「和紙の旅」に出掛けた(1999(平成11)年4月末から5月初めの8日間)。
[前報、和紙紀行・夢の和紙めぐり(5) 和紙の旅(訪問先、日程など)参照]
今回の和紙紀行は美濃和紙(岐阜県美濃市)である。
美濃市
4月25日朝、当時の勤務地は大阪であったので準備などのために帰っていた帰省地 米子(鳥取県)を妻とともに発った[米子駅 スーパーやくも10号 10:04発]。
JR伯備線で岡山駅に着き、新幹線に乗り換え名古屋駅に到着。今度はJR中央本線で多治見駅まで行き、JR太多線で美濃太田駅に、さらに長良川鉄道で終着の美濃市を目指す。ローカル線となり、沿線には次第に目立つビルのような大きな建物もなくなり、静かな風景に変わってきた。まもなく美濃市である。昔からの伝統ある和紙の産地である。
ところで、紙の生産地はどのようなところに出来上がるのであろうか。
洋紙の場合、外国から伝わってきた明治時代の初めころは、原料はボロ布などであったから、いわゆる今日で言う再生紙であったから、その生産地は発生量が多く、集荷しやすい都会か、そこに近いところであった[例えば、東京日本橋に1872(明治5)年設立された有恒社(1924年王子製紙に併合)が1874年6月、最初に製造。75年には、三田製紙所が東京で、蓬莱社が大阪で製紙工場を開業。また1873年には渋沢栄一らが抄紙会社(後の王子製紙)を設立し、75年7月に操業を開始(東京府下王子村)]。
その後、木材から製紙用のパルプを作るようになり、工場は木の多い山の近くに建設されるようになった。さらに紙の生産量が増えるにつれ原料(木材、チップ(木片))が、国産では賄いきれず次第に輸入品が増加してきたため、製紙メーカはチップ専用船を保有するようになり、大型船が寄港できる港近くに、工場を内陸立地から臨海立地に変えてきた。またリサイクルの高まりから古紙の配合が紙全体の平均で55%以上ある今日、しかも古紙配合がほぼ90%ある板紙のような生産工場は、明治初期のころのように都会地か、そこに近いところが好適である。このように原料条件の変化で大きく動いてきている。このような環境変化に対応しながら、加えて紙パルプ産業は水の多消費産業といわれるように、きれいな河川があり用水が豊富で、交通の便がよく、しかも製品・商品の消費地に近ければこの上もなく好条件となっている。
和紙は、楮などの原料が栽培でき、きれいな川があり用水が確保できることなどが立地条件のようである。そのために都会、人が沢山集まっているところから離れた人里や静かな山麓に近いところに和紙の漉き場があることになる。美濃和紙も然り。その生産地である美濃市は、1889(明治22)年に町制がしかれたときに美濃町が誕生、1954(昭和29)年には美濃町と近隣の洲原、下牧、上牧、中有知(なかうち)、藍見、大矢田の 6村が合体したもの(人口 約2万5千人)。川は板取川である。
美濃市駅に到着 。鉄道5路線の乗り継ぎであった。時計は16時46分、米子を出発してからおよそ6時間半の経過である。
きょうの泊まりは、2つ先の湯の洞温泉口駅から近い「湯の洞温泉」であるが、天気がよく時間もあったので美濃市駅で降りる。駅前はそうでもなかったが、町の中は落ち着いた風情で、しばらく散策をした後、宿に向かう。明日もう一度訪れる予定である。
湯の洞温泉口駅からタクシーにて湯の洞温泉へ(宿泊は湯本館)(写真)美濃市の案内図
美濃和紙の里会館
翌朝、タクシーにて美濃市蕨生(わらび)にある「美濃和紙の里会館」へ向かう。途中、きれいな長良川のわきを通り、しばらくするとその支流である板取川に出て、今度は板取川に沿って車は走る。会館に到着である。晴天である。青空がいっぱい広がっている。すがすがしい。
9時の開館と同時に入館。
- 開館時間:9:00~16:30
- 入館料:500円
- 休館日:火曜日(祝日の場合は翌日)
まだ新しい。市制40周年を記念して1994(平成6)年に建設され秋にオープンしたという。館内は明るい。(写真右)美濃和紙の里会館
建物は鉄筋コンクリートの地下1階、地上2階(延べ面積 2840m2)になっており、地下1階は研究フロア、地上1階はパブリックフロア、2階は展示フロアと呼ばれ、それぞれ地下には売店・ショールームや手漉きができるワークショップ、アトリエ、会議室などが、地上1階は吹抜けになっており、ロビーがあり、レストランやテーマを決めて臨時的に開設する企画展示室があり、また2階には常設の紙関係の資料展示室、ハイビジョンホールや図書室などがある。地下1階、地上2階はもちろん、階段はあるがエレベーターで結ばれている。
手漉き体験
和紙の歴史、製造工程、道具など、和紙に関するすべてが理解できるようになっており、ひととおり館内を見た後に、地下1階の手漉き体験のできるワークショップに行った。
- 紙漉き体験:1回500円
中に入ったが手漉きは初めてなので、戸惑いと上手くいかなかったときの恥ずかしさを思って、やめようか、どうしようかと考えた。しかし、ここで止めたらこれからもやれないだろうと思い意を決して申し込んだ。
そこの漉き人の指導により、初めての手漉きによる和紙作りは終わった。案ずるより産むが易しである。縦と横の揺りである。ただ難しい。斑(むら)ができる。止むを得ないか、初めてである。
あとは乾燥し出来上がりであるが、乾燥までに多少の時間がかかるということで売店・ショールームに行く。
売店で各種美濃和紙のサンプル付き「美濃紙の伝統」(著者 久米康生、編集 美濃市役所、平成6年10月発行)という本とビデオテープ「美濃紙のできるまで」(著作 美濃市)を買う。
さすがは伝統ある美濃和紙の地にできた会館である。新しさを求めた和紙の殿堂である。頼もしさを感じるとともに、これからの和紙、美濃和紙の伝承と発展、後継者の育成に積極的に頑張ってほしいと思う。
和紙といえば「美濃紙」
美濃和紙は、現在、岐阜県美濃市で漉かれている和紙である。かつて和紙といえば「美濃紙」といわれるほど有名で、ポピュラーな紙となった。伝統と名声があり、質量ともわが国、和紙のトップクラスを君臨した美濃和紙であり、手漉き和紙の業者数も近年(1980年代初め)まで全国最多であったのが、漸次減少し、1995年データであるが、美濃和紙の生産県である岐阜県は、福井県53、鳥取県42、高知県の35に次ぐ33で第4番目になっている。これ以上衰退しないよう、逆に以前のようにこの和紙の世界をリードしていってほしいと願わざるを得ないが、この殿堂「美濃和紙の里会館」を見ていると大丈夫だという意気込みと心強さを感じる。
美濃和紙が名声を得たのは、美濃和紙は書院紙(美濃書院紙…障子紙)といわれるように、最高品と評価されて書院造りの明り障子に用いられにふさわしい紙であるように品質が優れているうえに、障子紙のような生活と結び付いた日用紙を中心として多く生産され、一般的に広く使用されるようになったからである。
種類と生産量の面で美濃紙は和紙を代表する銘柄となり、江戸時代にはその判型である美濃判(9寸×1尺3寸=273×393mm)は、徳川御三家専用のものとされて、他の大名や庶民はその使用は禁止され、この寸法より小さいものでなければならなかった。
しかし、明治維新になって皆平等ということから、解禁となり、美濃判やそれより大きい寸法へと流れ、それが各地に広まり、美濃判はわが国、和本の標準的な寸法として親しまれ、定着していった。このように美濃和紙は、全国的に名声を得ていく。
旧今井家住宅 美濃史料館展示で
もう少し美濃和紙について触れる。
美濃紙の歴史
美濃紙の歴史は1300年と古い。和紙の中でももっとも起源の古いものの一つで、奈良時代までさかのぼることができる。
日本最古の紙は、正倉院にある大宝2(702)年の美濃、筑前、豊前の戸籍用紙であり、美濃国の紙が筑前(今の福岡県の北西部)、豊前(大半は今の福岡県東部、一部は大分県北部)の紙とともに残されている。
さらに737(天平9)年の「一写経勘紙解」(正倉院文書)には、「美濃経紙一千張」と記してあり、927(延長5)年にできた平安時代の文書「延喜式」に、官立製紙所である「紙屋院」に貢納すべき税の一種として、美濃国からは紙の原料である楮を600斤納入するように規定されている。これは播磨の210斤、讃岐の150斤を大きく引き離し、他国に比べ群を抜いて多い量となっているが、このことから当時の美濃国では、原料が豊富で、製紙が盛んだったことがうかがえる。
なお、都(京都)には、官立製紙所である紙屋院があったが、都以外では唯一、美濃国だけに「紙屋院の別院」が設けられ、「美濃国紙屋」と呼ばれていた。これらのことからも美濃国は、わが国の和紙作りの中心的な存在であったといえる。
ところで紙の手漉き方法には、紙料を枠内の簀の上にすくいあげたまま放置する「溜め漉き」と、紙料を簀の上に放置しないで、簀を縦・横に揺り動かす「流し漉き」があるが、美濃和紙の漉き方は、「流し漉き」で通常の紙の縦(天地)方向ばかりでなく、左右にも紙料液を揺り動かす「横揺り」をするのが特徴である。そのため紙質は、漉きむらがなく繊維が絡んでいるため、丈夫でしかも美しいのが特色で、日光に透かして鑑賞される障子紙などには最適であるとされている。
全国的に評判となり広く広まった美濃紙は、明治時代ころから各地で模造されるようになり、また地元でも粗悪なものが作られるようになった。美濃紙の評価が落ちてきたため、伝統技法を守った本来の美濃和紙の継承のために、本美濃紙保存会が組織され、1969(昭和44)年に国の重要無形文化財として認定された。
また、1985(昭和60)年には、国の伝統的工芸品に指定されている。(写真)旧今井家住宅 美濃史料館「本美濃紙」の説明
注
本美濃紙…原料は楮のみを用いる(今は茨城県産の通称、那須楮を使用)。美濃の伝統的な製法と用具によって漉かれた高品質の紙(和紙文化辞典 久米康生著、1995年10月発行)。
このように名誉を得た美濃和紙に近代的な殿堂が備わってこれからが楽しみである。
自作の手漉き和紙を受け取ったあと、辞す。
会館前のバス停からJR美濃市駅行のバス(牧谷線)に乗り、今度は、長良川の支流である板取川を右手に沿って市街地に向かう。およそ15分(約10km)で市街地に着く。
(写真 「美濃和紙の里会館」前の道路と駐車場から)
「うだつ」の町
バスを降り、しばらく歩くと昔風の家並みに出た。「うだつ」の町である。「うだつ」造りがあり、美しい町家(まちや)の家並みを見せている。
市街地は江戸時代、1606年に飛騨高山の領主金森長近により城下町として作られ、近隣の商人を集め、町人町を形成し、その当時の面影を今も残す商家の町並として、後で知ったことであるが国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
旧今井家住宅美濃史料館から |
旧今井家住宅 |
「うだつ」のある町家の家並み |
なかでも、美濃特産の和紙問屋であった旧今井家住宅は、美濃史料館として公開されており、この地方最大の商家であったという(なお、国の重要文化財指定を受けている小坂家の商売は酒造業)。
注
「うだつ」は、卯建とか卯立とも書く。江戸時代の民家で、建物の両側に「卯」字形に張り出した小屋根付きの袖壁。長屋建ての戸ごとの境に設けたものもあり、装飾と防火を兼ねる。富や格式の高さを象徴する一つの方法であり、富裕の家でなければ「うだつ」を上げられなかったことから、〈うだつがあがらない〉はよい身分になれないこと、出世ができない、身分がぱっとしないのたとえで用いられる(広辞苑 第五版)。
旧今井家住宅を見学した。
入館料 | 大人 300円(250円)、小人 100円(50円)、( )内は団体料金 |
開館時間 | 9:00~16:30(10~3月は16:00まで) |
休館日 | 火曜日、祝日の翌日、12月29日~1月3日 |
お問合せ先 | 今井家住宅・美濃史料館 TEL 0575(33)0021 |
豪商の家にふさわしく敷地も広い。入り口は土間になっており、すぐ帳場があり、そこには古めかしく黒っぽい艶のある帳箪笥(ちょうたんす)や帳机が置かれており商売の一端がうかがえる。また、日本庭園には復元された「水琴窟」があり、涼やかな音色を響かせ、すがすがしく落ち着いた気分にしてくれる[水琴窟「残したい日本の音風景100選」に選定]。
注
水琴窟…日本庭園で、縁先手洗鉢や蹲居つくばいの流水を利用した音響装置。地中に伏瓶ふせがめを埋めるなどして空洞を作り、そこにしたたり落ちる水が反響して、琴の音色に聞えるようにした仕組。江戸時代の庭師の考案という広辞苑(第五版)。(右図 水琴窟断面…広辞苑から)
また、蔵の一つを“にわか蔵"として国の重要無形民俗文化財の「美濃流しにわか」の風俗が展示されている。「仁輪加」は、江戸中期、風流人やひょうきんな人達が祭りの後から「にわかじゃ」「にわかに思いついた」などと呼び歩いて町の道で即興劇を演じたのが起こりとされていて、現在も引き継がれている。
毎年、4月の第2土曜日、日曜日に「美濃祭り」が市街地で行われ、初日には「花みこし」が街中を練り歩き、夕方からはおはやしの音とともに、各町内の辻々でにわかを演じる、「流し仁和加」で街が賑わう。さらに次ぎの日は各町内から「山車」などが繰り出され、夕方からは、再び「流し仁和加」で祭りが盛り上がるという[インパク 和紙と卯立のまち美濃から←クリックをどうぞ]。
さらに旧今井家住宅美濃史料館で、「手漉き和紙のできるまで」などの展示を見学しそこを出る。かなり充実しており満足した。
美濃市内を歩きながら美濃市駅まで行き、昨日の逆コースで長良川鉄道に乗る。美濃太田駅でJR高山本線に乗り換え、きょうの宿泊地、高山市に向かう。
参考までに美濃和紙関係のウェブを紹介します。ご覧ください。
(2002年1月1日記録)
参照ウェブ
- 美濃和紙
- 美濃紙とは
- 宮西先生の美濃和紙
- 美濃市立上牧小学校の紙漉き体験(美濃和紙)
- 長谷川和紙工房(美濃和紙)
- ようこそ紙イングのホームページへ
- 「紙ing」資料 和紙
- 河合中学校 山中和紙「いなか工芸館」体験
資料