コラム(71-2) 紙・板紙「書く・包む・拭く」(6)新聞用紙の原料の変遷

新聞用紙の原料の変遷

まず製紙原料面を見ていきます。

 

わが国初の新聞用紙生産について

日本における近代的な新聞(日刊紙)の誕生は明治時代の初期ですが、当初の新聞用紙は輸入した西洋紙が使用されました。当時わが国で使用されていた紙は、日本で育まれてきた和紙が中心で、それに欧米からの輸入紙(洋紙)で、輸入紙比率(洋紙)はおよそ95%でした。そのなかで洋紙製造の産声を上げたわけですが、その原料は欧米と同じ綿ぼろでした。

わが国最初の新聞用紙の生産は1875(明治8)年12月のことですが、新しく誕生した洋紙会社である「抄紙会社」(現王子製紙の前身)で行われました。これが一般的に日本の洋紙産業の始まりと言われていますが、もう少し詳しくその経緯に触れます(コラム(34) 洋紙発祥の地から再録)。

「抄紙会社」の創業は、東京府豊島郡王子村(現、東京都北区王子)ですが、わが国洋紙発祥のとされています。また、王子製紙株式会社の社名の発祥のでもありますが、「抄紙会社」を設立した起業家は、後に「日本近代産業の父」と言われ、王子製紙の創業者でもある渋沢栄一です。

渋沢栄一が大蔵省を退官する前の紙幣寮紙幣頭兼任の1871(明治4)年ころに「抄紙会社」創立の議が起こりました。その前の1867(慶応3)年の渡欧でヨーロッパの情勢を見聞した渋沢栄一は、「西洋各国が万事に大いなる発展を遂げているのは、文運の発達にある。その文運の発達には、先ず印刷事業を盛んにして書物なり新聞なりを便利に多く出すことが必要である。その書物なり新聞なりのもとは紙である」と痛感しました。そして「製紙および印刷事業は文明の源泉である。しかし、紙も日本紙では適わず、印刷のできる西洋紙が必要である。文明の近代化のためには西洋紙と、西洋流の印刷に拠るのが一番の近道である。そのために何より先に西洋紙の製造をやらなければなるまい」と説き、西洋式(機械抄き)の製紙事業を発議しました。

その後、1872(明治5)年に渋沢栄一の勧誘で三井組、小野組、島田組等により、「抄紙会社」設立の出願があり、同年11月に日本最初の株式会社(資本金15万円)である洋紙会社が創立されたわけです。

翌1873(明治6)年2月には、大蔵省紙幣寮の認可を得て「抄紙会社」と正式に命名され、その最初の工場である王子工場の建設はイギリス人技師の指導のもとに、1874(明治7)年9月から始まりました[設置抄紙機は、イギリス製78インチ(1,981mm)長網抄紙機(全長20m、1台)で、設計最高抄速30m/分]。その翌年の6月には完成、運転を開始しましたが、操業当初はうまくいきませんでした。苦労があったようで、紙ができるまでに3か月を要しましたが、やがて白紙と新聞用紙を生産し、その年の1875(明治8)年12月16日に盛大な開業式が執り行われ、ここに洋紙産業の幕開けとなりました。

ところで日本で最初に洋紙の生産を始めたのは、実はこの「抄紙会社」ではなく有恒社で、1874(明治7)年のことです。もう少しわが国における洋紙の始まりについて補足しておきますと、西洋の技術を導入して日本で洋紙製造を目的として最初に創立されたのは1872(明治5)年2月の有恒社で、その2年後の1874(明治7)年6月に東京日本橋蠣殻町において開業しました。最初に導入された抄紙機は長綱式の英国製[抄紙速度20m/分、抄紙幅60インチ(1,500mm)、日産能力約1.5t、製紙原料…ぼろ布]でした。

このように「抄紙会社」が最初ではありませんが、何故、「抄紙会社」の最初の営業運転が洋紙産業の幕開けとされるのでしょうか。それはこのころ創立・開業した有恒社も含めた他社・工場のほとんどが閉鎖・統合されたこと、例えば有恒社は1924(大正13)年に王子製紙に併合されたのに対し、抄紙会社王子工場は1945(昭和20)年に空襲で焼失するまで存続して、王子製紙株式会社の母体であったことや、わが国の近代工業の先駆けとなり、開業当初から生産高で他社を大きく凌いでおり、洋紙生産のパイオニアの役割を果たしたことなどが理由として挙げられています。被爆した王子工場はその後、復旧することなく、ここにわが国における洋紙発展の基礎固めの役割を果たし、70年の歴史の幕を閉じたわけですが、わが国の紙パ産業に多大な足跡を残しました。

なお、「抄紙会社」の社名は、後に設立した官営「紙幣寮抄紙局」と紛らわしいとのことで、1876(明治9)年に「製紙会社」と改称し、さらに1893(明治26)年には創業の名を冠し社名を「王子製紙」と改称し、今日の王子製紙のもとになっています。

 

製紙原料は、ぼろ布・藁(わら)から木材へ

1875(明治8)年当時、「抄紙会社」が抄いた新聞用紙の製紙原料はぼろ布を原料にしたパルプでした。その後、製紙原料も「製紙会社」(抄紙会社改め)の大川平三郎(渋沢栄一の娘婿)が稲藁からパルプを製造する方法を開発し、1882(明治15)年に稲藁パルプの製造が開始されました。稲藁は木綿ボロよりは調達しやすく、そのパルプ化は蒸気や石炭の消費量も少なくでき、製造コストの大幅ダウンになったとのことです。これにより明治20(1887)年初頭の製紙工場は稲藁のみをパルプ原料とするか、あるいは主原料とするようになりました。

その後、徐々に紙の生産量が増加し、対応策として欧米の技術を導入して、多量かつ安価で安定的に入手可能な木材からパルプを生産するようになります。最初の木材パルプは亜硫酸法によるもので、明治19年に製紙会社王子工場で先駆的試みが行われましたが、成功に至らず、断念せざるをえませんでした。本格的には1889(明治22)年に、静岡県竜川上流の気田に日本最初の木材による亜硫酸パルプ(サルファイトパルプ、SP)工場(製紙会社気田工場)を建設し、操業を開始し、成功しました。また、翌1890年には富士製紙の入山瀬工場(静岡県)が日本初の砕木パルプ(グランドパルプ、GP)製造に成功。こうしてヨーロッパに遅れること約45年になりますが、日本でも木材パルプによるマスプロ方式の技術導入がされ、木材パルプ時代の到来を迎えました。その後、国内の針葉樹を使った機械的処理した砕木パルプ(GP)主体で化学パルプの未漂白亜硫酸パルプ(SP)を組合せる混合系へと移っていきますが、GPとSPの時代が第二次世界大戦後まで続きます。

その間、製紙工場の建設場所や生産規模などに変化がありました。1894(明治27)年の日清戦争(~1895年4月締結)の勃発とともに新聞の発行部数が急増して、用紙の生産量も増加の一途をたどりますが、木材資源確保のために製紙工場は海運の利便性がよく、広大な用と水があり、木の多い山の近くに建設されるようになります。例えば王子製紙(製紙会社改め)は会社の命運を託して、工場の北海道進出を決め、新聞用紙の国内自給を目的とする工場建設を1908(明治41)年に着手し、1910(明治43)年7月に操業を開始。ここに新聞用紙専抄工場である画期的な「苫小牧工場」の誕生となりました。主な設備は水力電気による自家発電、砕木パルプ製造設備に、当時、米国で最大で最新式とされた142インチ幅の長網抄紙機2台をわが国最初に設置。さらに100インチ幅の長網抄紙機2台を持つ新鋭工場となりましたが、これにより「王子製紙株式会社」の主力工場は、この苫小牧工場に移り、東京府下王子村の王子工場は主役の座を譲り渡すことになります。現在、苫小牧工場は新聞用紙以外にグラビア紙、微塗工紙など、印刷・出版分野へも進出していますが、年間総生産能力約130万t(06年新聞巻取紙生産量…約105万t、国内占有率28%)。新聞用紙の国内需要の約4分の1強を供給するスケールは、単一生産工場としては世界第1位の規模を誇っています。

 

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更新日時:(吉田印刷所)

公開日時:(吉田印刷所)