資源利用合理化の推進であり、もうひとつはそれまで未利用であった広葉樹を高度に利用するパルプ生産技術を一段と進め、企業的にもこれを発展させようとするものでした。

なお木材資源利用合理化は、1955(昭和30)年1月に政府が木材の利用を節約しようという木材資源利用合理化方策を決定したものですが、この方策に沿ってその後の紙パルプ業界では、クラフトパルプ(KP)、セミケミカルパルプ(SCP)、ケミグランドパルプ(CGP)などパルプ製造技術の革新による針葉樹より割安な広葉樹の活用や、さらには廃材チップ利用による製紙原料への転換など多くの変化をもたらした。

このような戦後の状況下で、当時の日本では需要が伸びてきたとはいえ、段ボール原紙は板紙のなかでも10%余り(1950年)に過ぎず、また段ボールの比率は全包装資材の7%(1951年)と、その生産は少なくまだ木箱が最盛期でした。しかし、朝鮮動乱を契機とする特需景気によって、日本の経済が復興するとともに産業界も一気に活気付き、紙・板紙の需要も増加していきます。1951年ごろから政府は国家的見で木材資源保護のため流通業界などに対し、当時輸送に使われていた木箱から段ボールへの切り替え運動を大々的に進め始めましたが、このときのキャッチフレーズは、「木箱でダンボール13個」だったそうです。つまり木箱1箱分に使われてる木材から13個の段ボール箱ができるので、貴重な木材を使わないで、その代わりに紙(主に古紙)でできている段ボール箱を使おうというものでした。当時、輸送包装資材としては木箱が一般的でしたので森林資源を乱伐から守るため、段ボール包装への切替を国が提唱したわけです。

この「包装革命」により、段ボール箱は次第に普及していくことになりますが、さらに上記、1955(昭和30)年の政府方策推進運動の中で木箱包装に替わる段ボール包装という問題も取り上げられたこともあり、段ボール箱需要は大きく拡大していくことになります。

段ボール箱の需要が拡大する中で、もうひとつ忘れてならないのは、段ボール原紙供給面での大幅な品質改善と量産化です。すなわち戦前の段ボールは、外装のライナ部分は古紙を原料に使い、中心部の芯も黄ボールや古紙を原料としていたために、品質はきわめて軟弱で、その用途は限定されていました。従って、戦前はもちろん戦後もしばらくの間は、この強度が弱い古紙入りの段ボールが主体であったため木箱の代替とはならなく、みかん箱・缶詰箱のような食品の容器をはじめ重量のある物品には、たいてい木製の箱が使用されていました。ところが、クラフトパルプ(KP)法やセミケミカルパルプ(SCP)法の開発によって大幅に変わることになります。

大きく伸びていた段ボール原紙の生産に対応するために、当時先駆的な大型抄紙機を導入した新鋭工場が北海道に建設されました。本州製紙釧路工場(現王子板紙釧路工場)です。現在、日本最大の段ボール原紙抄紙機(L-1、網幅7,110mm、製品取幅6,600mm、日産1,350t、年産能力45万t)を持つ工場ですが、1959(昭和34)年にわが国で初めてクラフトライナを生産するために、段ボール原紙の専抄工場として開設されました。このときのライナ抄紙機は、製品取幅4,800mm、年産10万tの大型設備で、当時としては驚くべき生産性を持つ抄紙機でした。これにより広葉樹を主原料とする強度の強い100%クラフトパルプを使用した段ボール原紙、クラフトライナ(Kライナ)を多量に、しかも廉価に供給し、生産面から包装革命を促進する旗手となりました。なお、そのころ豊富にあった北海道の広葉樹を原木とした段ボール用ライナを生産するこの釧路工場の新設も、国有林からある一定の原木が供給されることが前提になっていたということですが、これも木材資源の有効利用と木箱削減という国策的な側面があったようです。段ボール原紙は成長製品とみなされていたので、翌年秋ごろから、大昭和製紙、東海パルプ、塩川製紙などが段ボール原紙の大型抄紙機を設置することなります。

また、前後してセミケミカルパルプ製のセミ中芯原紙の普及も、従来の中芯に比較して強度が強く、加速度的に木箱から段ボールへの切替が進むことになりました。すなわち新しく登場した段ボール箱は、木箱に代替しうる堅牢性を持ち、一般の重量物の包装容器として、かなりの程度まで使用に耐えうるまでの品質に改善されたわけです。しかも段ボールは木材の節約になるばかりか、木箱と比較した場合、軽便で折りたたみができ、組み立てが容易であること、しかも比較的狭い場所でも能率よく包装ができることなどの実用性が優れており、また価格においては、その用途によって木製品の数分の一以下というほど経済的でした。

こうした景の中で、国策的勧奨「木箱から段ボールへ」により木箱から段ボール箱へと切り替わりが促進され拡大していきます。それとともに表2のように段ボール原紙の生産も増加していきます。

次に段ボール箱への切り替わり状況を簡単にまとめておきます。1954(昭和29)年からは段ボール製品の各分野への進出がめざましく、当初は、主に家電製品の重量物の包装用として切り替えが進められましたが、昭和30(1955)年代中ころから全国購買農業協同組合連合会(全購連、後に全国販売農業協同組合連合会(全販連)と合併して全国農業協同組合連合会(JA全農、全農)が誕生)や日本園芸農業協同組合連合会(日園連)が中心となって実施した段ボール箱を用いた青果物の大規模な輸送テストでした。これらの繰り返しテストで各種の青果物に対しても切替可能であることが逐次実証されていきました。

  • 1955(昭和30)年、段ボール箱の実用化機運が高まり、東北農試の指導で岩手りんごによる輸送試験がはじまり、引き続き青森、長野で実施されました。
  • 1956(昭和31)年、静岡のみかん、57年伊那の梨および愛知の柿、58年愛媛のみかん、岡山の桃、山梨のブドウなどで輸送テストを引き続き実施。

このなかで特記すべきは、「みかん」です。その推進母体は日園連でしたが、果物は俗に水菓子と呼ばれる"取扱要注意"の産物でしたから、段ボールという「紙」での包装・輸送には当然、拒否反応のような激しい反対の動きがあり、段ボールが安全であることの証明には、およそ3年間にわたって、手探りしながら、根気強く周到な計画のもとに実行された「輸送試験」による実証方法が採られました。その結果、下記のように成功していきます。

  • 1959(昭和34)年、広島みかんによる15キロ段ボール箱の輸送試験に成功。静岡、神奈川両県で実用化に踏切り、みかんの段ボール容器の標準サイズを決定します。またみかん、柿の品質、階の全国統一規格が決まり、みかん、柿の容器が国鉄の標準荷造り包装貨物に指定されました。

このみかん包装の木箱からの転換成功が最大のインパクトとなり、青果実包装の段ボール化は、「青果物さえも段ボール包装に転換できる」ことを事実をもって証明されたために、その後は段ボール産業界は何のPRも必要なしに膨大な転換需要を手中におさめることができ、はかり知れない恩恵を受けることになったといわれます。そのためこの日園連の歴史は、果物包装の段ボール転換という一つのエポックを通じて後世まで永く記憶されるものがあろうとされています。

  • 1960(昭和35)年には、柿、二十世紀梨の段ボール箱の全国統一規格を決定。
  • 1961(昭和36)年、夏柑(夏蜜柑)の段ボール規格が決定されます。

ところでりんごの場合、「りんご木箱1箱分の木材から7箱分の段ボール」ができると言われていますが、りんご箱が木箱から段ボールに切り替わったのは、遅く1963(昭和38)~1965年ごろのことです。その理由は、りんごの場合、木箱なら収穫にも使えるということや、長期間の野積みにも耐えられるということから、その切り替えには時間がかかったようです。また、昭和40(1965)年代後半から飲料用容器として主に使用されていたビンが、冷却や運搬に便利な缶へ移行していったことも段ボールの需要増加となりました。

さらに1965(昭和40)年代以降、高速道路の発達、舗装道路率の上昇、保管条件の向上などにより流通環境が非常に良くなり、段ボールに要求される強度は低下し、原紙のグレードの見直しが行なわれていきました。また石油危機により、最終需要家の包装費の節減や過剰包装の見直しのため、省包装が進んでいきます。昭和48年の第一次石油危機後の日本経済は、省資源化に向けて大きく進路を転換、それまでパルプライナ・パルプ中しんが主流で当然と考えられていた青果物用についても、古紙の再生利用によるジュートライナ・特しんへと積極転換が行われるようになりました。これに対して全農は、昭和50年12月から53年2月までの2年余りにわたって進めてきた「青果物用段ボールの適正包装に関する基礎試験」と、その結果を踏まえた「適正包装規格の設定」が、53年3月24日、全農から発表されました。この2年の歳月と、全組織をあげた膨大な基礎試験が実施されたことがあって、今では段ボール原紙の主要原材料は、段ボール古紙に置き換わり、それを誰も不思議とも思わなくなっていますが、その最初の第一歩を踏み出した全農の先駆的行動は、先の日園連とともに段ボールの歴史なかで大きく特記すべきことだと思います。

その後、昭和54年の第二次石油危機と同時に発生した輸入チップ価格の高騰が、もはや段ボールの古紙化への選択を許さない流れをつくることになりました。このような状況下でさらに外装ライナの軽量化が進められ、その中でも特に飲料缶用の段ボールの見直しで軽量化が急速に進むことになります。この段ボールの軽量化については前回触れました。

以来、段ボールは木材資源の節約、包装合理化、輸送合理化など、高度経済成長期を裏で支えた重要資材にまで発展し、現在に至っています。比較的安価で、国内のどこでも短い納期で大量に手配できることや、軽量であるにもかかわらず耐衝撃性、断熱性にすぐれて、組立てや開梱が容易にできることから、木箱に代わって包装資材の重要な位を占めるようになりました。

 

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更新日時:(吉田印刷所)

公開日時:(吉田印刷所)