和紙紀行・夢の和紙めぐり(6) 〈資料〉 美濃和紙関係1

文献などから引用したものですが、文献名・著者が不明なものがあります。

調査しており判明次第、明確にします。それまではご容赦をお願いします。

 

美濃紙 みのがみ

世界大百科事典(第2版 CD-ROM版)…日立デジタル平凡社発行

岐阜県美濃市で漉かれている和紙の総称。書院紙ともいう。古代において,美濃国は最も製紙の盛んな国であった。日本最古の紙は 702年(大宝 2)の美濃,筑前,豊前の戸籍用紙であるが,そのなかでも美濃の紙は純コウゾ皮を原料としたので,繊維が均等に絡みあって,漉きむらがなく優れている。古代の美濃紙は国府(不破郡垂井町)を中心として,揖斐(いび)川流域で漉かれたものと想像される。中世になって,美濃紙の技術はさらに向上し,各種の紙を漉き出すようになった。たとえば,美濃紙,草子紙,森下紙(もりしたがみ),薄紙,薄白(うすしろ),典具帖(てんぐじょう),中折(なかおれ),白河(しろかわ),弘紙(ひろがみ),奉書紙(ほうしょがみ),内曇(うちぐもり),扇紙,雑紙などが,美濃の紙として当時の文献に現れてきた。中世に大矢田(おやだ)(現,美濃市)に大きな紙市がたっていたが,江戸時代に上有知(こうずち)(美濃市)に移った。上有知の紙問屋は幕府や領主の御用紙を請け負い,紙漉農民を支配していた。美濃紙の製紙家は揖斐谷,根尾谷,武芸谷,牧谷(板谷川流域)の四つの谷に分散していたが,近代になると武芸谷と牧谷が主産となり,現在は牧谷のみとなった。すなわち蕨生(わらび)を中心として,上野(かみの),片知(かたち),乙狩(おとがり),御手洗(みたらい),谷戸(やど)などで漉かれている。江戸時代の美濃紙を代表する紙は直紙(なおがみ∥じきし)で,障子紙としては最上と評価された。障子紙は日光に透かして鑑賞されるため,繊維がむらなく整然と美しく漉き上げられていなければならない。そのため美濃紙の漉き方は,通常の紙の(縦)方向ばかりでなく,左右にも紙料液を揺り動かす(横揺り)のが特色である。そのほか多くの紙を漉くが,総じていえば,コウゾの薄紙を漉くのに巧みである。現在,直紙の伝統をひく本美濃紙および在来書院,改良書院などの高障子紙のほか,型紙原紙,表具用紙,書画用紙,箔合紙(はくあいし)(三椏紙(みつまたがみ)),謄写版原紙(雁皮紙),美術紙などを漉く。1969年に重要無形文化財〈本美濃紙〉が指定され,その保持団体として本美濃紙保存会が認定されている。

柳橋 真 (c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.

 

美濃和紙(岐阜県美濃市)

美濃北中学校では、毎年の卒業式に、手すきの美濃和紙でつくられた卒業証書が渡される。生徒たちの手ですいた和紙をもちいた証書である。こうして、生徒たちは、域の伝統に育てられて卒業していく。

 

美濃紙のふるさと

和紙といえば「美濃紙」といわれるほどポピュラーな紙の産、美濃方を訪ねて、生活と結び付いた和紙づくりの様子を探る。

美濃北中学校がある域は、牧谷と呼ばれる板取川(長良川の支流)の流域で、古くから製紙業が営まれてきた。隣接する武芸川町や美山町とともに、「美濃紙」で全国に名をはせたところである。今もこの域は、伝統技術の上に立った場産業として、製紙関連産業が盛んである。

美濃紙が名声をえた理由は、品質が優れていることもあるが、障子紙を中心とした日用紙が多く生産され、値段も安く、多くの人々に利用されたからである。

 

古代から近世にかけて

美濃紙とは、美濃国(今の岐阜県)で漉かれた和紙をいい、昔は、この方の多くのむら里で紙が漉かれた。

美濃町(今は市)という名は、1889年(明治22年)に町制がしかれたときに誕生した名である。古くは、奈良の正倉院に所蔵される702年(大宝2年)の美濃国戸籍の用紙に美濃紙が使われていることや、927年(延長5年)に出来た「延喜式」に、美濃国からは税の一種として紙の原料である楮を600斤納入するように規定されており、それが他国に比べ群を抜いて多い量となっていることから、当時の美濃国では、原料が豊豊かで、製紙が盛んだったことがうかがえる。

室町時代になると、都の貴族や僧侶の日記などに、「濃紙」「美濃紙」などの言葉がみられ、都で高く評価されるとともに、贈答用としてもかなり利用されていたことが分かる。 牧谷や武芸谷の域が、紙の主産となったのは、いつごろからだろうか。記録によると、1469年(文明1年)には、大矢田(今の美濃市内)で紙専門の六斎市(毎月6度、定期的に開かれる市)が開かれていたことからみて、おそらく室町時代の初めごろからだろうと推測される。六斎市では、近江国(今の滋賀県)の商人が座(同業組合)を作って、取引きを独占し、都に紙荷を送っている。

江戸時代に入って、金森氏が大名として当にくると、紙の取引きの中心は、大矢田から上有知(今の美濃市市街)へ移った。

関ヶ原の戦いのときには、徳川家康が使用した采配の紙を献上したと伝えられ、これがきっかけとなって、幕府御用を命じられ、「御紙漉屋」といって、障子紙や、お茶を入れる茶袋用紙などを漉いて納入した。

 

最高の品質の障子紙

こうした幕府の保護や、当方を支配した尾張徳川家の政策のもとに美濃の製紙業は発展し、障子紙の類は美濃を第一とす」と、全国一の評価が与えられるまでになった。

1770年(寛政2年)ごろの繁栄ぶりをみてみよう。

上有知町は、この方の物資の集散として栄え、コウゾ問屋が13軒あり、製紙原料を年間7000両も扱い、六斎市では、紙商人が軒をならべていた。

周辺の村里では、どこでも紙が漉かれ、尾張藩領の牧谷の村むらでの生産額は、26000両にのぼった。当時の紙すきは、もっぱら女子中心の仕事で、家族労働が多かった。年季奉公人を雇うこともあるが、幼い女の子を養女としてもらって、早くから紙すき技術を教えて、労働に従事させる「養女制度」のほうが利益が多かったという。

紙すきは、冬季の農家の副業であり、貧農が多いため、紙商人や親方と呼ぶ問屋は、原料や資金をすき屋に前貸しして、紙をすかせて製品を受け取るという、問屋制家内工業方式で生産された。

「明治」から「大正」期にかけて、国内産業の発達にともなって、紙の需要も増して、生産は一層伸びた。紙すき戸数でみると、1902年(明治35年)から21年(大正10年)までがピークで、いまの美濃市がある武儀郡内で、3500戸から3700戸が紙すきに従事していた。

1873年(明治6年)には、ウィーン万国博覧会に書院紙(江戸時代に、最高の品質といわれた美濃の障子紙)などを出品して賞を獲得し、1875年には薄美濃紙などが外国に輸出されはじめた。

機械による和紙づくりは、1926年(昭和1年)に始められた。41年には県機械製紙工業組合が設立されて、生産は順調に伸び、敗戦後の55年ごろには、機械すき和紙は手すき和紙を上回る生産量に達した。

手すき和紙業者は、1982年(昭和57年)では、美濃市内49事業所、その他18事業所で、その生産量は、県下全体のの和紙生産量の0.1パーセントを占めるに過ぎなくなっている。

しかし、こうしたなかで、1969年(昭和44年)には、本美濃紙が国の重要無形文化財に指定され、85年には、美濃市の手すき和紙が、通産大臣指定の伝統的工芸品に指定された。

 

手づくり和紙の作業工程

和紙と洋紙の区別は、とても難しい。

和紙の持色は、

  1.  原料にコウゾ・ミツマタ(三椏)・ガンピ(雁皮)などの植物の繊維をもちいるが、この繊維は長くて強い。しかも、自然の繊維で、薬品で処理したりしないものである。
  2.  「ねり」を使った「流し漉き」である。
  3.  長い繊維が絡み合っているために、薄くて丈夫である。
  4.  永い間、保存することができる。などが挙げられる。

紙すきには、昔からの手すきの方法と、機械すきの方法とがあるが、次に手すき工程を示すと、

作業の順序としては、川晒し→煮熟→あくぬき→漂白→水洗→ちりとり→叩解→紙すき→乾燥→選別→裁断→完成となる。

このうち、紙すきは、ドロドロの紙料を簀の上に放置しないで、たえず縦横に揺り動かし、これをなん回も繰り返すのでむらができず、丈夫で、美しい紙ができあがる。手作業が中心となるため、なが年の勘と集中力が頼りになる。

 

これからの製紙産業

和紙の用途は、想像以上に広い。伝統的な用途として、障子紙・和傘・提灯(ちょうちん)・団扇(うちわ)・帳面・表具用紙・油紙・書画用紙・証書用紙などである。

最近では、和紙の特長を生かした新製品の開発が相次いでいる。洋式化した家庭生活のなかでは、トイレットベーパー・ティッシュベーパー・紙おしぼり・各種フィルター・紙おむつなどに使われ、産業用としては、粘着テープ・タイプライター用原紙・防湿紙・絶縁板などに使われている。

これらは、柔軟性があること、薄くて丈夫なこと、通気性がよいことなど美濃和紙の特長をうまく利用したもので、これからも、さらに多くの用途が開発されていくと思われる。

美濃市では、「高度経済成長」期を経た85年には、他産業の進出が著しく、紙関連産業の占める割合は低下してきた。しかし、伝統的な場産業としての位は重く、その活性化が期待され、さまざまな創意を取り入れた紙産業への発展が求められている。

一国の文化の尺度は紙の使用量で計られているといわれるなかで、紙の需要はますます高まって、特に洋紙の消費拡大は目覚ましいものがある。このなかで、古くからの和紙の生産が伸び続けるためには、新しい販路の開拓が欠かせない。

一方、「高度経済成長」の影で減っていく手すき業者の衰えを、なんとか食い止めようと、83年に美濃手すき和紙協同組合が設立されて、市全体で努力が続けられている。機械すき・手すきの区別なく、長い間受け継いだ伝統文化を守っていくことが、和紙産業全体の繁栄につながっている。

紙すきには、冷たい水のほうが合っていて、川晒しの作業は、真冬に行われる。冷たい川の水との戦いは、伝統技術を次の世代に伝えようとする戦いでもある。美濃紙を、手すきの技術を、是非とも守り続けたいものだ。

 

手漉き和紙

本美濃紙の原料は楮のみを用いる。今は茨城県産の通称那須楮である。楮は板取川の清流で2~3日川ざらしをし、ソーダ灰を入れて釜煮する。これを灰汁抜き場で清水を流して灰汁を抜き、川屋で楮に付着した不純物を取り除くちり取りを行なう。その後、平たい石盤の上で、叩解といって、木槌で綿のようになるまで入念にたたいて紙料をつくる。以上の作業の後、家の東南隅にある紙屋で紙漉きが行なわれる。漉き槽に水・紙料と「ねべし」の粘液を入れて撹拌し、漉き桁に漉き簀をはめて紙料を水とともにくみ上げると、簀のうえに湿紙ができる。むらなく同じ厚さに漉くコツがむずかしい。湿紙は「おしば」して水分を切り、紙つけ板に張り付け、南面した庭先で乾燥させる。選別・切断・包装をして商品となる。和紙は厳寒期ほど上質のものができる。紙漉きは女の仕事のため、養女の形式をとって漉き子を確保したという。この方で紙漉きが始まったのは、平安時代とも伝えるが、15世紀後半には一大生産となっている。当時,大矢田には紙専門の六斎市が立ち、近江枝村商人が紙を買い占めて都に送った。江戸時代には徳川家康の保護や一般需要の増加があり、書院紙は下一品の折紙をつけられ、大直紙は最高品とうたわれ、幕府・尾張藩御用紙となっている。当時の紙の集荷所は、上有知(旧美濃町)である。明治以後生産はさらに増加し、全国屈指の産となり、第2次世界大戦後には機械製紙工業が興隆し,家庭紙など新分野の紙製品が開発されていく。手漉きから機械漉きへ生産方法が変わったが、牧谷では、本美濃紙をはじめ美術紙・型紙など、手漉き和紙の生産に従事している家も多い。紙漉きの村々は、第2次世界大戦中に風船爆弾の材料となる「気球紙」を密かに生産したところでもある。

 

美濃国紙屋

美濃での和紙の生産は、もっとも起源の古いものの一つで、奈良時代までさかのぼれます。

正倉院に残る大宝二年 (七〇二年)の美濃国の戸籍用紙が筑前、豊前の紙とともに残されており、平九年 (七三七年)の一写経勘紙解」(正倉院文書)には「美濃経紙一千張」と記してあります。また宝亀五年(七七四年)の「図書寮解、諸国未進紙」の条には、「美濃国紙二四八〇張」との記述があって、美濃国からの年貢の不足を指しています。

美濃紙が栄えた一因は、紙の原料が豊富にあったことですが、このことは平安時代の文書でも確認できます。当時の行政法である「延喜式」には、官立製紙所である「紙屋院」に貢納すべき製紙原料が国別に割り当てられていますが、美濃の割当量は紙麻六〇〇斤で、播磨の二一〇斤、 讃岐の一五〇斤を大きく引き離し、圧倒的な割当量であり、製紙原料の大産であったことが分かります。

都には、官立製紙所である紙屋院がありましたが、都以外では唯一美濃国だけに「紙屋院の別院」が設けられていました。

それは「美濃国紙屋」と呼ばれていました。その場所は諸説ありますが、美濃国国府があった現在の不破郡垂井町府中の辺りといわれています。垂井は美濃国の最西端に位置し、関ケ原を挟んですぐ近江国に入ります。この辺りは北の伊吹山と南の鈴鹿山脈、養老山に挟まれた峡で、古くから要衝のであり、「不破の関」が設けられていました。

「美濃紙・昔の紙郷、今の紙郷」(笠井文保著)によれば、「美濃国紙屋」の場所は現在の相川の支流であり、府中を流れる継父川流域と推定しています。ただし、「岐阜県手漉紙沿革史」(森義一著)によれば、大垣市荒尾には宇留生神社があり、美濃国紙屋の長である宇保良信に縁あると述べています。いずれにしろ、古代美濃国の紙製造は、揖斐川の支流である相川、杭瀬川に沿って不破郡垂井町から大垣市荒尾辺りに展開していたのです。

 

大矢田の紙座

「美濃国紙屋」を中心に垂井近辺で行われていた紙漉きは、平安末期の頃から、養蚕に取って替わられ、次第に廃れていきす。この域の農民は水害防止のため、根の張った桑を植え、その桑を使って煉養蚕業を興していったからです。爾来美濃は絹の産動としても知られていきます。その後紙郷は東の揖斐川の谷間へと移っていきます。

平安末期から鎌倉時代にかけて、紙の産は揖斐川流域からさらに東へ展開し、長良川の上流である武儀川、板取川流域へと拡大していきます。

そして、この域の中央に位置する大矢田で、紙座が成立します。ここで取り引きされた紙は、近江の枝村(滋賀県犬上郡L郷町)の商人によって、京都に運ばれたのです。

大矢田郷の領主であった京都の宝慈院を本所(座の保護者)に仕立て、紙の売買の独占権を保護させていたのです。座の独占権は極めて強く、生産者からの紙の買い付け価格を一方的に決め、座に所属しないもぐりの商人からは積み荷を没収していたほどです。大矢田の紙座は近世に入ると、各に出現した「市」などにより、その独占性を失い、次第に衰退していくのです。現在の美濃市大矢田には、かつての紙座の辺りに「市場」という名が今でも残っています。

 

こうずち 上有知

戦国時代に入り、枝村商人の往来が困難になるにつれ、紙の交易の中心は長良川に面した城下町である近くの上有知に移っていきます。

戦国時代の争乱の後に、上有知城主となった金森長近は製紙と養蚕を育成し、また、大矢田の紙市を上有知に移し、市では原料の堵も取引させ、頻度も月に六回定期的に開かれる六歳市とします。さらに市を活発にさせるため、領民に他国の市に行くことを禁止し、峠には番所を建てます。このようなやや閉鎖的な施策により、城下町としての上有知を発展させるのです。また、外部との唯一の交通機関である長良川の水運を充実させるため、上有知川湊を整備します。隣の関市からは「関の孫六」で知られる鍛治職人衆を呼び寄せ、水運のための番舟を40艘確保させます。

こうして流通網が完備した美濃の紙産業は、さらに発展していくのです。紙の主産も大矢田の紙市が衰退するにつれ、武儀川流域から徐々に、上有知に近い板取川の流域へと移っていきます。

上有知は、金森家が断絶した後、尾張領となります。「岐阜県の歴史」(中野効四郎著)によると、上有知の長瀬にある武井家などは、尾張藩の御用紙製造を請け負ったことをきっかけに、尾張藩の御用商人となり、保六年(一八三五年)尾張藩の藩札の製造委託を請け負います。その事業は輸送船七嫂を所有し、まさに工場制手工業の規模だったようです。この頃には紙の生産は美濃全域に広がり、東部の木曽川流域の、中村(中津川)、付知、肥田(土岐)、久須見(恵那)、坂下(苗木領)等も紙郷となっていきます。

 

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更新日時:(吉田印刷所)

公開日時:(吉田印刷所)