和紙紀行・夢の和紙めぐり(8) 八尾和紙(越中和紙富山県・八尾町)

※八尾町は2013年現在、富山市に合併されています。

 

(1999年)4月27日(火)朝、高山市を出発する。

ところで妻は、朝市を見たいとのことで飛騨高山(陣屋前の広場と宮川沿い)に残ったので、次の八尾行きは別行動となり一人旅である。

もともと高山での宿泊は妻の発案であったが、落ち着いた飛騨のただずまい見ることができよかった。

JR高山線(高山駅発 7:41)で富山県にある和紙の紙郷、越中八尾(えっちゅうやつお)に向かう。

 

越中和紙

ここで越中和紙について触れる。

越中和紙の起源は、奈良時代にさかのぼると言われる。平九(738)年の正倉院文書に「越経紙」の名があり、これは越前、越中、越後の紙であろうとされているが、さらに、宝亀五(774)年の同文書、図書寮解(ずしょりょうげ)「諸国未進紙並筆紙麻等事」に「越中国紙四百枚」の記述があり、「越中国」と表現されており、また平安時代の「延喜式」(927年撰上)にも、「越中国」の名があり、中男作物(ちゅうなんさくもつ)として「一人紙四十張」を納めたとの記録がある。

  • 越前…現在の福井県の東部。また、越後は、今の新潟県の大部分。
  • 越中国…現在の富山県全域にあたる旧国名
  • 中男作物…奈良・平安時代、中男の調の代りに課せられた現物納租税

なお、富山県に現存する紙郷*は、婦負(ねい)郡八尾村の八尾和紙、東砺波郡平村(五箇山区)の五箇山和紙、下新川郡朝日町の蛭谷(びるだん)和紙であるが、奈良・平安時代の紙が県内のど方で漉かれたものなのか、はっきりしないとのことである。(参考)*和紙事業所数…八尾村 4、平村 5、朝日町 1

「越中和紙」という名称は、国の伝統的工芸品の指定を受けるために、1984(昭和59)年に前記三つの産の和紙を「越中和紙」と総称し、富山県和紙協同組合が国に申請。1988(昭和63)年6月に伝統的工芸品として認定された。

それぞれの紙郷では従来の名称を使用しているが、国や県などの書類やPRなどでは、「越中和紙」に統一している由。

参考文献

  • 「万華鏡・41号 越中和紙」(平成7年発行)…山口昭次「越中和紙」から

 

八尾和紙

さらに八尾和紙について記すと、

八尾の手漉き和紙が最も盛んになったのは、江戸時代の元禄年間(1688~1704)に、藩主の奨励のもとに越中の売薬とともに発展したものである。

「八尾山村千軒、紙を漉かざる家なし」とまでいわれ、楮を原料として売薬に用いられた紙、薬包紙・袋紙・膏薬(こうやく)紙や束ねる紐紙、帳簿紙など、さらに合羽紙、傘紙、障子紙、提灯紙などの紙が漉かれていました。

また、江戸末期から明治にかけ、植物染料や顔料などを用いて染めた染紙が行われ、この染色技法は現在も受け継がれ、全国一の生産といわれ、八尾民芸紙として知られている。この他に揉み加工した型染模様紙の生産も盛んであり、和紙の手提げ袋や名刺入れ、カレンダー、座布団(ざぶとん)など人気があるという。

なお、民芸の美の創始者、柳宗悦(やなぎむねよし)は、「感心した紙の一つは越中八尾の産である。…如何にも和紙らしい和紙である」とその著書「和紙の美」で述べている。

さらに、染色工芸家で人間国宝の芹沢銈介(せりざわけいすけ、1895~1984)は、こよなく八尾の和紙を愛したという。

 

柳宗悦(やなぎむねよし)

広辞苑 第五版(CD-ROM版)…岩波書店から

民芸研究家・宗教哲学者。東京生れ。東大卒。雑誌「白樺」創刊に加わり、のち民芸運動を提唱。日本民芸館を設立。(1889~1961)

 

芹沢銈介(せりざわけいすけ)

世界大百科事典(第2版 CD-ROM版)…日立デジタル平凡社発行から

染色工芸家。静岡市生れ(1895‐1984(明治28‐昭和59))。1916年東京高等工業学校図案科を卒業。昭和に入って柳宗悦と親交を重ね,35年ころから民芸運動に参加,再三沖縄を訪れて紅型や赤絵を研究し,その手法をとり入れて型絵染を創始した。芹沢の型絵染は量産のための型染を超えて,型の表裏の利用,繰返しなどによって卓抜した意匠が構成される。また日本民芸館の家具設計,大原美術館の内外装,家具設計,装丁,版画など,その活動は多岐にわたり,民芸蒐集家としても知られる。第2次大戦後は多摩美術大学,女子美術大学などで後進の育成に当たり,58年型絵染技法による重要無形文化財保持者の指定をうけた。大原美術館芹沢館,静岡市の市立芹沢銈介美術館に多くの作品が集められている。

伊藤 敏子 (c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.

 

民芸紙

世界大百科事典(第2版 CD-ROM版)…日立デジタル平凡社発行から

民芸運動のなかから生まれてきた各種の手漉(てすき)和紙の総称。近代の手漉和紙は二つの大きな流れをもつ。一つはタイプライター原紙(典具帖紙(てんぐじようし)),謄写版原紙(雁皮(がんぴ)の薄様(うすよう)),図引紙(ずびきし)(三椏紙(みつまたがみ))のように工業紙として高価に輸出された紙である。わずかな厚さのむらや,一つのピンホールも許さない厳重な規格によって,漉く技術は限界まで洗練されたが,和紙の美しさは失われた。

他の一つは障子紙,傘紙などとして日常生活に供給されたが,生産能率を上げ,価格を安くし,さらに都会趣味に応じるため,鉄板乾燥などの改良策を行い,原料に木材パルプなどを混入し,薬品漂白などで紙を真っ白にするなどの工法が,製紙試験場等の指導で普及していった。このように手漉和紙本来の特色が失われる傾向に対し,知識人の間で批判はあったが,とくに昭和初期から民芸運動を活発に指導していた柳宗悦は強く反対した。

柳は1931年に島根県松江市で開催した新作民芸品の展示会のおりに,当時,29歳の安部栄四郎(1902‐84)の漉いた厚手の雁皮紙を賞賛したのが機縁となって,安部の東京における紙の個展や雑誌《工芸》の和紙特集(1933)などによって,民芸紙の内容が整ってきた。それは,コウゾ,ガンピ,ミツマタの未晒紙(みざらしがみ),植物染紙,粗い繊維の筋などを入れた素朴な装飾の紙などで,装丁,襖紙(ふすまがみ),色紙,短冊,封筒,案内状などの用途を配慮したものであった。

柳はこれらの実践をもとに,自然の素材の美を発揮した和紙を主張する〈和紙の美〉(1933),〈和紙の教え〉(1942)等を発表,この民芸紙の論考にそって,寿岳文章らの研究と実践が続く。その後,民芸紙の試みは八尾民芸紙(富山県八尾町),因州民芸紙(鳥取県青谷町),琉球民芸紙(沖縄県那覇市)などと広がり,現在,和紙産では多かれ少なかれ,民芸紙が生産されるほど普及し,大衆化されている。

柳橋 真 (c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.

 

桂樹舎

越中八尾駅に着くと、すぐに駅前のタクシーに飛び乗り、「桂樹舎」行きを告げる。5分ほどで到着。

桂樹舎は廃校になった山の分校を移設し、和紙をそこで製作しており、紙の工芸館として「和紙文庫」と「民族工芸館」が併設されている。手漉き和紙業界の中で、民芸を基本理念に置き、紙漉き、染色、型染め、加工品と一社でこのように幅広く製造しているメーカーは桂樹舎が唯一であるといわれる。(写真)桂樹舎入口から

ところで、桂樹舎の名称は、創業者である吉田桂介さんと代表者である吉田泰樹さん兄弟の名前から取ったものてあり、吉田桂介さんは富山の薬袋紙から染紙と和紙工芸品への転換を成し遂げた人でもある。また、桂樹舎内に「季刊和紙」(全国手すき和紙連合会)の発行元もある[〒939-2341 富山県婦負郡八尾町鏡町668]。

なお、このときはお会いできなかったが、吉田桂介さんとは、その後2000(平成12)年4月15日(土)に京都で開催された町田誠之先生の「和紙の道しるべ」出版記念祝賀会の際に、奥田四郎(財)紙の博物館館長(当時)の紹介でお会いした。

 

まず「和紙文庫」に入る。(写真)桂樹舎和紙文庫 玄関

  • 開館時間:9:00~16:00
  • 年中無休(休館日:12月30日~2月末日)
  • 入館料:500円(民族工芸館共通)

二階になっており、喫茶室、売店とA~D室の展示室があり、なかには和紙の歴史資料や世界の紙製品、民芸品がそれぞれ展示されている。

 

「手仕事による文化が次第に少なくなってきているが、和紙もその一つである。和紙は今なお、自然を相手に一枚一枚心をこめてつくられる民芸品である」というメッセージが深く心に残る。

売店で「季刊和紙」のバックナンバーなどを買う。(写真)前庭にあるパピルス草

次に手漉き和紙を作っている桂樹舎のほうに行く。何か騒々しかったが、小学低学年の団体が入っていた。二、三十人が紙漉きを教わりながら順番待ちで並んでいる。紙漉き体験は予約が必要だと聞いていたが、ひょっとしたら紙漉きができるかもしれないと望みを持ってきたが、これでは駄目だと断念する。

紙漉きを見せて頂く。女性の漉き人である。なかなかの手際よさである。

参照ウェブ

 

八尾町

桂樹舎を出て、神通川の支流である井田川に沿って歩く。(写真)井田川…「桂樹舎」裏側から写す。

ところで、八尾町は、昭和28、32年の二度にわたって旧八尾町、保内、杉原、卯花、黒瀬谷、室牧、野積、仁歩、大長谷村の1町8村が合併した。

おわら、曳山を伝える旧八尾町は、標高100メートル前後の井田川の河岸段丘に位置し、北東から南西に上り坂が続き、1290年に創建された浄土真宗本願寺派の古刹(こさつ)である聞名寺(もんみょうじ)の門前町として、また、藩政時代から場産業の蚕種や和紙の取引を中心に商人町として栄えたという。(参照ウェブ)八尾町ホームページTOWN YATSUO

八尾町には、「坂の町」という別名があるが、しばらく歩くと、左に折れ急な坂道となり、それを登っていくと右手に黒い屋根と白壁の大きな建物に出た。曳山(ひきやま)展示館・おわら会館である。

中は広く、ホールと曳山展示室がある。

  • 入館料:500円

毎年5月3日の越中八尾の曳山祭には、三味線、笛、太鼓が奏でる典雅な曳山囃子に合わせて、凛々しい若者達が法被姿で曳く、高さ7mもの絢爛豪華な豪壮華麗な曳山が6台、坂の町を練り歩くという。その3台がここに常時展示されている。大きくて、そのきらびかさに圧倒される。

 

曳山(ひきやま)…祭礼の山車(だし)。(ダシは「出し物」の意で、神の依代(よりしろ)として突き出した飾りに由来するという) 祭礼の時、種々の飾り物などをして引き出す車。屋台(広辞苑 第五版)。

参照ウェブ

 

ホールは舞台もあり、そこで越中八尾の「曳山祭」と 「おわら風の盆」の映画が上映され、それを鑑賞し楽しむ(なお、舞台でおわら踊りも見られるが団体で予約が必要)。

 

また、八尾町は、おわらの町 和紙の里八尾といわれるように「おわら」(おわら節、越中おわら節)が有名であるが、全国に誇る民謡「おわら」は、三百年余の歴史を持ち情緒豊かで気品高く、綿々としてつきぬ哀調の中に優雅な唄と踊りである。

「おわら風の盆」は、二百十日(にひゃくとおか)の台風よけと五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈る盆踊りであるが、毎年9月1日から三日間、 坂と水音それに三味線と胡弓の音色が独特の風情を醸し出し、越中おわら節の唄に合わせた、揃いの法被や浴衣姿に、目深にかぶった編笠をつけた老若男女の緩やかな踊りがたとえようもなく美しい。夜の白ばむまで町を流し歩く様は趣がある。

 

広辞苑 第五版から

  • おわら節…富山県の民謡。婦負郡八尾町を本場とする盆踊り歌。毎年9月の祭「風の盆」に歌われ、囃子詞(はやしことば)の「おわら」を曲名とした。
  • 二百十日(にひゃくとおか)…立春から数えて210日目。9月1日ころ。ちょうど中稲(なかて)の開花期で、台風襲来の時期にあたるから、農家では厄日として警戒する。

 

参照ウェブ

 

映画を見ていても、なんともいえない哀調が感じられる。本番はもっと凄いだろうなぁと想う。

名残惜しかったが時間が来た。タクシーを呼ぶ。

かつては「八尾山村千軒、紙を漉かざる家なし」とまでいわれ栄えていた和紙は、いまは片手の指の数以下になった。寂しさはあるが、女性の漉き人の元気な姿を見て安心もした。「おわらの町 和紙の里八尾」といわれるように、観光とともに独自の和紙、民芸紙を軸にずっと生き延びていってほしいと思う。

越中八尾駅 14:11発 ひだ 5号に乗る。ここで妻と合流。これから富山駅経由で(JR北陸本線)、高岡駅でJR城端線に乗り換え城端駅に行き、さらにバス(加越能鉄道)で五箇山上梨まで行き、今夜は五箇山泊まりである。

(2002年3月1日記載)

 

 


更新日時:(吉田印刷所)

公開日時:(吉田印刷所)