越中和紙について
和紙紀行・夢の和紙めぐり(8) 八尾和紙(越中和紙…富山県・八尾町)参照
越中和紙の起源は、奈良時代にさかのぼると言われる。天平九(738)年の正倉院文書に「越経紙」の名があり、これは越前、越中、越後の紙であろうとされているが、さらに、宝亀五(774)年の同文書、図書寮解(ずしょりょうげ)「諸国未進紙並筆紙麻等事」に「越中国紙四百枚」の記述があり、「越中国」と表現されており、また平安時代の「延喜式」(927年撰上)にも、「越中国」の名があり、中男作物(ちゅうなんさくもつ)として「一人紙四十張」を納めたとの記録がある。
注
- 越前…現在の福井県の東部。また、越後は、今の新潟県の大部分。
- 越中国…現在の富山県全域にあたる旧国名
- 中男作物…奈良・平安時代、中男の調の代りに課せられた現物納租税
なお、富山県に現存する紙郷*は、婦負(ねい)郡八尾村の八尾和紙、東砺波郡平村(五箇山地区)の五箇山和紙、下新川郡朝日町の蛭谷(びるだん)和紙であるが、奈良・平安時代の紙が県内のどの地方で漉かれたものなのか、はっきりしないとのことである。(参考)*和紙事業所数…八尾村 4、平村 5、朝日町 1
「越中和紙」という名称は、国の伝統的工芸品の指定を受けるために、1984(昭和59)年に前記三つの産地の和紙を「越中和紙」と総称し、富山県和紙協同組合が国に申請。1988(昭和63)年6月に伝統的工芸品として認定された。
それぞれの紙郷では従来の名称を使用しているが、国や県などの書類やPRなどでは、「越中和紙」に統一している由。
参考文献
- 「万華鏡・41号 越中和紙」(平成7年発行)…山口昭次「越中和紙」から
五箇山 ごかやま
世界大百科事典(第2版 CD-ROM版)…日立デジタル平凡社から
富山県南西部,岐阜県境付近の地域名。行政的には東砺波郡平村,上平村,利賀村に属する。庄川上流部とその支流のつくる上梨谷,下梨谷,赤尾谷,小谷,利賀谷の峻険な五つの谷にある小集落群が五箇山の地名の起りをなす。かつては,冬季には豪雪で交通が途絶するため秘境の感が強く,茅葺き屋根の合掌造家屋に象徴される伝統的な生活様式をもっていた。近世加賀藩政下,特別の保護をうけて火薬原料の煙硝,和紙,みの,駐の生産や養蚕が営まれていた。罪人の流刑地ともされ,平家落人伝説が多く,《こきりこ節》《麦屋節》など民謡の宝庫でもある。大正末期以来大規模な電源開発が行われて近代化が進み,第 2次世界大戦後,製炭業や和紙製造なども衰退して大幅に人口が流出し,合掌造も減少して現在では全住宅の約 1割にすぎない。国道 156号線および 304号線が整備されて以来訪れる人も多く,県立自然公園として観光開発が進められた。平村相倉には国民休養地が,上平村菅沼には五箇山青年旅行村が設置されている。 藤森 勉
[民俗]五箇山は,かつては国境を境に接する飛舞白川村とともに大家族制で知られていた。五箇山の大家族も基本的形態は白川村の大家族と同一であり,戸主および将来の戸主のみが妻と同居する形をとり,次三男は妻と同居していないこと,おじ・おば,兄弟姉妹などの高齢者や結婚適齢者が生家にとどまっていること,および多くの下人を含んでいることなどを特徴としていた。梨谷村の事例では22人で構成される大家族のうち, 8人は男女の下人であった。五箇山の大家族は江戸時代後期に始まり,古い起源をもつものではなかったが,現在では分家の増加によって五箇山の大家族は解体し,一般的な直系型家族が支配的となった。 上野 和男 (c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.
平[村] たいら
世界大百科事典(第2版 CD-ROM版)…日立デジタル平凡社から
富山県南西部,東砺波郡の村。人口1620(1995)。庄川上流の岐阜県境にあり,上平村,利賀(とが)村とともに五箇山(ごかやま)と呼ばれている。典型的な隔絶山村で,近世は加賀藩領であった。大正末からの庄川水系の電源開発,国道の整備によって秘境と呼ばれたこの地域の生活様式も変化し,過疎化が進行した。マス,イワナの養殖,民芸和紙の生産が行われる。相倉(あいのくら)の合掌造集落23棟は国史跡,白山宮,村上家および羽馬家住宅は重要文化財に,加賀藩の流刑小屋は県の文化財に指定されている。 二神 弘 (c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.