私が中学生のころ「紙の発明者は蔡倫(さいりん)」であると習いました。しかし、この定説が見直されて、今では「蔡倫は偉大な製紙の改良者」とされています。今回はこのあたりのことを整理し、まとめてみました。
紙の発明は蔡倫?
まず最初に、ものなどの起源が変わりえる例として稲作について述べます。
稲作の起源は、中国で、わが国へも中国より伝播しましたが、最近中国でその年代がさらにさかのぼる栽培稲のもみ殻が発見されました。
今年の1月22日に中国の国営新華社通信によれば、これまで稲作の起源は、長江(揚子江)中流域の遺跡から見つかった約8000年前の栽培稲が最古とされていたが、最近、長江下流の浙江省浦江の上山遺跡から約1万年前の栽培稲のもみ殻が見つかり、稲作の起源はさらに2000年さかのぼることになる、と伝えました(共同通信社)。
それから一週間ほど後の28日に、今度は長江(揚子江)中流域の玉蟾岩(ユイチャンイエン)遺跡(湖南省道県)から出土した米粒が、1万2000年前の栽培稲だったことが明らかになり、この発見で、稲作の起源はさらにさかのぼる可能性も出てきた、と国営新華社通信が伝えております。そして「これまで見つかった中では世界最古の栽培米で、長江中流域では、1万年以上も前にすでに稲作が存在していた証拠だ」としています。
このように、遺跡などからの新たな出土から、そのものの起源がさらにさかのぼるケースがあります。
「紙」についてもそうです。
紙は中国で発明されました。中国の4大発明(火薬、羅針盤、印刷術、紙)のひとつです。そして長い間、紙の起源は中国・後漢時代(紀元25年~220年)の西暦105年で、その発明者は蔡倫(さいりん)とされてきました。
その例えを述べますと、昭和30(1955)年ころ、私の中学生時代に高校受験のためなどで「紙の発明者は蔡倫」であると、憶えたものです。
確かに、昭和33(1958)年12月、丸善株式会社発行の成田潔英編「最新紙業提要」(新版)には、「紙は火薬、磁石とともに中国が誇る偉大な発明の一つである。この紙は西暦105年いわゆるわが国建国以前、後漢和帝の元興元年に、ときの宮中用度係長官の蔡倫によって発明されたと称えられている。(中略)。蔡倫が発明した紙は樹皮、アサ、ボロ布、漁網などを原料とし、(以下省略)」と載っており、蔡倫が紙を発明したとなっています。
それからもうひとつ、マイケル・H・ハート著、松原俊二訳『歴史を創った100人』(1980年8月1日初版発行、1990年10月1日増訂版発行、開発社)でも「紙の発明者、蔡倫という人…」とあります。
このように「蔡倫が紙を発明し、その年代は西暦105年」であると発端となった典拠は「後漢書」です。すなわち中国の史書で、宋の笵曄(はんよう)が編集し、西暦432年(元嘉9)に完成した「後漢書」の蔡倫伝の中に、「自古書契多編以竹簡、其用縑帛者、謂胃之為紙、縑貴簡重、並不便於人、倫乃造意用樹膚麻頭及敝布魚網以為紙、元興元年奏上之帝善其能、自是莫不従用焉故天下咸稱蔡侯紙」(抜粋)と記載されております。
これを訳しますと、「古くから書物の多くは、竹簡を以て編み、絹布(縑帛(けんはく))を用い、これを紙といったが、絹は貴く高価で簡は重くて、ともに不便であった。そこで倫(蔡倫)は創意工夫をし、樹膚(じゅふ、樹の皮)、麻頭(まとう、大麻の上枝、麻の切れ端)、敝布(へいふ、麻織物のぼろ)、魚網を使って紙をつくり、元興元年にこれを皇帝に奉った。帝はその才能(働き)を褒めた。これ以後、この紙が多く用いられたので、人々はみな蔡候紙として誉め称えた」というものです。
この有力な歴史書の記述でもって、蔡倫が紙の発明者とされてきたわけです。
注
- 文中、縑とあるのは、「けん」といい、絹のこと。また帛(はく)は絹布のこと。
- 元興元年は西暦105年に相当。
- 蔡倫が造った紙を「蔡侯紙」というのは、後の安帝のときに竜亭侯(陝西省洋県の東)に封ぜられたことから、この名が付けられました。
蔡倫以前の紙
しかし、絹布(縑い帛)を原料にしたものを「紙」といった、と上記「後漢書」蔡倫伝にあるように、蔡倫以前にも「紙」という漢字がありました。
「紙」という漢字は、紙発祥の地である中国で生まれました。すなわち、「紙」という漢字の成立ちは、蔡倫が紙を皇帝に献上する以前の西暦100年に刊行された「説文解字」(せつもんかいじ)に見られます。なお、説文解字は許慎<きょしん>(西暦30~124年)の編集で、中国最古の辞書(字書)といわれています。
その解説によりますと、「紙 絮一苫也」(紙は絮の一苫なり)とありますが、ここで絮(じょ)とは、「蔽緜(へいけん)なり」とあって屑繭(くずまゆ、古真綿(きぬわた)、屑繭から作った真綿のぼろ綿)のことで、苫(せん)は簀(す)の子、簾(すだれ)のことですので、これより「紙とは、きぬわたの懸濁液を簀の子で一すくいし、漉きとり、簀の上に残った繊維の薄層を乾かしてできたもの」ということになります。
さらに「紙」という字を分解すれば、紙という字の偏の「糸」は、蚕糸を撚り合わせた形により、糸を示す象形文字であり、旁(つくり)の音符(漢字の字音を示す部分)「氏」は、匙(さじ)の形を描く象形文字で滑らかなこと表します。すなわち、糸+氏=紙となり、紙は蚕糸を匙のように薄く平らに漉いた、かつ柔らかいものをいいます。
注
「紙(し)は砥(し)なり、その平滑なること砥石(といし)のごとし」(「釈名」劉煕(りゅうき)著)というのもあります。
当時の紙の製造法が、屑絹糸を平面に漉いて、滑らかにしたことから、その物質の表記に「紙」の字を当て、「紙」の字が成立したわけです。
ところで、ご存知のように絹は蚕(かいこ)の繭(まゆ)からとった動物繊維です。これを叩き、水の中に入れてから簀の子で汲み上げれば、簀の上に層をなして残り、そのものを乾かせば、紙状のシートができます。しかし、絹には、植物の繊維を原料にした(一般にある)紙のように、セルロースがありませんので、繊維と繊維の間を結び付ける水素結合が生じなく、繊維同士の結びつきがきわめて弱くて、もろく、ひっぱればすぐに切れてしまうなど、実用性のある紙にはなりません。そのため絹を原料にした当時の紙は、高価な上に、弱く、もろいものだったと思われます。
なお、この絮を上記のように、「きぬわた」「まわた」とする説が多いのですが、後述のように、近年、中国・前漢時代の遺跡から出土した紙の原料がすべて麻類の繊維であることから、『説文解字』の中の「絡」の項目に解説しているように、麻のまだ水に漬けないものを絮であるとしており、絮を絹絮でなく、麻絮、すなわち麻のふるわたと解すれば、前漢の紙の原料が麻布のぼろであったことと符合することになります。そうすると『説文解字』は紙について、麻のふるわたを簀の子ですくい漉したもの、との意味となる、との説もあります。
このように蔡倫に先立つ「紙」について、これ以外にも中国にいくつかの記録があるようですが、絹以外に、その原料ははっきりしていないようです。
紙の語源ですが、紙でないパピルス
ところで、紙の語源でありながら紙に分類されないものがあります。それは紀元前3000~2500年ころの古代エジプト時代に書写材料に用いられたパピルス(papyrus)ですが、欧米で「紙」の語源(英語:paper、フランス語:papier…など)であることはよく知られているところです。しかし、紙ではありません。
何故ならば、それはその製造法にあります。紙の定義ば、「植物繊維その他の繊維をきわめて細かくして水に分散させ、それを漉して、網や簀の上に均一な(薄い)層、いわゆるシート状を形成するように流出させ、からみ合わせて、さらに脱水したのちに、乾燥したもの」です。一方、パピルス紙は、パピルスという草の茎の外皮をはぎ、芯を長い薄片として縦・横直角に重ね合わせて並べて水をかけ、重しをかけて強く圧搾、表面を石・象牙等で擦って平滑にして天日乾燥し、シート状にしたものです。
このようにパピルス紙は、紙の特徴である繊維を「水に分散」させ、それを「漉す」という工程を経ていないため、紙そのものとはいえません。このためパピルス紙は情報記録媒体として用いられていたにもかかわらず、紙として分類されないわけです。