和紙紀行・夢の和紙めぐり(4) 軍道和紙(東京都・あきる野市)

東京都内にも伝統ある和紙の漉き場が残っている。軍道(ぐんどう)和紙である。

今回はその漉き場を訪ねる。場所はあきる野市である。

ときは 2000(平成12)年11月23日(木曜日)、勤労感謝の日、祭日で休みである。朝8時過ぎに家を出る。気はいいが、ちょっと肌寒い。先日は近くにある小川和紙(埼玉県小川町、東秩父村)めぐりをしたが、きょうも一人である。

住居のある埼玉県富士見市水谷の沿線、東武東上線の最寄り駅、みずほ台から池袋方面3つ目の朝霞台で下車。いったん外に出て徒歩2,3分で北朝霞駅に着き、JR武蔵野線に乗り換えて西国分寺駅に到着、今度はJR中央線で立川駅に行き、そこからJR青梅線に乗り拝島駅で下車。次にJR五日市線に乗り継いで終点の武蔵五日市駅に行かなければならない。出発まで約15分間ある。

乗り換えで忙しいが、車中や待ち時間を利用して軍道和紙のことについて知識を詰め込んだ。

 

軍道和紙

軍道和紙の起源は、大阪夏の陣(1615年、江戸時代(元和1年))の落武者が、先陣の旗指物の大旗に使用する紙を漉いていたもので、このに紙漉きの技術を伝えたといわれている。

1800年代、江戸中期ごろより山沿いの村々(西多摩郡五日市町の軍道・落合・寺岡・本須などの集落)で紙漉きが行われ、その中でも乙津村字軍道が盛んであったので、その名から「軍道(和)紙」と名づけられた。

しかし、昭和38(1963)年には紙漉きをする家が一戸もなくなり、62(1987)年に当時、五日市町で軍道和紙の伝承と保存を目的に、「ふるさと工房五日市 軍道紙の家」を建設、体験場として現在に至っている[全国手すき和紙連合会 和紙の手帖Ⅱ 軍道紙(乙津 昇平氏執筆) 1996年発行から] 。(注)1995年 9月秋川市と五日市町が合体、あきる野市と改称

軍道和紙は楮100%を原料とし、トロロアオイの粘液を加えて作られており、紙質はきわめて強靭で、障子紙、帳簿紙や製茶用の焙炉(ほいろ)紙などに使われている。

 

焙炉〓炉火にかざして、茶などを焙(ほう)じ、または物を乾かすための用具。框(かまち)に紙などを張ったもの。

かまち【框】〓床(ゆか・とこ)などの端にわたす化粧横木。(広辞苑)

 

JR五日市線に乗り、ようやく武蔵五日市駅に着いた。時刻は10時36分である。乗車距離にしたら約45kmで、それほど遠くはないが、5本の路線で乗り継ぎ乗り継ぎで、およそ2時間あまりの道中である。

距離にしてどれくらい離れているのだろうか、ふと思った。そこで図であたることにした。

出発点の「みずほ台」から終点の「武蔵五日市駅」までの直線距離はおよそ32km。ちなみに東京駅から武蔵五日市駅までの直線距離は約50kmでそう遠くはない。

また、小川和紙・細川紙の産である埼玉県小川町や東秩父村から軍道和紙の里である東京都西多摩郡五日市町(現在、東京都あきる野市)の軍道・落合・寺岡・本須などの集落までの直線距離はおよそ35~40kmの近距離である。

 

後で知ったことであるが、軍道和紙を漉く乙津(おつ)区の家々の何代か前には小川町との縁組が行われていたとのこととか、両区で使っていた原料となる楮は同種類であったとのことから軍道和紙と小川和紙・細川紙とは何らかの交流があったものと思われる。

なお、現在、五日市町区では楮は高知産のものを買っているとのことである。

 

ふるさと工房

武蔵五日市駅に降り立った。

さて次は紙漉きの里に行くことである。

駅を出たところに五日市観光案内所があった。そこで訊く。近郷の観光用図を貰い、すぐそばのバス停から檜原方面行きのバスに乗る。

しばらくすると川の上流に沿ってバスは走る。川は「秋川」といい、この檜原街道に沿って流れている。源流は近くの山「光明山」で、その山麓にある村々の紙漉きの源水にも使われ、きれいな水で鉄分が少ないという。

ハスは15分ほどで荷田子(にたご)に着く。そこで降りる。右手の山々の麓に民家が途切れ途切れに見えるが乙津区である。近くの「乙津橋」を渡っていけるという。かつては紙漉きが盛んであったところである。

目指すは、「ふるさと工房五日市 軍道紙の家」である。来たバス道路の左側にあり、歩いて3~4分で「ふるさと工房五日市」の看板に出合った。ようやく到着である。

 

あきる野市インターネット 観光ガイド ふるさと工房五日市(ウェブ参照)によると、

あきる野市の豊かな自然や歴史に触れると同時に、和紙造りや陶芸、染色の体験をしてみてはいかがでしょう。乙津の里にある「ふるさと工房五日市」には「軍道紙の家」「陶芸の家」「さとの家」があり、手軽に和紙造りや陶芸、各種染色の体験ができるようになっています。

◇ふるさと工房五日市 ・開館時間/10時~16時 ・休館日/水曜日 ・交通/武蔵五日市駅からバス桧原方面行き「荷田子」下車徒歩約3分 ・入館料/無料(各体験は有料) ・TEL042-596-6000

とある。

園内に入ると「和紙の里」という大きな暖簾(のれん)の下がった建物がある。ここが「軍道紙の家」だとひと目で分かる。はやる気持ちを抑えて最初に、左手のほうにある建屋に行く。「陶芸の家」(陶芸実習体験)、「さとの家」(染色の体験)である。建物内をぐるっとひと回りして見る。売店もある。結構賑わっている。体験している人、見学の人と多い。

 

 

軍道紙の家

次に、「軍道紙の家」に行く。

なかは展示コーナーと奥が手漉きをする部屋になっている。展示コーナーには和紙の作り方の図表、写真や楮・トロロアオイなどの原料が展示されており、それらを見学。その後、いよいよ手漉きをしようと受付けのところに行き申し込む(体験料:2枚 500円、寸法 A3サイズ(42.5×30cm))。

指導される漉き人がおられたが、名前と年齢は後で伺ったが、小林六博(むつひろ)さん(53歳)である。若い。

漉き人 小林六博さん

小林さんの指導のもとに実際に自分で手漉きを行う。紙料をすくい、水平の状態にして漉桁(すきげた)を前後左右に揺り動かし簀を濾(こ)して紙層を作る。流し漉きである。

このように軍道和紙は流し漉きであり、紙料をすくった後、漉桁を前後左右に数回揺り動かし紙層を作り、捨て水を捨て、また途中で紙料のすくいと揺りを繰り返し、最後に捨て水を捨て紙層を作る方法でわが国独自のやり方である。

そこにある手漉きの見本を見せていただいたが、斑もなく均一できれい、なんともいえない風合いを持つ。原料の楮100%にネリ(粘剤…トロロアオイ)を加えた生漉き(きずき)の手漉き和紙である。これに対し私の手漉き和紙は厚みに斑がある。まだまだである。A3サイズの大きさ、二枚漉く。後は乾かさなければならないが、後日の郵送を依頼する。(写真は私の手漉き和紙)

 

小林六博さんの履歴と談話。

もともと画家でフランス・スペイン・カナダ・メキシコなど海外の展覧会に出展し、数々の賞を受賞。例えば、スペイン美術賞や1995~2000年にフランスのサロン・ド・プランタン展で5回入賞との由。東京都出身。紙漉き歴は10年。

昭和28(1953)年ごろは30軒ほどあった紙漉き農家は、現在は1軒。その高野源吾氏は、平成2(1990)年には東京都の無形文化財に指定されて、この工房で軍道紙の伝承と保存にあたっておられるとのことであるが(年配で病弱?)、小林六博さんが任されているとか。

 

なお、和紙の原料となる楮の皮やトロロアオイの根などの写真を取らせてもらう。

トロロアオイの根 楮…表皮が一部、剥けている 楮の表皮

 

種々、指導を受けた後、お礼を言い辞す。

来たバス停まで歩く。

満足感はあったが何か一抹の不安が残っていた。

 

生活環境の変化、マスプロ化による和紙需要の減少、それに後継ぎがいないという後継者問題などによって全国的に昔からの和紙の漉き場(紙郷)が減ったり、なくなってきているが、東京都も同じである。

後で調べたが、久米康生著「和紙文化辞典」(1995年発行)に調査結果として記載されているが、それによれば全国都道府県別の歴史的紙郷分布で東京都の場合、紙郷の数の変遷は、明治18(1885)年 北豊島郡王子村(北区)、西多摩郡五日市町乙津村など17ヵ所、昭和3(1928)年は7ヵ所、平成4(1992)年は0ヵ所となっており伝統ある紙郷がなくなってしまっている。

あるのは和紙の取扱店や観光ルートで紙漉きをしているところである。

これも大事なことである。

しかし、もっと重要ことはその根源を残すことである、と考える。

そういう面では、「ふるさと工房五日市 軍道紙の家」で漉いている軍道和紙は、伝統を引き継いで、かつ伝統を絶やさないために努力の跡が見える貴重な存在である。

しかし不安かあった。これまで巡ってきた小川和紙・細川紙、越前和紙、美濃和紙、八尾和紙、五箇山和紙と比べて、何か不足しているようだ。

何だろうかと思案する。

層の厚さ、人材の豊富さである。

私の危惧であればよいが。

伝統の和紙。是非、残してほしいと願わざるを得ない。

そう思いつつ帰路のバスに乗った。

晩秋の日暮れは早い。

(写真 晩秋の乙津区と山間…バス停から)

(2001年11月3日 記載)

 

参考

  • 東京都…東京都・文化財情報 軍道紙
  • 東京新聞…ふるさとは和紙の里 伝統すき 出かけま専科-東京(軍道紙)、その他[2000-04-15]

 


更新日時:(吉田印刷所)

公開日時:(吉田印刷所)