コラム(29-2) 聖徳太子と紙 2

聖徳太子と紙

その聖徳太子ですが、よくご存知のように、時代は飛鳥時代の西暦574年生れで、622年に逝去、享年49歳。用明皇の皇子で、母は穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后。本名は厩戸(うまやど)皇子と言います。

推古皇の即位とともに推古元年(593年)4月、20歳のときに皇太子となり、摂政として日本古代国家成立期の政治の基礎作りを行いました。また、内外の学問に通じ、深く仏教に帰依し、仏教興隆に力を尽し、多くの寺院を建立しましたが、これらの斬新な政策は大陸文化(中国)の吸収に努め、文物・制度の影響を強く受けたものでした。

主なものを挙げますと、603年(推古皇11年)に冠位十二階を制定、さらに604年憲法十七条(十七条の憲法)(第一条、和を以て貴しとなす)を制定して、607年には小野妹子を遣隋使として派遣しました。

憲法十七条の第2条に「篤く三宝を敬へ。三宝とは仏・法・僧なり」とあるように、仏典を講説して法華・維摩・勝鬘3経のいわゆる「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」(611~615年)を著したり、四王・法隆・中宮・橘・広隆・法起・妙安の7寺を興したと伝えられています。

このように数多くの業績が知られていますが、紙作りについても聖徳太子の功績として伝えられています。

 

紙は中国の四大発明(火薬・羅針盤・印刷術)の一つであり、紀元前の前漢時代の遺跡から麻の繊維で作られた紙状の物が発見されました。現在知られている中国で出土した最古の紙は、1986年水市の古墳で出土した「放馬灘紙(ほうばたんし)」(長さ5.6cm、幅2.6cmの小さな紙片)と呼ばれている麻紙で、今からおよそ2200年前の紀元前2世紀ころ(紀元前180~141年)の前漢時代のものと推定されています。これが紙の始まりですが、蔡倫(さいりん)より200年あまり古いことです。ただ、このころの紙は織物に近く、文字や絵を書くにはあまり適さなく、銅鏡などのものを包むために使われていたと考えられています。これを今に通じる紙のように改良したのが中国の蔡倫です。

蔡倫は、紀元2世紀の初め(西暦105年)の中国・後漢時代に紙作り技術の改良を行い、今日の製紙技術の基礎を確立しました。これにより紙の改良者ないし製紙の普及者は蔡倫とされています。

蔡倫の作った紙は「蔡侯紙」と呼ばれ、原料として樹皮、麻、ぼろ布などを用い、これらを石臼で砕き、それに陶土や滑石粉などを混ぜて水の中に入れ簀の上で漉く方法を採りましたが、このやり方は原理的には今日の紙漉き法、植物繊維を細かく砕き、それを水に分散させて漉いて、平らなシートをつくりだすという製造の原理[①皮を剥く(剥皮) ②煮る(蒸解) ③叩く(叩解) ④抄く(抄紙) ⑤乾かす(乾燥)]とほとんど変わりがありません。

この中国の製紙技術は、8世紀に今日でいう、いわゆる「シルクロード(絹の道)」を通って西進し、中央アジアを経て10~16世紀にわたってヨーロッパ諸国に、17世紀にはアメリカに、19世紀初頭にはカナダに紹介されました。さらに欧米の紙はわが国にも伝播し、わが国で最初に創立・開業したのが明治5(1872)年、洋紙が初めて生産されたのが2年後の明治7(1874)年ことです。そしてその後、洋紙として大きく発展していきます。

一方、中国の紙漉きの技術が東進し、わが国に伝えられたのは、朝鮮・高句麗から僧侶曇徴(どんちょう)と法定(ほうじょう)が来朝した推古皇の18年(西暦610年)であると日本書紀に記録されています。

それによりますと、「推古皇の18年の春三月、高麗王(こまのきみ)、僧曇徴、法定を貢上る。曇徴五経を知り、且た能く彩色および紙を造り、并せて碾磑(てんがい)を造る。蓋し碾磑を造るは是の時に始まるか」とあります。すなわち、推古皇の18年の春三月に、高麗の王が曇徴と法定という二人の僧を遣わし、曇徴は儒教、仏教に通じている上に、絵の具や、紙やの製法も心得ており、石臼はこの時に初めて造ったというものです。(注)彩色…絵の具。碾磑…石をころがして穀物などをすりつぶす臼、石臼。

このことは7世紀初頭のことですが、わが国へ伝来した製紙の始まりとして記録上、残されている初めてのものです。この中で曇徴が碾磑(石臼)は、この時に初めて造ったと書かれていますが、紙を初めて造ったとは書かれていなく、紙そのものはそれ以前からわが国に伝わっていて、すでに造られていたと考えられています。

すなわち、西暦3世紀代には当時北九州にあった倭奴国と、中国(漢代)との間に国書が往復し、使節が往来していますから、当然漢字も伝来し、中国産の紙も舶来していると考えられ、その頃に日本人は「紙」という漢字と、そのものを知っていたものと思われています。

また「日本書紀」によれば、「応神皇15年(西暦405年)頃に百済王が阿直岐をつかわしてよい馬二匹を奉った。阿直岐はよく経典を読み、太子莵道雅郎子の師となった」とあります。読んだとされる「経典」が紙に書かれたものか、竹簡または木簡かは不明ですが、これがわが国における書物の初伝とされております。

さらに「翌16年、百済王が王仁をつかわして論語10巻・千字文1巻を献上」とありますが、この「書巻」も紙であったか、竹簡または木簡かは不明ですが、紙であろうとの説が有力であり、わが国における紙の初伝とされております。

このように、不詳の部分がありますが、中国で発明、改良された紙は朝鮮半島を経由して、わが国に西暦3~5世紀頃には、すでに渡来人によって、いろいろな文化とともに伝えられていたものと考えられております。

 

ここで国産化初期の紙が、「どのような状況であったか」を知るために、ホームページ「ふすま&内装考房EBS TOP Page、和紙の歴史 http://www.e-ebisu.com/history-washi.htm」から、下記のように引用させていただきました。

「国産化初期の紙として最も古くから漉かれた紙は、中国の紙を模範にした麻紙で、原料は大麻や苧麻の繊維や、麻布のボロや古漁網などから漉かれました。麻は繊維が強靱なので、多くは麻布を細かく刻み、煮熟するか織布を臼で擦りつぶしてから漉きましたが、漉きあがった麻紙は、表面が粗いので紙を槌で打ったり(紙砧)、石塊、巻貝、動物の牙などで磨いたりして表面を平滑にしました。次いで空隙を埋めるために、石膏、石灰、陶土などの鉱物性白色粉末を塗布し、さらにのにじみ(遊水現象)を防ぐため、澱粉の粉を塗布するなどの加工を行いました。

しかし、麻は取り扱いが難しいために、次第に楮に取って代わられ、一時期は消滅してしまいました。楮は麻と同様に繊維が強靱で、しかも取り扱いが易しいので、増産に適した楮を原料とした穀紙次第に普及していきました。なお、穀は梶の木のことで、楮の木とも書き、楮と同属の桑科の落葉喬木で、若い枝の樹皮繊維を利用しますが、抄造は麻紙と同様に煮熟して漉きます。繊維が長くて丈夫な紙となり、写経用紙や官庁の記録用紙として、染色されずにそのまま用いられました。紙のきめや肌がやや荒いが、丈夫で破れにくく、衣食住のさまざまな分野に応用されて使用されるようになりました」

 

そして聖徳太子の時代になるのですが、聖徳太子が摂政のころの610年(推古皇18年)に曇徴が来朝して、中国の紙の製法を伝えました。わが国に伝わった紙は、弱くて裂け易いばかりか、虫食いが目立ち保存に耐えがたい上に、わが国の場合、清浄を尊ぶ気風からボロ布(麻)を原料とする「蔡侯紙」よりは、以前から織物などに使っていた楮などの靭皮繊維を使って作った「紙」のほうが好まれました。

紙は、初め一般の公文書や膨大な量が必要な戸籍や租税に関する文書用に用いられましたが、摂政であった聖徳太子が仏教を広め、写経を重要な国家事業としたため、国家鎮護を祈る写経が盛んになり、経紙(きょうし、写経のために用いる紙)など高な紙の需要が増えていきました。

大量の紙が必要となったため、聖徳太子は筆、とともに、紙作りの保護育成の政策を熱心に推進し、わが国在来の楮の栽培と製紙、および紙の普及を奨励したといわれます。そして次第に紙の生産は中央ばかりでなく方でも行われるようになり、日本各に紙漉きが広がりましたが、これがさらに紙の普及と製紙技術の向上に拍車をかけることになりました。

また、聖徳太子自らも楮の皮の繊維を用いた雲紙、縮印紙、白柔紙および俗薄紙の4種の楮紙を造ったとされています。こうして丈夫で美しい日本の紙が誕生していくこととなりますが、これがわが国の製紙業の始まりであり、聖徳太子がわが国の製紙の基礎を築いたとされています。

このように紙作りの功績のために聖徳太子をわが国の「紙祖」として祭ってあるところもあり、「和紙づくりの祖」とか、「紙の神様」とも言われています。しかし、これらのことは聖徳太子の死後高まった太子信仰からきている神秘化された伝説として事実でないとする説もあります。

なお、聖徳太子の自筆で615年に成立したといわれる「法華義疏」4巻(宮内庁蔵)の草稿本がありますが、これに使われている紙は、わが国で現存する最も古い紙で、年代の明らかな最初の紙といわれています。しかし、この紙は中国からの移入紙なのか国産紙なのかは不明です。また、この巻物は、また日本最古の本としても知られています。

ところで、わが国で好まれた楮紙はさらに改良され、楮、雁皮、三椏などの靭皮繊維を原料にして、「ネリ」「流し漉き」を特長とするとする紙の誕生となり、日本独自の紙(後で言う「和紙」)として開化していくことになります。

紙の知識(4) 紙の歴史および和紙の知識(2) 和紙の歴史をご参照ください←それぞれクリックをどうぞ。

 

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更新日時:(吉田印刷所)

公開日時:(吉田印刷所)