わが国の紙祖神ないし紙祖について
わが国の最古の史書「日本書紀」(720年完成)に、曇徴の来朝以前に紙とその製法が存在していると思われる記述があることから、日本にも古くから紙があったとする考え方があります。
しかもわが国には世界に誇れる、日本独特の紙(和紙)があります。その誕生もからめて、神秘化された部分も加味されて、わが国における紙の始源について、いろいろな説が誕生することになります。
今でも、あることに業績をあげ貢献した人や名人、達人などを比喩的にいう言葉(語)として、例えば「営業の神様」とかのように、「○○の神様」と言うことがあります。また日本人の通性として、何事でも初めに成しえた人を「神」として尊ぶ傾向もあります。このような土壌があるために、諸説が生れたものと思われます。
そのため本来ならば、紙祖はひとりのはずですが、いまだ紙祖といわれている曇徴を含めて、紙祖とか、紙祖神とされる人達が複数で登場することになります。
なお、古くからある紙郷では、紙漉きが地域の人や紙造りをする人たちにとって、大きく貢献し、生活の糧になっている場合、紙漉きの製法を伝えてくれた人に心から感謝し、紙の始祖として碑を立てたり、記念像などを建立する場合も多くあります。
例えば、鳥取県の因州和紙もそうです。合併で鳥取市に編入した青谷(あおや)町を流れる日置川の上流、河原地区の道端に巨石を積み上げた碑が建立されています。その表には「因旛紙元祖碑」とあり、裏面には、「寛永10(注.1633)年、美濃住人、弥助、流浪して当地にきたりしが、にわかに病をえて、河原村鈴木弥平方に寄る。親切によってほどなく快癒し、謝恩のため御法度に反することを知りつつも紙すき業を伝授して帰国、断罪の刑に処せられたり」とあります。当時は各藩とも殖産のために、その製法・技法を秘法として守り、藩外に漏らすことは硬く禁じていましたが、それを犯した弥助は藩により断罪に処せられたわけです。この碑はその弥助の霊を弔うとともに感謝し紙祖として敬い、昭和12(1937)年にこの地の紙漉き業者の人達によって建てられたものです。(和紙紀行(13) 因州和紙(鳥取県)…(その2)青谷町参照)
ほかにも名塩和紙(現、西宮市塩瀬町産)の紙祖 東山弥右衛門、土佐和紙(現、高知県産)の紙祖 新之丞、また石州和紙は、寛政10(1798)年に発刊された国東治兵衛著書の「紙漉重宝記」に、「慶雲・和銅(704年~715年)のころ柿本人麻呂が、石見国(現 島根県西部)の国司・守護をしたときに民に紙漉きを教えた」とあり、それが始まりだとする説があります。そのため柿本人麻呂を石州の製紙の始祖とする人もいます。しかし、それ以前に石州紙があったことが知られており、人麻呂は製紙の発展・振興に尽くしたというのが真相に近いとされています。
このような各紙郷における紙祖の例は、各地にありますが、ここでは省略し、以下にわが国で初めて紙づくりを始めた紙祖とか、紙祖神と言われている人達を探っていきます。
紙祖神 天日鷲命
日本に古くから紙があったとする説のひとつが、「天日鷲命(あまのひわしのみこと)」を紙祖神とする説ですが、阿波(今の徳島県)のほか全国各地の紙郷で紙祖神として祀られています。
アワガミファクトリーのホームページ阿波和紙 -Awagami Factory-(阿波和紙)によれば、「阿波和紙の始まりは、今から1300年ほど前のころ、忌部族という朝廷に仕えていた人達が、現在の徳島県麻植郡山川町の地に入り、麻や楮を植えて紙や布の製造を盛んにしたとの記録が古語拾遺(807年)に見られ、以来、忌部族の始祖天日鷲命(あまのひわしのみこと)を紙の始祖伸として崇め祭ることにより、その技術が伝承され現在に至っています」とあります。このように天日鷲命は、伝統ある阿波和紙の紙祖神とされています。
その天日鷲命について、もう少し説明します。天日鷲命の名前の由来は次のようです。神話で知られている高天原の主神、天照大神(あまてらすおおみかみ)が天之岩戸に入られたとき岩戸の前で天鈿女命(あまのうずめのみこと)の舞いと神々の踊りがはじまりました。このときこの神が弦楽器を奏でると弦のさきに鷲が止まりましたので、多くの神々が、これは世の中を明るくする吉祥をあらわす鳥といってよろこばれ、この神の名として鷲の字を加えて、天日鷲命とされたということです。
その天日鷲命は忌部(いんべ)氏の祖として、阿波(徳島県)の開運・開発・殖産の神で、徳島県麻植(おえ)郡山川町に残る伝承に、紙の祖神として、山川町高越山に高越神社として祀られています。
それに関連して、林 正巳著「和紙の里」の中の「和紙の起源と麻および忌部氏との関係」で、次のように記載されています。
なかでも注目されるのは、徳島県麻植郡山川町に残る伝承である。この郡名となっている「麻植」には重要な意味がある。これは文字どおり麻を栽培することであって、大和から阿波の地に派遣され、国土開発の命をうけた天日鷲命が、この地に麻が豊富に自生していることに目をつけて、麻を栽培する適地としたからであろう。
この忌部氏は国家の祭祀を担当してきた氏族で、その職責にともなって神前にささげる幣をつくっていた。この幣の原料として麻が使用されていたため、その原料確保がひとつの職責であったわけである。
この幣は、後には紙でつくられるようになったが、上代においてはこれを木綿(ゆう)と称して麻のせんいからつくられたといわれている。これは日本に独特なもので、紙の原始形を示すものであると考えられる。もちろん、これらは書写用には不通ではあったが、大陸との交渉がはじまり、「紙なるもの」に接するようになって改良されていったであろう。このように、先進文化のなかで「紙」を知った日本人の祖先は「紙とは糸でてきたなめらかなもの」という意味と知り、さらにそれが神そのものと考えたのか、「紙」を日本流でよむとき「かみ」と訓よみにしたと考えられる。このような日本人的発想は、新しく珍しいものはすべて「神からの授かりもの」「神そのもの」とする意識が根底にあったがゆえであろう。
かかる紙は、日本においては、たんに神事に使用するものとしてのみつくられていた。しかし、この日本固有の紙が、その後、渡来人の技法を加えて混然一体となり、今日の和紙が形成されていったと考えることもできるであろう。
そして、天目鷲命を紙祖神とする経緯には次の記述にあります。
西暦807(大同2)年に成った斎部広成「古語拾遺(こごしゅうい)」の神武天皇大和奠都(てんと)の条に、「天日鷲命の孫(すえ)は、木綿(ゆう)及び麻、並びに織布(あらたえ)を造る。よって天富命をして、天日鷲命の孫を率いて、肥饒地(よきところ)を求め、阿波国に遣わして、穀(かじ)、麻の種を植えさせた。その裔(すえ)は今かの国にあり、大嘗(おおにえ)の年に当たりて、木綿、麻布、また種々(くさぐさ)の物を貢(たてまつ)る。郡の名を麻殖(おえ)とする所以(ゆえ)の縁(もと)なり」とあります。ここで穀は楮(こうぞ)であり、木綿はこの穀の皮を細く裂いたものですが、これを織れば栲布(たくぬの)となり、これは紙の原料でもなります。
この記事にもとずいて、佐藤信淵(さとうのぶひろ)は「経済要録」(1827年)で、「古語拾遺岩戸隠れの条に、天日鷲命にのたまいて、穀木をうえて、白和幣(しろにぎて)を作らしむる事あるを按ずるに、穀木は即ち楮樹の事にて、古は此木の白皮を木綿と名づけて白和衣(しらにぎたへ)の神衣(かうそ)を織たるものなれば、紙を漉出せし事も此時代を距る事遠かるまじく思はるゝ也。」とし、また、屋代弘賢は「古今要覧稿」(1842年)で、「……依て思ふに皇国のくしき神代にして繭をとり絲をひきては、他国に勝れれたる絹布を自から織そめたる事など有るを、紙をすく事も皇国のいにしえになくてあるべき」と記述しております。このように二人の国学者は、和紙の起源をこの記事に求めて、天目鷲命を紙祖神としたわけです。
そして徳島県麻植郡山川町高越山に高越神社のほかに、徳島県徳島市の忌部神社、山口県玖珂郡本郷村の楮祖神社、島根県松江市乃白町の野白神社の摂社として穀木(かじき)神社、山梨県市川大門町の神明宮、山梨県市川大門町の弓削神社の境内にまつられている摂社として白紙社があります。これは祭神として天目鷲命と、その子津咋見命(つくいみのみこと)が合祀(ごうし)されています。また、東京都文京区音羽一丁目にある今宮神社境内の天目鷲神社、東京都台東区千束三丁目に鎮座する鷲(おおとり)神社、茨城・栃木面県境にある茨城県美和村の鷲子山上神社など全国各地で天目鷲命を紙祖神として祀ってあります(久米康生著 和紙文化辞典)。