※青谷村は、2013年現在、鳥取市に編入されています。
およそ1250年の伝統ある因州和紙は因幡紙(いなばのかみ)ともいわれ、鳥取県東部の旧国名、因幡国で生産される手漉き和紙の総称ですが、現在、因幡地方の気高(けたか)郡青谷(あおや)町と八頭(やず)郡佐治(さじ)村の2か所に引き継がれています。今回は青谷町を中心にした因州和紙について触れます。
青谷町ってどんなとこ
因州和紙の里、青谷町は鳥取県の中央部よりやや東に、すなわち鳥取・倉吉両市の中間に位置している。日本海に面していても、海岸近くまで中国山地が迫っているため、平野部は少なく、町域の三方を中国山地の山々に囲まれており、日置川と勝部川の両川沿いの谷と合流点付近の平野部に集落が分布する。人口は約8700人。国道9号線(旧山陰街道)とJR山陰本線が通る。天正年間(1573~92)は亀井氏領の外港として朱印船貿易が行われ、江戸時代は宿場町、藩倉所在地として栄えた。商業も盛ん。平坦地での米作と山麓の梨栽培を中心とする農業が基幹産業で、日置川上流の山間部、山根、河原は伝統的な因州和紙の産地である。
美しい海、広がる海岸線と砂浜、見渡す限りの青海原、それに緑豊かな山地に、美しい滝や渓流もある、それが青谷町である。
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因州和紙の起源について
紙は中国で発明されて世界に伝播しましたが、わが国には朝鮮を経て伝わったのが西暦4~5世紀ころと言われる。
朝鮮半島を渡って、いち早く紙が伝来し奈良時代以前から紙づくりが行なわれていたものと思われる。そして楮などの製紙原料も豊富で、良質の水にも恵まれ、積雪期の長い期間の手作業として紙づくりが発達していった。また、特に因幡の国は需要の多い畿内への距離も近く、陸路で紙は運ばれた。
なお、現存している日本最古の紙は、正倉院に残されている大宝2(702)年の筑前(今の福岡県の北西部)、豊前(大半は今の福岡県東部、一部は大分県北部)、美濃(今の岐阜県の南部)の戸籍用紙である。また、奈良時代の天平9(737)年の正倉院文書「写経勘紙解(しゃきょうかんしげ)」に出雲の国の紙が写経に用いられたとある。このことからも古代に、北九州、山陰地方に文化圏が在ったことが窺い知れる。
ところで、「因幡の紙(因州和紙)」の起源ないしは最初の記述については、
①奈良時代の宝亀五(774)年の正倉院文書「図書寮解(ずしょりょうげ)」に因幡の国で紙が生産されたとあり、… 「とっとりジゲ自慢101選(2002年1月発行 手すき画仙紙)」から。
②因幡の国の紙は、奈良時代(774年・図書寮解)あるいは平安時代(927年・延喜式)に始まるといわれます。
③史実として記録されている因州和紙は、今から約1070年ほど前、「延喜式」という書物に朝廷へ紙麻70斤が献上されたという記述が最初である。
または、初めて歴史に記録されたのは、平安時代中期(927年)に完成した「延喜式」という文献のなかである。その「延喜式」によると、因幡(今の鳥取県東部)の国から朝廷へ紙麻70斤が献上された、と記されているから、鳥取県の和紙生産は、平安時代はもちろん、もしかすると奈良時代にまでさかのぼれるのかもしれない。
④古代において鳥取県は伯耆と因幡の二つの国に分かれていたが,奈良時代の正倉院文書や平安時代の延喜式によると,ともに有力な産紙国であった (1998年 世界大百科事典(第2版)CD-ROM 日立デジタル平凡社 )。
⑤古くは奈良時代の正倉院文書の中に因幡の国で抄紙されたと推測される紙が保存され、… 「とっとり手仕事の技」から。
⑥現存する因州和紙の最も古いものは正倉院保存の「正集」に因幡国とあり、因幡の国印の押されたものが1960年に発見され、… 「1999年1月25日付け 日本海新聞 とっとりジゲ自慢」から。
などがあり、記述・表現もまちまちである。
このように諸説があり、間違いもあるようだ。因州和紙の起源について迷っていたところ、お世話になっている青谷町にお住まいの方から資料を入手し、それを参考にし、引用させて頂き、「因州和紙の起源」について次のようにまとめた(7月7日)。
因州和紙の起源について
因州和紙の起源は古い。それ以前ははっきりしないが、現存する因州和紙の最も古いものは、奈良時代の正倉院文書「正集」の中に因幡国とあり、因幡の国印の押されたものが発見され、正倉院に保存されている。その記録は「養老5年(721年)?」から天平宝字元(757)年、天平宝字6(762)年および宝亀3(772)年まで及んでいる。
「養老5年?」の根拠は解っておらず今後の調査が待たれるが、この頃から因幡の国で造紙が行われていたと推論すれば、因州和紙の歴史はおよそ1280年となり、天平宝字元(757)年または天平宝字6(762)年とする説を用いればおよそ1250年となる[文献「紙」及び「因州和紙」の起源考察 四、因州和紙の起源 鳥取県因州和紙同業会会長 房安 光、鳥取県産業技術センター 材料開発科研究員 濱谷康郎 共著(平成14年3月18日)]。
なお、平安時代中期(927年)に完成した「延喜式(えんぎしき)」には伯耆、因幡とも有力な産紙国であり、朝廷へそれぞれ紙麻70斤が献上されたという記録があることから、立派な上納国でもあった。このように歴史は古い。(注)紙麻…「紙麻」と読み、古代の「楮」のこと
なお、先の①から⑥の中で、『①奈良時代の宝亀五(774)年の正倉院文書「図書寮解(ずしょりょうげ)」に因幡の国で紙が生産されたとあり、…』が、手持ちの文献や参考書などに載っている最も多い表現であるが、「図書寮解」にはこのような記述はなく、紙の産地として「美作・播磨・出雲・筑紫・伊賀・上総・武蔵・美濃・信濃・上野(群馬)・下野(栃木)・越前・越中・越後・佐渡・丹後・長門・紀伊・近江」の19ヶ国が上げられており、この中に因幡は含まれていない(文献…「紙」及び「因州和紙」の起源考察)、とのことで①の表現は間違いのようだ。
しかし、19ヶ国のみが当時紙の産地であったとする説は、逆に「未進の国」(まだ納めていない国)を書き出したものではないかとも考えられ、この19ヶ国に含まれていないことによって、因幡国で造紙が行われていなかったと推論するのは早計に過ぎると思われる(同上文献)。今後の調査が待たれ、楽しみでもある。
その後の因州和紙
その後の因幡の紙は、しばらく歴史のうえに現れてこない。いまの青谷町は、1580(天正8)年に、青谷の近くにある鹿野城主となった亀井茲矩(かめいこれのり)の領地になった。名君といわれた茲矩は、新田を拓いたり、産業を盛んにし、朱印船による貿易も行った。
江戸時代初期には茲矩は、「領地で切らざる木(切ってはならない木)、11種」(亀井侯文書)という命令を出している。11種類の木のなかには、コウゾ(楮)・ガンビ(雁皮)が含まれていた。コウゾとガンピは、和紙の原料となる木である。亀井藩(後に鳥取藩)の和紙生産奨励策もあって、御用紙としてさらに発展しいった。そしてこの地域の和紙は、御朱印貿易として東南アジア(タイ、ルソンなど)に輸出されたといわれる。
このころの話として青谷町には、因州和紙の起こりについて、次のような秘話が伝わっている。
因州和紙元祖の秘話
①僧侶説…寛永5(1628)年、美濃の国(現在の岐阜県)から諸国巡錫をしていた旅の僧侶が、因幡の国河原村(現在の青谷町河原)にやってきたが、この地で病気になってしまい、旅を続ける事が出来なくなってしまった。しかし、村人の手厚い看病により、僧侶の病気はほどなく治った。この村人達の心暖まる手当てに感激した僧侶は、お礼として当時ご法度であった美濃の最新の紙すき法を伝授して旅立ったという。
②美濃の弥助説…寛永10(1633)年、諸国流浪の旅に出た美濃の国生れの浪人、弥助は因幡の国河原村にやってきた。しかし、弥助はこの地で病気になってしまい、旅を続ける事が出来なくなった。その時、河原村の鈴木弥平が弥助を自宅につれていき手厚く看護したところ病気はほどなく治った。弥助はお礼にと当時ご法度であった美濃の国の紙漉きの技法を弥平に教えて、再び旅に出たという。この弥助の世話をした鈴木家は代々「美濃屋」と称し、また、弥助を供養する石碑「因幡紙元祖碑」が建てられている。
③①の旅の僧は、美濃国の弥助という説 などがある。
このように若干、異なる。美濃の国の旅人、因幡の国河原村、病気、手厚い看病、回復、お礼のしてご法度の美濃の国の紙漉き法伝授というストーリーは同じであるが、寛永5年と寛永10年(他に寛永元年という説もあるといわれる)、僧侶(名が不明)と浪人弥助、看病する人が村人達(複数で特定名なし)と鈴木弥平などに違いがみられる。また、いくつかある地元発行の因州和紙PR用のパンフレットにも①僧侶説と②美濃の弥助説の2通りのものがある。定まっていないようだ。秘話たる由縁である。
なお、青谷町を流れる日置川の上流、河原地区の道端にある石碑「因幡紙元祖碑」(昭和12(1937)年建立)は次のようである。
「因旛紙元祖碑」について
青谷町を流れる日置川の上流、河原地区の道端に巨石を積み上げた碑が建立されている。その表には「因旛紙元祖碑」とあり、裏面には、「寛永10(注.1633)年、美濃住人、弥助、流浪して当地にきたりしが、にわかに病をえて、河原村鈴木弥平方に寄る。親切によってほどなく快癒し、謝恩のため御法度に反することを知りつつも紙すき業を伝授して帰国、断罪の刑に処せられたり」とある。当時は、各藩とも殖産のために、その製法・技法を秘法として守り、藩外に漏らすことは硬く禁じていた。それを犯した弥助は藩により断罪に処せられたわけである。この碑はその弥助の霊を弔うとともに感謝し紙祖として敬い、昭和12(1937)年にこの地の紙漉き業者の人達によって建てられたものである。
「地域の歴史と風土が、紙の質をつくる」と言われるが、青谷町山根には信心深い生活を送り、妙好人(みょうこうにん、行状の立派な念仏者。特に浄土真宗で篤信の信者)として知られている因幡の源左の生家・願正寺(1598年創建)もある。信仰心と慈悲、感謝の気持ち、それに技がこの地の人達に引き継がれ、因州和紙の温かさを育んでいるのかも知れない。
次に明治時代であるが、明治以降については改めて整理したい。
「あおや和紙工房」オープン!
「青谷町に新たな和紙施設 」8月2日にオープン。青谷町の伝統産業であり、国の伝統工芸品と県の無形文化財に指定されている因州和紙をテーマにして、和紙を総合的に紹介、触れ合うことのできる殿堂で、和紙のPRと伝統ある和紙産業振興の拠点施設(町営)である。
もちろん、町の振興と和紙伝承の場でもあり、若者の和紙技術研鑽の場でもある。
なお、オープン記念特別企画展として、「紙・言・葉(かみことば)」が開催される(8/2~9/16)。4名のアーチストが魅力ある和紙の可能性について、独創的で新鮮な作品を奏でる。(写真)あおや和紙工房オープンのPR用チラシ
総事業費 | 約6億7千万円 |
敷地 | 約1万1千平方メートル |
建物 |
木造一部鉄骨平屋建て (延べ面積 約1,500平方メートル) |
施設 |
和紙体験工房…「世界に一枚、自分だけの和紙づくり」 手すき和紙工房 研修室、和紙ショップ、喫茶室 展示館…「常設展示室」と「企画展示室」 多目的ホールなど |
所在地 (TEL/FAX) |
〒689-0514 鳥取県気高郡青谷町山根313 (TEL 0857-86-6060、FAX 0857-86-6061) |
交通手段 |
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入館料 | 一般・高校生 500円、小中学生 250円 |
体験料 | 紙漉き体験 500円、和紙加工 500円 |
開館時間 | 午前9:00~午後5:00 |
休館日 | 毎週月曜日(月曜日が祝祭日の場合は翌日の火曜日) |
E-メール | info-washikobo“atmark”tbz.or.jp(迷惑メール防止のため@を“atmark”で表示しています) |
ホームページ | あおや和紙工房 |
これで和紙の手漉き体験ができるところは、青谷町で従来からある次のところを加えて2ヵ所となる。
- 日置和紙工房(青谷町河原)(また、鳥取県商工会連合会の因州和紙(青谷町)日置和紙工房)…ホームページ参照
(2002年8月1日まとめ)