和紙紀行・夢の和紙めぐり(11) 石州和紙(島根県鹿足郡津和野町)

六日目(4月30日) 、越前和紙のある福井県今立を訪問した後、故郷の鳥取県の米子に戻る(福井県今立訪問記録は和紙紀行・夢の和紙めぐり(2) 越前和紙(福井県今立町)参照)。

 

島根県

1999(平成11)年4月25日から5月2日の8日間、5月の連休を活用して定年前のリフレッシュ旅行で「和紙」への旅に出掛けたが、この和紙紀行もいよいよ大詰めにきた。今回は石州(せきしゅう)和紙を津和野(島根県)に訪ねた。

七日目(5月1日) 土曜日、妻と娘の三人で米子駅を発った[JR山陰本線10:45発(おき 3号)]。乗ったらすぐに安来(やすぎ)市で島根県の最東部にある。これから島根県の南西部にある津和野まで約三時間半の道中である。

 

雲州と石州

島根県は東部の出雲(いずも)方と西部の石見(いわみ)方とに分かれており、それぞれ雲州、石州ともいう。そしてその方で漉かれている紙を出雲和紙(出雲紙 いずものかみ)、石州和紙(石見紙 いわみのかみ)と総称する。

出雲和紙には出雲民芸紙(八束郡八雲村)、広瀬和紙(能義郡広瀬町)、斐伊川和紙(飯石郡三刀屋町)がある。また、西部(石見方)の域で漉かれている石州和紙は、那賀(なか)郡三隅町を中心に、津和野町(鹿足郡)、桜江町(邑智(おうち)郡)がその紙郷である。

 

石州和紙

石州和紙についてもう少し勉強をしよう。

石州和紙(石州半紙)は島根県の西部、石見方で漉かれている。

歴史上、石見が登場してくるのが平安時代の927年(延長5)に撰進された律令の施行細則「延喜式」で、古代の製紙事情が多く収められている貴重な文献であるが、この中に「中男作物(ちゅうなんさくもつ)として、紙を四十張」を納めたとの記録があり、産紙国、42か国のひとつに「石見」が上げられている。なお、「出雲」も同様に記載されている。

 

  • 中男作物…奈良・平安時代、中男の調の代りに課せられた現物納租税

 

しかし、寛政10年(1798年)に発刊された国東治兵衛著書の「紙漉重宝記」によると「慶雲・和銅(704年~715年)のころ柿本人麻呂が、石見の国の守護をしたときに民に紙漉きを教えた」と記されており、柿本人麻呂を石州の製紙の始祖とする人もいる。しかし、それ以前に石州紙があったことが知られており、人麻呂は製紙の発展・振興に尽くしたというのが真相に近いとされている。このように定かでないところがあるが、約1300年もの間、石見(石州)方では、手漉き和紙が漉き続き守られてきている。

石州和紙は原料に楮・三椏・雁皮の植物の靱皮繊維を使用し、補助材料としてネリに「トロロアオイ」の根の粘液を使い、竹簀や萱簀を桁にはさんで「流し漉き」により、つくられている。

生産の最も多い石州半紙(楮紙)は、元で栽培された良質の楮を使用して漉かれ、その色彩はほのかな薄茶色を帯びており、緻密で強靭で光沢のある和紙である。江戸時代の浜田、津和野両藩は徹底した紙専売制を行い、石見紙のうちとくに石州半紙の名は広く知られた。かつては大坂商人が石州半紙を帳簿(大福帳)に使い、火災の時にいち早く井戸に投げ込んで保存を図ったといわれが、それほどその強靭な品質には信頼がおかれている証として語られている。なお、石州半紙の特色については、下石州半紙参照。

石見方に盛んであった和紙づくりも、現在は三隅町あたりを中心にわずかに残る程度となった。しかし、先人たちから引き継がれた技術・技法を守ることにより、石州半紙技術者会(会長久保田保一・会員7名)が製造している「石州半紙」は昭和44(1969)年に国の重要無形文化財の指定を受けている。

また、重要無形文化財の「石州半紙」を代表とする石州和紙の技術・技法は、三隅町を中心に住む職人の手で一貫して保持されており、総合的振興を図るために石州和紙協同組合を設立し、その「石州和紙」が平成元(1989)年には経済産業大臣指定の「伝統的工芸品」の指定を受けた。

 

参考資料

  • 石州和紙久保田 ホームページ「石州和紙」
  • 和紙の手帖Ⅱ 石州和紙(久保田 彰執筆)全国手すき和紙連合会1996年発行
  • 和紙文化辞典 久米康生著 1995年10月 わがみ堂発行

 

石州半紙

世界大百科事典(第2版 CD-ROM版)…日立デジタル平凡社から

島根県那賀郡三隅町ですかれている強靭な楮紙。島根県西部(旧,石見国。別称石州)の石見紙の起源については,柿本人麻呂が始めたという伝説があるが,確かなものではない。奈良時代の《正倉院文書》には隣の出雲国は主要な産紙国として名が現れるが,石見国はみえないので,発展はやや遅れたかもしれないが,平安時代の《延喜式》では主要な産紙国に発展している。中世の石見国を二分していた吉見氏と益田氏のそれぞれの領で製紙が行われ,その紙が中央に流通していた。江戸時代の津和野,浜田両藩は徹底した紙専売制を行い,石見紙のうちとくに石州半紙の名は広く知られた。もっとも《紙譜》(1777)によると,半紙以外に石見宇陀(うだ)とよぶ楮厚紙や中折(なかおれ),小半紙,板紙(はんがみ)なども中央市場に登場している。元禄時代には石州半紙の特色のある性質や規格寸法も定まり,生産も飛躍した。国東治兵衛(くにさきじへえ)の《紙漉重宝記(かみすきちようほうき)》(1798)は石州半紙の製法を図入りで懇切に解説した名著として内外に名高い。明治以後も紙すき農家が鹿足,美濃,那賀の3郡の山間に広く分散して,生産が続けられた。最盛期とみられる1894年で6377戸が数えられている。

石州半紙の特色は元の優秀な石州コウゾを使うことにある。石州コウゾの繊維は細くて長く,光沢があり,結束が生じにくい。そのコウゾの表皮の黒皮を削る際に,全部白皮にするのではなく,緑色の甘皮部分を大量に残す〈なぜ皮作業〉を行う。この甘皮部分に含まれている短繊維等が長繊維のからみ合いのすき間を充てんすることによって,強靭な紙力,やや黒いが光沢のある平滑な紙肌,緊締度の大きな強い紙の腰,にじみに対する抵抗性などの特色が生まれる。全国の和紙の耐折度などの紙力を調査するたびに,石州半紙はつねに高位を占め,日本で最も強靭な紙の一つといえる。現在,表具用紙,下張紙,書画用紙など幅広く細分化された用途をもつ。水の浸透性の低さが書道半紙としてつきに一つの特徴を与えている。三隅町大字古市場を中心として石州半紙技術者会が結成されている。1969年に重要無形文化財に総合指定され,石州半紙技術者会が保持団体に認定された。 柳橋 真 (c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.

 

津和野

 

益田駅でJR山口線に入り14時26分に津和野に到着。まだ日も明るいので散策と和紙関係を見ることにした。津和野は、「山陰の小京都」とも呼ばれる旧城下町で、「史跡と鯉の町 津和野」といわれるように景勝や史跡が多い[津和野の公式ホームページ■■ 島根県 津和野町 ■■参照]。

 

駅を出て右手を行く。きょうは土曜日であるが時間が早いせいかまだ人で混んでいない。側溝の清流に鯉が泳ぐ中心街の殿町を通り、津和野大橋の上から津和野川に泳ぐ沢山の鯉を観て、鷺舞の像のところで記念撮影をする。

(津和野の堀割と鯉) (鷺の舞) (太鼓谷稲成神社の鳥居)

 

さらに鮮やかな朱色の鳥居が建ち並んでいる長いトンネル(参道)を通り、太鼓谷稲成(たいこだにいなり)神社(日本五大稲荷の一つ)を参拝。しばらくそこから津和野を見渡す。まさに「絶景かな」である。下山し津和野民芸館を見る。

(写真 津和野川の遠くに煙をなびかせる汽車と日本三大の大鳥居が見える(太鼓谷から) )

 

津和野伝統工芸舎

次に津和野伝統工芸舎に入る。現在、周辺で取れる原料を使い、手漉きをしているのは津和野でここだけという。手漉き和紙や和紙人形などさまざまな和紙工芸品を売っている店で、紙漉き体験もできる。早速、娘とともに紙漉きを申し込み、指導を受けて漉く。

 

 

 

参照

  • 津和野伝統工芸舎(島根県鹿足郡津和野町城山下)
  • ホームタウン・ホームページ - 津和野町 この町この人…4代目 青木隆稲さん

(写真)指導を受けた漉き人…5代目?

 

津和野の石州和紙は、津和野周辺に自生する楮、三椏(ミツマタ)などを原料にした和紙で、未晒し(未漂白)の素朴な肌色が特徴である。

津和野は江戸時代の1617年(元和 3)亀井氏が入府し、この後亀井氏12代の城下町となった。亀井氏 2代目の津和野藩主茲政(これまさ)による殖産で、1646年(正保3)に楮の栽培を奨励し、紙の技術習得のために農民を飛騨(岐阜県)に派遣した。1658年(万治1)には紙の専売制を実施し、また1696年(元禄9)に年貢米代わりに和紙を収めてよいという御触書を出し、農民に紙の生産量割り当てなどを行なった。このように石見半紙(石州半紙)を特産とする紙業が農閑期の産業として栄え、長く藩の財政を潤した。

しかし、現在はかつての面影はない。観光客相手に和紙手漉きの実演をしたり、便箋、はがき、栞(しおり)、和紙人形などのさまざまな民芸和紙として販売しており、周辺で取れる原料を使い、手漉きをしているのは前記のように津和野伝統工芸舎のみとのことである。

 

伝統石州和紙会館(石州館)

伝統工芸舎を出てしばらく歩き、森鴎外(津和野出身の文豪)の旧居を見て、伝統石州和紙会館(石州館)に行く。ここには紙漉き場があり、職人が実演をしている。その声に連れられて隣の土産売り場に入り、和紙関係の買物をする。

外に出ると日も沈みかけ薄暗くなっていた。歩いている人も多くなっている。来た道を駅のほうに歩く。津和野大橋や町の中心である殿町の鯉のいる堀割付近は観光の人達で溢れていた。さすがは人気の高い津和野である。明日は日曜日であり、連休の最中である。気もよい。これからまだまだ人が増えるだろう。

今晩の泊まりは駅の近くの旅館吉野屋である。人混みを抜け宿につく。

 

伝統ある津和野の石州和紙は今後どうなるであろうか。三隅町には、元に石州半紙(国の重要無形文化財)の石州半紙技術者会や石州和紙(国の伝統的工芸品)の石州和紙協同組合があり、こちらのほうは大丈夫だと思うが、津和野は心配になる。

「観光の町 津和野」として和紙もともに生き延びてほしいものである。伝統ある和紙の影が少し薄く、元気がないように思える。前述の「津和野の公式ホームページ」■■ 島根県 津和野町 ■■にも和紙の紹介・PRをし、津和野のキャッチフレーズも「史跡と鯉の町 津和野」から「伝統と鯉の町 津和野」の意味合いで、いつまでも元気よくと願うものである。

 

今回で8日間の和紙めぐりは終わろうとしている。美濃和紙から始まった紙郷めぐり。数ある和紙の産のうち5ヵ所であったが、代表的なところであり大いに勉強になったし、ますます和紙への愛着が増してきた。これからも伝統的な和紙へ応援歌を謳って行きたい。

明日は益田市で途中下車し、雪舟庭園のある医光寺や万福寺などに行き、その後、米子に戻る。

(2002年6月1日まとめ)

 

参照ウェブ

  • 石州和紙 久保田「石州和紙」
  • 石州和紙

資料

 


更新日時:(吉田印刷所)

公開日時:(吉田印刷所)