紙はなぜ生まれたのでしょうか?
今回のテーマは「紙なぜ生まれたのでしょうか」です。
紙の誕生
人から人へと、人間の誕生があるように紙にもその初めがあります。それでは紙の誕生は、どこで、いつごろ生まれ、何に使われたのでしょうか。その歴史をみていきます。
「紙」、その歴史は古く、中国の前漢時代(紀元前2世紀)に発明され、誕生しました。
紙は中国の四大発明(火薬・羅針盤・印刷術)の一つであり、長い間、「後漢時代の元興元年(西暦105年)に蔡倫(さいりん)が発明した」とされていましたが、実はそれよりもおよそ2000年以上も前に、同じ中国で作られていたことが判りました。
近年(1933年~)、遺跡の発掘によって前漢時代の紙が発見され、紀元前2世紀ごろにはすでに紙は存在していたという説が有力になり、紙は紀元2世紀初め(西暦105年)の後漢時代(紀元25年~220年)に蔡倫(さいりん)によって発明されたというそれまでの定説が覆されたわけです。
ところで紙には書くこと、包むことおよび吸い取ったり、拭ったりすることの三大機能があります。紙が誕生した当時の原料は麻(大麻、苧麻)ですが、それ以前に、ものを書く材料(書写材料)として、石、粘土などの他に動物の皮や骨、樹木の皮、木板、竹、布、絹などが使用されました。
これらのものは不便でした。例えば、石、粘土、木簡、竹間などは重たくて、かさばります。また絹はまれで高価です。
このような状況下で、かさばなくて、折りたたむこともでき、持ち運びが便利で、しかも比較的安く、情報量も多く盛り込むことができる紙が誕生したわけです。
こうした材料の中で、今日の紙に最も近いものは紀元前3000~2500年ころ、エジプトのナイル河畔に生育するパピルス草と呼ばれる葦に似た植物の繊維から作られ、「紙」(英語:Paper,ドイツ語:Papier…など)の語源となったパピルス(Papyrus)です。これはパピルス草の茎の外皮をはぎ、芯を長い薄片として平行に並べ、その上に直角・平行に薄片を重ね、水をかけ数時間圧搾、表面を石・象牙等で擦って、平滑にし天日乾燥したシート状で、いわゆる不織布の一種といえるもので、繊維分散液から絡み合わせるという現在の紙の作り方でないため、紙そのものではありませんでした。
それでは中国、前漢時代に誕生した紙についてもう少し説明します。
1957(昭和32)年、中国の西安市郊外の遺跡から銅剣、銅鏡、半両銭などとともに紀元前141年以前の紙が発見されました。この紙は発見された地名をとって覇橋紙(はきょうし)と名付けられましたが、紙の大きさは10cm四方ほどの小片です。まだ文字が書けるほどの紙ではなく、麻布と同じように銅鏡などの貴重品を包む包装用に使われていたと考えられています。
1979(昭和54)年に出土した馬圏湾紙(ばけんわんし)は、縦20cm、横32cmの完整な耳つきの紙葉です。
さらに、1986(昭和61)年に天水市放馬灘の前漢初期、文帝・景帝(B.C.180-141)のころのものと推定される墓の埋葬者の胸部に、長さ5.6cm、幅2.5cmの不規則な形の紙片が見つかり、それには地図を思わせる描線がありました。これが放馬灘紙(ほうばたんし)で、現存する世界最古の紙とされています。地図の描線のあることは、早くから記録用としても用いられたことを示しています。
このように当時の紙は、吸い取ったり、拭ったりすることははっきりしませんが、書いたりものを包んだりするために誕生したと考えられます。
その後の紙は
こうして中国で生まれた紙は、年月を経てさらに蔡倫が改良し、その後世界を駆け巡り、西洋紙となり、わが国では和紙と生まれ変わり文化発展の原動力となって、大きく発展していきます。
蛇足ながら、蔡倫について説明します。
蔡倫は桂陽(現在の湖南省来陽県)で生まれましたが、生没年不明、字は敬仲。明帝の末の西暦75(永平18)年に宦官(かんがん)として宮廷に仕えましたが、皇帝、和帝のときに出世して、中常侍(ちゅうじょうじ、宦官において高い官職)になり、さらに宮中の調度品を製作をつかさどる役所の長官(尚方令、しょうほうれい)に任ぜられました。
蔡倫は97年(永元9)、精巧で堅固な宝剣や宮中用度品をつくって模範とされたり、剛直な気質と意欲的な向学心で知られており、直言と博識で和帝を補佐しました。
このころの中国では、書写材料として絹や木簡、竹簡などが使われていましたが、蔡倫は和帝から「かさばらず費用のかからない書写材料」の研究を命じられたので、研究を重ねて、西暦105年、ついに紙の製法を確立し、実用性のある紙を完成させます。
蔡倫の作った紙は「蔡侯紙」と呼ばれますが、この蔡侯紙は、原料として樹皮、麻の切れ端やぼろ、魚網などの植物繊維を用い、これらを石臼で砕き、それに陶土や滑石粉などを混ぜて水の中に入れ簀の上で漉く方法が採られました。
なお、この紙漉き法は原理的には、今日の紙漉き法[①皮を剥く(調木) ②煮る(蒸解) ③叩く(叩解、こうかい) ④抄く(抄紙) ⑤乾かす(乾燥)]とほとんど変わりがありません。
この中国の製紙技術は、西暦8世紀に今日でいう、いわゆる「シルクロード(絹の道)」を通って西進し、中央アジアを経て10~16世紀にわたってヨーロッパ諸国に、17世紀にはアメリカに、19世紀初頭にはカナダに紹介され、洋紙として大きく発展していきます。
一方、蔡倫が改良した製紙技術は東進し、朝鮮を経てわが国に伝播しました。すなわち、朝鮮・高句麗から僧侶曇徴(どんちょう)が来朝し、中国の紙漉き技術をわが国に伝えました。ときに西暦610(推古天皇18)年のことです。
注
曇徴…西暦7世紀初めの朝鮮・高句麗の僧(生没年不詳)。日本書紀によれば、西暦610年3月に高句麗王から貢上されて僧法定(ほうじょう)とともに日本へ来朝。五経(儒教)に詳しく、彩色(現在の絵具)や紙墨を作り、また碾磑(てんがい、みずうす=水力を利用した臼。)も造ったといいます。これらの技術は広く文化の発展に貢献し、聖徳太子により斑鳩宮(法隆寺東院)に召され優遇されたといいます。
なお、詳細はホームページ「紙への道」コラム(30) 紙の起源と蔡倫 , コラム(31) わが国の紙のはじまり(1) , FAQ(1) 「紙」という漢字の語源はなんですか , 和紙の知識(2) 和紙の歴史 , 紙について(4)資料 表「紙の歴史」 もご参照ください←それぞれクリックしてご覧ください。
(2009年10月1日)