和紙の知識(2) 和紙の歴史 和紙はいつ頃から造られましたか

(1)わが国への紙の伝来

紙の発明は中国です。しかし、和紙ではありません。

およそ2200年前の紀元前1~2世紀の前漢時代の遺跡から麻の繊維で作られた紙状の物が発見されましたが、これが紙が始まりです。その後、紀元2世紀の初め(西暦105年)の後漢時代に、[従来、通説で紙の発明者とされてきました]蔡倫(さいりん)という人が樹皮、麻、ぼろ布などを原料として技術の改良を行い、紙を造り製紙の普及を広めたというものです。

中国の紙漉きの技術が、わが国に伝えられたのは、朝鮮・高句麗から僧侶曇徴(どんちょう)と法定(ほうじょう)が来朝した推古皇の18年(西暦でいいますと610年)であると日本書紀に記録されています。

それによりますと、「推古皇の18年の春三月、高麗王(こまのきみ)、僧曇徴、法定を貢上る。曇徴五経を知り、且た能く彩色および紙を造り、并せて碾磑(てんがい)を造る。蓋し碾磑を造るは是の時に始まるか」とあります。すなわち、推古皇の18年(西暦610年)の春三月に、高麗の王が曇徴と法定という二人の僧を遣わし、曇徴は儒教、仏教に通じている上に、絵の具や、紙やの製法も心得ており、水臼もつくったというものです。

 

(注)FAQ (1)「紙」という漢字の語源はなんですか、また、テーマ「紙」の紙の歴史(本文)および表「紙の歴史」をご参照ください。

 

7世紀初頭、これがわが国へ伝来した製紙の始まりとして記録上、残されている初めてのものですが、この中に曇徴がはじめて紙をつくったとは書かれていなく、紙そのものはそれ以前からわが国に伝わっていたとされております。

 

すなわち、西暦3世紀代には当時北九州にあった倭奴国と、中国(漢代)との間に国書が往復し、使節が往来していますから、当然漢字も伝来し、中国産の紙も舶来していると考えられ、その頃に日本人は「紙」という漢字と、そのものを知っていたものと思われます。そこで中国で発明、改良された紙は朝鮮半島を経由して、わが国には西暦3~4世紀頃には、すでに渡来人によっていろいろな文化とともにもたされていたのではないかと考えられております。

 

また、「日本書紀」によれば、「応神皇15年(西暦405年)頃に百済王が阿直岐をつかわしてよい馬二匹を奉った。阿直岐はよく経典を読み、太子莵道雅郎子の師となった」とあります。読んだとされる「経典」が紙に書かれたものか、竹簡または木簡かは不明ですが、これがわが国における書物の初伝とされております。さらに「翌16年、百済王が王仁をつかわして論語10巻・千字文1巻を献上」とありますが、この「書巻」も紙であったか、竹簡または木簡かは不明ですが紙であろうとの説が有力であり、わが国における紙の初伝とされております。

このように、不詳の部分がありますが、中国の紙は朝鮮半島を経由して、わが国に西暦3~4世紀頃には、すでに伝えられていたものと考えられております。

 

(2)和紙の誕生

わが国に伝わった曇徴の造った紙は、弱くて裂け易いのみでなく、虫が好んでこれを食い長い保存に耐えないことや、わが国の場合、清浄を尊ぶ気風からボロ布(麻)を原料とする「蔡侯紙」よりは、以前から織物に使っていた楮などの靭皮繊維を使って作った「紙」のほうが好まれました。

そこで、飛鳥時代に聖徳太子が紙作りの保護育成の政策を強力に推進し、わが国在来の楮の栽培と製紙を奨励した結果、楮の皮の繊維を用い雲紙、縮印紙、白柔紙および俗薄紙の4種の楮紙が多く製造されるようになりました。これが製紙業の始まりであり、わが国の製紙の基礎を築いたわけです。

 

このため聖徳太子を「和紙づくりの祖」とする説がありますが、太子信仰からきている神秘化された伝説として、これらのことは事実でないとする説もあります。

 

ところで、この紙がさらに改良され、麻や楮、雁皮などの靭皮繊維を原料とする紙の誕生となり、日本独自の紙(後で言う「和紙」)として開化していくことになります。

紙は、初め一般の公文書や膨大な量が必要な戸籍や租税に関する文書用に用いられましたが、国家鎮護を祈る写経事業が盛んになるにつれ、経紙など高な紙の需要が増えてきました。さらに中央ばかりでなく方でも紙の生産が行われるようになり、これは紙の普及と製紙技術の向上に拍車をかけることになりました。

 

ところで、わが国で漉かれ、年代の明らかな最古の紙は、正倉院に伝わる702年(大宝2年)の美濃、筑前、豊前の戸籍用紙です。また、正倉院に保管された奈良時代の文書には、紙名や和紙名が数多く記されており、当時でも約20の区で紙漉きが行われていたことがわかります。なお、770年に完成された「百万塔陀羅尼」(麻紙)は、現存するわが国最古の印刷物です。

 

また、奈良時代には官立の造紙所が図書寮という役所に付属して設けられ、専門の技術者が製紙に専念しました。『正倉院文書』に詳しく書かれておりますが、その中に記入されている紙の名前は、主として原料によって名付けられたものが多くあります。

麻紙・黄麻紙・白麻紙・緑麻紙・常麻紙・短麻紙・白短麻紙・穀紙・縹紙・加紙・加遅紙・梶紙・檀紙・眞弓紙・長檀紙・斐紙・肥紙・荒肥紙・竹幕紙・楡紙・朽布紙・布紙・白布紙・本古紙・藁葉紙・波和良紙・杜中紙・松紙など、麻を原料としものや、楮、斐、竹、楡、藁のほか、布や使用済みの紙などを原料としたものなどがあったことがわかります。

 

主要な製紙原料は、麻や楮(当時は穀(こく))、雁皮(斐(ひ))ですが、最も古い麻紙は、繊維が長くて強靭ですが、紙の肌理(きめ)は粗く、筆で書きにくく、また、原料処理に難しさがあるなどのために、平安時代半ばころにはその製法が廃れてしまいました。一方、楮や雁皮は、繊維の長さが適当で、紙は肌理細やかなために長く使われてきております。

 

さらに、平安時代に入ると927年(醍醐皇の延長5年)に『延喜式』が制定され、製紙作業の大綱が定められ、産紙国(製紙)は42か国に及んでいる記録が残されておりますが、わが国の隅ずみまで紙漉きの製法が伝わったことを示していることがわかります。

 

伊賀・伊勢・尾張・三河・駿河・甲斐・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・近江・美濃・信濃・上野・下野・若狭・越前・加賀・越中・越後・丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・出雲・石見・播磨・美作・備後・安芸・周防・長門・阿波・讃岐・伊予・土佐・日向・大隅・薩摩

 

今日、全国にまたがる和紙の産の多くは、このころにさかのぼることができます。

 

こうして育っていった日本古来の紙は、明治の初めに欧米から到来した「洋紙(西洋紙)」の呼称に対応して「和紙」と呼ぶようになりました。

ところで、中国の紙がシルクロードを通って欧米に伝わり、長い年月の間にその姿を変えて洋紙となりましたが、わが国に洋紙技術が伝わり、洋紙生産が初めて行われたのはさらに遅く、19世紀後半の1874(明治7)年のことです。

やはり元は同じ中国の紙で、伝播し日本で改良され生まれ育った和紙は、この洋紙と出会うこととなりますが、洋紙はわが国でも次第に発展、定着していきます。そして拡大する紙の消費とともに、1912(明治45)年には、洋紙の生産と消費が和紙と肩をならべ、それ以降、和紙を追い越し洋紙の時代となっていきます。

 

一方、わが国で生まれ、育まれた「和紙」は、逆境を乗り越え、和紙の持つよさを生かして、今日、それぞれの紙漉き場で生きる道を探り、一条の光明、明るさを見出そうと強い意欲が感じられます。

長い歴史をもつ和紙、長く引き継がれてきた和紙、これからも永く生き延びてほしい和紙、「魅力ある和紙」を目指して、頑張ってほしいものです。

 

参照ウェブ

 


更新日時:(吉田印刷所)

公開日時:(吉田印刷所)