コラム(66-1) 紙・板紙「書く・拭く・包む」(2)浅草紙、江戸から昭和の再生ちり紙について

紙・板紙を「書く・拭く・包む」シリーズとして、今回は塵紙(ちりがみ)として使われた「浅草紙」について勉強します。

なお、浅草紙については㈶紙の博物館の機関紙「百万塔」(2002年1月刊113号)に會田隆昭著「浅草紙の三百年 ― 江戸=東京北郊に於ける漉返紙業の歴史理 ―」で詳しくまとめられています。詳細を知りたい方はそれをご参照ください。ここでは他の資料(文献、サイト)も参考・引用し、合わせてまとめました。

 

はじめに、浅草紙とは

浅草紙(あさくさがみ)は、江戸(現東京)の浅草・山谷・千住などで製造された漉き返しの紙、今でいう再生紙です。が付いた屑紙(故紙・廃紙・反故(ほご)紙、今の古紙)を水に浸し、叩いて砕き、漉く程度の、非常に簡単なもので、などがよく除かれていないため鼠(ねずみ)色をしており、よく見ると紙全体にムラが多く、文字が書かれたままの紙片や、人の髪の毛なども混じっていることもあったといいます。悪紙(わるがみ)とも言われ、粗悪で下等の紙質でしたが安価な塵紙で、江戸庶民に親しまれ、主に鼻紙や落し紙(今のトイレットペーパー)などに常用されたと言われます。また、浅草紙は江戸の名産品の一つとなり、後に漉き返しによる質の悪い紙の代名詞となり、漉き返し紙を代表する総称にまでなりました。

 

浅草紙発祥の

「浅草の名物観音海苔と紙」とあるように浅草紙は、その名のとおり浅草が発祥のであり、江戸時代に浅草周辺でつくられ浅草の名産になりました。

ところで浅草の名の由来は、諸説があるようですが、「往古、草深い武蔵野の中で浅草の一画は茅や芝草ばかり浅々と生い茂っていた草原だったので、京都の深草と対比して浅草の名が生まれたのであろう」というのが定説だそうです。なお、朝日新聞社の「東京名考」によれば、「武蔵野の末にて草もおのづから浅々しき故浅草と云いしなるべし」とあり、定説を採用されています。

また「浅草」の名は鎌倉時代の初期にはすでにあり、そのころこの域は浅草寺(せんそうじ)を中心にかなり発達していたと考えられています。紙自体も江戸幕府が開かれる1603年の少し前の慶長期(1600年ころ)に浅草寺が屑紙を与えて、この区の農民に副業として寺用の漉き返し紙を漉かせ始めていたようです(會田隆昭著「浅草紙の三百年」)。それが次第に専業化し、このに浅草紙として商品化され生産されるようになり、それとともに紙漉農家集団が多く住む区域に「紙漉町」の名が与えられました。それを以下に説明します。

浅草紙誕生の時期については、久米康生著「和紙文化辞典」(浅草紙の項)に、寛文のころ(1661~1673年)の岩井守義述「浅草名考」に浅草紙の名がみられる。そして貞享4(1687)年の「江戸鹿子」に「紙すき町」が記載されているとあります。

なお、「江戸切絵図延宝四年版」(1676年)に、江戸初期、現在の雷門一丁目(田原小学校付近)には屑紙の漉き返しを業とする人達が多く居住したことから「カミスキ丁」の町名が記録されており浅草紙漉業の繁忙を示唆しているとあります(ホームページ:-江戸旧聞-)。

また、前出の會田氏は「浅草紙の三百年」の文中で、浅草田原町(現在の東京都台東区雷門一丁目)において江戸時代の延宝期(1670年代)に浅草紙が興ったと述べられています。さらに、同「浅草紙」関連の年表のなかには1670年ころに浅草紙が興ったとあり、前記と若干、年代表現の差がありますが、浅草紙の誕生は1670(寛文10)年ころと言えます。

もう少し説明します。1965(昭和40)年の住居表示制度で浅草田原町を編入して現在の雷門一丁目になっていますが、旧名の浅草田原町の由来については「新選東京名所図会」に、「往古千束郷広澤新田の内にして、浅草寺領の田圃なり。居民耕作の餘多く紙漉を業とせしを以て俗に紙漉町と唱へしが、人家斬く過密になるによって、三丁に区分し、もと田畑なりしに因り、今の町名を附したりといへり。」と記述されています。

すなわち、浅草田原町は「昔、千束郷広沢新田に属し浅草寺領の田圃であった。今の町名の由来はもともと田畑であったことに因るものである」。そして「紙漉きを業とする者が多く住んでいたので、通称、紙漉町と呼ばれていた。次第に人家が多くなり、一丁目から三丁目まであった」というものです。この記事は「東京案内」(1914年)に記載されている内容と同じであるといいます。

以上、少し長くなりましたが、まとめますと「浅草寺の近くに紙漉町ができ、そこで江戸市中から集めた屑紙を漉き返し、つくられた紙が浅草紙と呼ばれるようになった」というわけです。これが浅草紙の名前の由来であり、紙漉町(浅草田原町1丁目、現雷門一丁目(田原小学校付近))が浅草紙発祥のとされています。そして、そこに紙漉町跡の説明板があるということです。

なお、「貿易備考」には「往時専ら江戸浅草に製せしが故に、浅草紙とも云ひ、又並六とも曰ふ」とあり、並六の別称は、浅草並木町に六兵衛という紙漉人がいたからで、彼が浅草紙の祖であるか、彼の生産量が多かったからか、命名のはっきりした由来は不明(久米康生著「和紙文化辞典」)とあります。これによると「浅草紙」は「並六」(なみろく)とも呼ばれていたようですが、その由来は浅草並木町に六兵衛という紙漉人がいたからで、彼が浅草紙を漉き始めた元祖かどうかは、はっきりしていないというものです。

さらに元禄時代(1688~1704年)の書物「江戸真砂六十帖」には、日本橋馬喰町において紙販売業を営む紙屋五兵衛が浅草紙と称して屑紙を漉いた下等の塵紙を売り始め、非常に繁昌したとの記録があるとのことですが、浅草紙の評判は良かったようです。

それから江戸時代には全国各で漉き返し紙が作られるようになりますが、「鼻をかむ紙は上田か浅草か」という句があるように、浅草近辺で作られていた浅草紙や長野の上田紙、京都の西洞院紙にしのとういんし)などが有名でした。

しかし、その後、浅草で興った浅草紙の生産の中心は、近辺の宅化、市街・都市化、観光化などにより、浅草寺の裏手に当たる山谷周辺や橋場方面へ、さらに千住方面、また本木・梅田付近へと北上しながら移動を余儀なくされていきます。

 

浅草紙とはどんな紙?

それでは浅草紙はどんな紙でしょうか。寺田寅彦氏の随筆に「浅草紙」(大正10(1921)年1月)という作品がありますが、このなかで1枚の「浅草紙」を手にとって見た様子がきめ細かく描写されており、よく分かりますので、その部分を抜粋し説明していきます(全文はこちら)。

寺田寅彦著「浅草紙」(抜粋)から

ふと氣がついて見ると私のすぐ眼の前の縁側の端に一枚の浅草紙が落ちて居る。それはまだ新しい、ちつとも汚れて居ないのであつた。私は殆んど無意識にそれを取り上げて見て居る内に、其の紙の上に現はれて居る色々の斑點が眼に付き出した。

紙の色は鈍い鼠色で、丁度子供等の手工に使ふ粘土のやうな色をして居る。片側は滑かであるが、裏側は隨分ざらざらして荒筵(あらむしろ)のやうな縞目(しまめ)が目立つて見える。併し日光に透して見ると此れとは又獨立な、もつと細かく規則正しい簾のやうな縞目が見える。此の縞は多分紙を漉く時に纎維を沈着させる簾の痕跡であらうが、裏側の荒い縞は何だか分らなかつた。

縁側に落ちていた新しい1枚の「浅草紙」を手にとって見ているうちに、紙の上にいろいろな斑点があった。紙の色はちょうど細工に使う粘土のような鈍い鼠色をしており、片側は滑かであるが、裏側は隨分とざらざらしていて荒筵(あらむしろ)のやうな縞目(しまめ)が目立つて見える。また日光に透して見るともつと細かく規則正しい簾のやうな縞目が見える。此この縞は多分紙を漉く時に纎維を沈着させる簾の痕跡であらうが、裏側の荒い縞は何だか分らなかつた、と観察していますが、このあと氏は科学者らしい推論を展開していきます。

 

指頭大の穴が三つばかり明いて、其の周圍から喰み出した纎維が其の穴を塞がうとして手を延ばして居た。そんな事はどうでもよいが、私の眼についたのは、此の灰色の四十平方寸ばかりの面積の上に不規則に散在して居るさまざまの斑點であつた。

先づ一番に氣の付くのは赤や青や紫や美しい色彩を帶びた斑點である。大きいのでせいぜい二三分四方、小さいのは蟲眼鏡でゞも見なければならないやうな色紙の片が漉き込まれて居るのである。それが唯一樣な色紙ではなくて、よく見ると其の上には色々の規則正しい模樣や縞や點線が現はれて居る。よくよく見て居ると其の中の或物は状袋のたばを束ねてある帶紙らしかつた。又或物は巻煙草の朝日の包紙の一片らしかつた。マッチのペーパーや廣告の散らし紙や、女の子のおもちやにするおすべ紙や、あらゆるさう云つた色刷のどれかを想ひ出させるやうな片々が見出されて來た。微細な斷片が想像の力で補充されて頭の中には色々な大きな色彩の模樣が現はれて來た。

普通の白に黑インキで印刷した文字もあつた。大概やつと一字、せいぜいで二字位しか讀めない。それを拾つて讀んで見ると例へば「一同」「圓」などはいゝが「盪」などゝいふ妙な文字も現はれて居る。それが何かの意味の深い謎でゞもあるやうな氣がするのであつた。「蛉(ぼ)かな」といふ新聞の俳句欄の一片らしいのが見付かつた時は少しをかしくなつて來てつい獨りで笑つた。

どうして此んな小片が、よくこなれた纎維の中で崩れずに形を保つて來たものか。此の紙の製造方法を知らない私には分らない疑問であつた。或は此等の部分だけ油のやうなものが濃く浸み込んで居た爲にとろけないで殘つて來たのではないかと思つたりした。

紙片の外にまださまざまの物の破片がくつついて居た。木綿絲の結び玉や、毛髪や動物の毛らしいものや、ボール紙のかけらや、鉛筆の削り屑、マッチ箱の破片、此んなものは容易に認められるが、中にはどうしても來歴の分らない不思議な物件の斷片があつた。それから或る植物の枯れた外皮と思はれるのがあつて、其植物が何だといふことがどうしても思ひ出せなかつたりした。

此等の小片は動植物界のものばかりでなく鑛物界からのものもあつた。斜めに日光にすかして見ると、雲母の小片が銀色の鱗のやうにきらきら光つて居た。

紙には、はじめから指頭大の穴が三つばかり空いていたとあるように、雑な漉かれ方をしていたようです。さらに寺田寅彦氏が興味を持ったのは、灰色(鼠色)をした約20cm四方(四十平方寸=0.037m2)の大きさの紙に不規則に散在しているさまざまの斑点でした。それは赤や青や紫や美しい色彩を帶びた1~4mm程度の紙片やもっと小さなもので、よく見ると状袋のたばを束ねてある帶紙、巻煙草の「朝日」の包紙、マッチのラベル紙、広告のチラシ紙、女の子のおもちゃにするおすべ紙や、白の紙に黑インキで印刷した文字、新聞の俳句欄の一片らしいものなどで面白おかしく観察されています。

これらの紙片以外に木綿糸の結び玉や、毛髪や動物の毛、ボール紙のかけらや、鉛筆の削り屑、マッチ箱の破片や、植物の枯れた外皮と思われるものや、これらの動植物界のものばかりでなく鑛物界の雲母の小片もあり、斜めに日光にすかして見ると、きらきら光つていたと科学者の眼で観察されています。

浅草紙は悪紙とも言われ、紙質は粗悪であったとのことですが、それにしてもたまたま手に取った1枚の紙に穴あり、紙片・毛髪などいろいろなものが漉き込まれていたわけです。

 

段々見て行く内に此の澤山な物のかけらの歴史が可也に面白いものゝやうに思はれて來た。何の關係もない色々の工場で製造された種々の物品がさまざまの道を通つて或る家の紙屑籠で一度集合した後に、又他の家から來た屑と混合して製紙場の槽(ふね)から流れ出す迄の徑路に、どれ程の複雜な世相が纏綿して居たか、かう一枚の浅草紙になつてしまつた今では再びそれをたどつて見るやうはなかつた。私は唯漠然と日常の世界に張り渡された因果の網目の限りもない複雜さを思ひ浮べるに過ぎなかつた。

あらゆる方面から來る材料が一つの釜で混ぜられ、こなされて、それから又新しい一つのものが生れるといふ過程は、人間の精神界の製作品にも其れに類似した過程のある事を聯想させない譯にはゆかなかつた。

魔術師でない限り、何もない眞空から假令(たとえ)一片の淺草紙でも創造する事は出來さうに思はれない。しかし紙の材料をもつと精選し、もつとよくこなし、もう一層よく洗濯して、純白な平滑な、光澤があつて堅實な紙に仕上げる事は出來る筈である。マッチのペーパーや活字の斷片が其のままに眼につく内はまだ改良の餘はある。

色が鼠色をしており、さまざまな斑点や異物が混在している1枚の「浅草紙」を観察しているうちに寺田寅彦氏は、それらが点在していることは、まだ改良の余はあるとして、紙の材料をもつと精選し、もつと純白で平滑のある等の紙に仕上げることは出來るはずであると思いをめぐらしています。

以上、1枚の「浅草紙」から、科学者寺田寅彦氏の素晴らしい随筆(全文はこちら)でした。

 

参考

下に浅草紙の写真を示します(ホームページ紙の博物館:お江戸の科学)。

写真左が浅草紙(紙の博物館 所蔵)で、鼠色をしており、離解されていない紙の破片や塵などの異物が多く認められます。写真右は透過光で撮影したもの。紙全体に合が悪く、濃淡ムラが多いことがよく分かります。

 

  次のページへ


更新日時:(吉田印刷所)

公開日時:(吉田印刷所)