うれしい話が載っていました。途絶えそうになっていた伝統の和紙に後継者ができ、再びよみがえっているという話ですが、その和紙は富山県産の蛭谷(びるだん)和紙です。
今回はその紹介です。記載の冊子は全国信用金庫協会発行の「楽しいわが家」(2006年5月号)ですが、その「海かぜ山かぜ」ふるさと短信に「蛭谷和紙が復活」というタイトルで報じられていました。それは、
四百年近い伝統があるといわれる朝日町の蛭谷和紙(びるだんわし)。途絶えかけていたが一人の若者が約一年半前から修行を積み、伝統の技が再びよみがえった。原料の栽培から紙すきまで一連の作業を一人でこなし、「日本を代表する和紙」を目指している。
和紙職人の道を歩き始めたのは入善町上野の川原隆邦さん(24)。朝日町蛭谷で唯一の伝承者の米丘寅吉さん(87)のもとで、技を磨いている。
川原さんは千葉県松戸市出身だが、両親のふるさと入善町に、高校卒業と同時に両親とともに移り住んだ。サッカーのプロを目指したが、けがをしてサッカーをあきらめたころ、蛭谷和紙が途絶えそうになっていること知り、〇四年秋に米丘さんを訪ねた。
というものです。
蛭谷和紙は富山県の東端、朝日岳の山麓で漉かれています。蛭谷和紙のことは、同じ富山県産で、かつて(1999年4月に)訪問したことのある八尾和紙(八尾町)、五箇山和紙(平村)とともに知っていました。
そして当時、読んだ「和紙の手帖」(全国手すき和紙連合会 1992年発行)の蛭谷紙の説明で生産は「下新川郡朝日町蛭谷一戸(3名)」とありました。さらに4年後の1996年発行の「和紙の手帖Ⅱ 越中和紙(山口昭次氏執筆)」には、蛭谷紙製造は一軒(2名)のみとなっております。八尾和紙、五箇山和紙の両産地とも後継者が育ち、年々生産・販売額は伸びているのに対して、蛭谷和紙は事業所数も人数も少なく、しかも減っており、後継者がいなくなり存続が危なくなるのではないかと心配していました。
ところで蛭谷紙は、この地に木地師(きじし)が伝えたといわれ、「元禄中農隙所作村々寄帳」(1688~1704)に、蛭谷村「中折紙少々漉申候」と記されています。この地の紙は半晒しの楮紙ですが、明治末から大正にかけて百軒余りと村内のほとんどの家で紙が漉かれていたと伝えられています。
それが富山県にかぎらず全国の各和紙生産地で戦後のライフスタイルの変化、洋紙の進出などにより、和紙漉きの人口は急速に減少しました。
蛭谷和紙もしかりで、その上、昭和28年の大火により、ほとんどの紙屋が消滅したということです。
現在は1軒のみで書画用紙(楮紙)を漉いていますが、その1軒が蛭谷(米丘)和紙工房の米丘寅吉さんです。奥さんと30年以上も紙すきをしてきていますが、後継者がいなかったことから、当の米丘さんはもちろんのこと、関係者も伝統ある蛭谷和紙の存続について心配されていたということです。
それが今回、上記のように「蛭谷和紙が復活」と知りました。非常に嬉しいことです。米丘さんも関係者もこの上もなく喜ばれておられることでしょう。若い川原隆邦さんが米丘さんに弟子入りして伝統工芸の技術を継承しようと励んでいる様子が眼に浮かびます。是非これからも頑張っていただき、伝統ある手漉き和紙を守っていってほしいものです。
(2006年8月1日)
参考
越中紙(越中和紙)について
越中紙は古くは、奈良時代にさかのぼると言われており、天平九(738)年の正倉院文書に「越経紙」の名があり、これは越前、越中、越後の紙であろうとされていります。また奈良時代の正倉院に残る宝亀5(774)年の古文書、「正倉院文書」の図書寮解(ずしょりょうげ)の「諸国未進紙並筆紙麻事」に「越中国紙(えっちゅうのくにがみ)四百枚」の記述があり、「越中国」と表現されております。
さらに平安時代の「延喜式」(927年撰上)にも、「越中国」の名があり、中男作物(ちゅうなんさくもつ)として紙を租税に「一人紙四十張」を納めたとの記録があります。(注)越中国…現在の富山県全域にあたる旧国名。
奈良時代には写経用紙として重用され、特に江戸時代から隆盛を極め、自家栽培した楮の強靭な繊維で丈夫な和紙を生産してきました。
なお雪国ならではの技法、特に雪の上に楮の皮を並べて漂白する雪晒しという方法などが今日まで伝えられています。
なお、富山県に現存する紙郷は、婦負(ねい)郡八尾村の八尾(やつお)和紙、東砺波郡平村(五箇山地区)の五箇山和紙、下新川郡朝日町の蛭谷(びるだん)和紙ですが、奈良・平安時代の紙が県内のどの地方で漉かれたものなのか、はっきりしないとのことです。
この三か所の産地では独自の和紙づくりが受け継がれてきておりますが、これらの和紙を総称して越中和紙と言います。
越中和紙は1988(昭和63)年6月に国の伝統的工芸品に指定されましたが、「越中和紙」という名称は、伝統的工芸品の指定を受けるため、1984(昭和59)年に八尾和紙、五箇山和紙、蛭谷和紙の三産地の和紙を「越中和紙」と総称し、富山県和紙協同組合が国に申請したことに由来します。なお、それぞれの産地では、旧来の名を使っていますが、公的な文書や対外的な展示会などでは越中和紙に統一しています。
「おわら風の盆」で知られる八尾町に伝わる八尾和紙が最も盛んになったのは、江戸時代の元禄年間(1688~1704)です。当時の富山二代藩主前田正甫公の売薬の奨励と共に、配置売薬に用いられた薬袋紙(売薬用紙…売薬用の包み紙)や膏薬紙、これを束ねる細紙、薬の配置先を記録する懸場帳(かけばちょう)の需要がこの地に集中し、「八尾山村千軒、紙を漉かざる家なし」とまで謳われたほど発展しました。
平家落人の里、五箇山には古くから都の文化が伝えられていました。五箇山和紙もそのひとつ。江戸時代、平村で作った中折紙二十束が加賀二代藩主・前田利長に献上したという古文書が残っています。以来、五箇山は加賀藩の手厚い保護を受けながら発展し、合掌造り家屋のなかで半紙や中折紙などを漉き、良質和紙の産地として今日に至っています。 その質の高さは京都・桂離宮の解体修理の際、特別に指名されたことからも知ることができます。
参考
参考・引用文献
- 「楽しいわが家」(全国信用金庫協会発行 2006年5月号)
- ホームページ全国手すき和紙連合会 富山県・越中和紙
- ホームページToyama Just Now
- 全国手すき和紙連合会「和紙の手帖 越中和紙」(1992年発行)
- 全国手すき和紙連合会「和紙の手帖Ⅱ 越中和紙(山口昭次氏執筆)」(1996年発行)
- 和紙文化辞典 久米康生著、わがみ堂発行(1995年10月)