和紙紀行・夢の和紙めぐり(14) 因州和紙(鳥取県)(その3)佐治村

※佐治村は2013年現在、鳥取市に編入されています。

 

およそ1250年の伝統ある因州和紙は因幡紙(いなばのかみ)ともいわれ、鳥取県東部の旧国名、因幡国で生産される手漉き和紙の総称ですが、現在、因幡方の気高(けたか)郡青谷(あおや)町と八頭(やず)郡佐治(さじ)村の2か所に引き継がれています。今回は佐治村を中心にした因州和紙について触れます。

 

佐治村ってどんなとこ

山陰の秘境、因州和紙の里、佐治村。今年発信の佐治村の国民文化祭ホームページに「全国で一番人口の少ない県は何県でしょう?それは鳥取県です。その中で一番人口の少ない自治体はどこでしょう?それは佐治村です」と紹介されている。そして「恵まれた自然の中で816世帯、2,835人のむらびとが心豊かに、元気に暮らしています」とある。県内34ある市町村の中で、佐治村は一番人口が少ない自治体である。しかも最近の人口推移をみると、3,450人(1992年)、3,127人(1995年)、そしてホームページにある2,835人と減少傾向にある。

 

佐治村は鳥取県の東南部、八頭郡西端にある山村で岡山県と県境となる中国山にある。鳥取市からは、この中国山に源を発し鳥取平野を南北に貫流し、日本海に注ぐ因幡の「母なる川」、千代(せんだい)川沿いに通る国道53号線を南下し、「流し雛」で知られる用瀬(もちがせ)町を右折する。すると千代川の支流である佐治川が中国山をぬって流れるが、それに沿って走る国道482号線を行くと、やがて佐治村である。鳥取市から約25km、バスでおよそ60分のところである。

 

参照ウェブ

  • 佐治村へのアクセスhttp--www.vill.saji.tottori.jp-kankoh-framepage.htm

 

佐治の「五し」

佐治村は、中心を流れる佐治川に沿って両側から山が迫る東西に細長く伸びた谷間に在り、川沿いと両岸の高台に27の集落が点在する。谷間のあるこの形から俗に佐治谷七里ともいわれている。村の面積の9割近くが山林と典型的な山村で、農業が中心である。

国道は、さらに辰巳峠を超えて岡山県に入り、国道179号線に連絡する。峠が開通する1988(昭和63)年10月までは行き止まりで佐治村は山奥の秘境であった。

佐治村は、古くから因州和紙の産として知られるが、果樹、特に二十世紀梨の生産も多く、また、佐治川中流域では、庭石や水石とされる佐治石を産する。他にも星の公開文施設「さじアストロパーク」と民話・佐治谷昔話が有名で、これら五つの名物(わし、なし、いし、ほし、はなし)を総称して、佐治の「五し」という。

 

参照ウェブ

 

因州和紙、佐治村の紙漉きについて

現存する因州和紙の最も古いものは、奈良時代の正倉院文書「正集」の中に因幡国とあり、因幡の国印の押されたものが発見され、正倉院に保存されている。また、平安時代中期(927年)に完成した「延喜式」に因幡国は有力な産紙国であり、朝廷へ紙麻70斤が献上されたという記録があることから、因州和紙の起源は古く、およそ1250年の歴史がある。

 

現在、因州和紙(因幡紙)の紙郷は気高(けたか)郡青谷(あおや)町と八頭(やず)郡佐治(さじ)村の2か所であるが、佐治の和紙が史料に登場するのはずっと後の江戸時代初期のことである。しかし、史料にないからといって、漉いていないとは言えなく、因州和紙の始まりとともに、その歴史を重ねてきたものと思われる。

紙の生産には豊富できれいな水が必要である。この方の紙漉きは千代川とその支流で行なわれ、それに沿った用瀬町を中心に発展したものと思われる。江戸初期には、用瀬町家奥の杉原紙(原産は播磨(今の兵庫県))と河原町曳田(ひけた)区の鼻紙が因幡の名産とされている。さらに用瀬町家奥区では、松尾弥左衛門が元禄元年(1688)に越前から奉書の製法を学んだとか、さらに正徳5(1715)年、谷垣弥左衛門がやはり越前から技術を導入したといわれている。

 

では、用瀬町に近い佐治ではどうか。

用瀬町で分岐している千代川の支流、佐治川に沿ってしばらく行くと隣接している佐治村に入るが、その佐治谷では寛永18(1641)年に紙生産が始まり、杉原紙、半紙などが主に漉かれていたという。また佐治村加瀬木(かせぎ)では、享保11(1726)年、西尾半右衛門が播磨から皆田紙(かいたがみ)の技法を導入したとされている。

 

「因州筆切れず」因州佐治みつまた紙

さらに1700年後半には、各種の奉書紙と杉原紙とともに、小半紙、小杉紙、障子紙などが漉かれており、当時の因州紙は、佐治谷と日置谷、すなわち現在の佐治村と青谷町が中心とした生産であった。江戸時代の和紙原料はほとんどが楮であったが、三椏も用いられるようになった。鳥取における三椏の栽培は明年間(1781~88年)に始められ、保年間(1830~44年)に本格化したと伝えられるが、1886年には三椏の生産額は楮の約 3倍に達したといわれる。

佐治村では保年間から三椏の栽培を行なっているが、本格的な使用は明治以後で、大蔵省印刷局抄紙部が三椏を使って、印刷効果の美しい局紙などを開発し、その栽培を推奨、また鳥取県も三椏殖産を奨励したためである。そして大正期には大半の原料は三椏になったという。

 

注記

和紙名などの説明

  • 杉原紙…楮を原料とした和紙。平安時代から播磨の杉原谷で製し、中世に多く流通した。主として文書用であったが、版画にも用いられた
  • 半紙…和紙の一種。もと横幅1尺6寸(約48センチメートル)以上の大判の杉原紙を縦半分に切って用いたから称したが、のち、別に縦24~26センチメートル、横32.5~35センチメートルの大きさに製した紙の汎称。近世に最も多く流通した
  • 皆田紙…かいたがみ。兵庫県佐用郡上月町皆田を原産とする和紙
  • 奉書紙…もともと武家社会で公文書として用いられた楮紙の一種。高な文書用紙や版画用紙などに用いられる。皺がなく純白で、きめの美しい和紙。大きさで大・中・小の別がある。福井県(越前)今立町の産は有名
  • 小半紙…こばんし。半紙の小判の意で主として鼻紙、特に女性の懐中紙に用いられる
  • 小杉紙…杉原紙の小判(小杉原の略)で、主として鼻紙に用いられる

 

ところで、佐治村で生産される三椏(みつまた)紙は、書道用紙として名が通っている。この紙は色がよく、鮮明で紙肌が美しく、その平滑さのために筆のすべりがよく書きやすく、毛筆を傷めないので「筆切れず」と名づけられた。

すなわち「因州筆切れず」とは、佐治村に産する因州三椏紙の別名で、三椏100%の手紙などを書く巻紙(六五半切紙…六尺五分の大きさの巻紙)をいう。大正初期ごろからのいわれとされており、丁寧に漉かれていることもあり、書家からは高い評価を得ていると聞く。

なお、「因州筆切れず」というのは、「いくら書いても筆先が損傷することなく、筆の毛がちぎれないで筆が長く保つ」という意味と、「筆についたのかすれがなくてずっと長く書ける」という2通りがあるとされるが、この両方の意、すなわち「滑らかに書けて、筆が傷まない」との意味があると解釈した方がよさそうである。

その後も輸出用コピー用紙や障子紙などを漉いていたが、複写機の普及や家屋の洋風化などで大幅に減少し、行き詰まり、昭和30年代の前半から画仙紙に転換した。

 

もともと画仙紙とは、中国の書道用紙を日本で模倣して生産したものをいい、中国から輸入されるものを本画仙と呼び、日本で漉かれるものを和画仙ともいっている。昭和23(1948)年ころ、甲州(山梨県)画仙紙が生産され、次いで昭和30年代の初めに因州画仙紙(鳥取県佐治村と青谷町)が、さらに書道半紙(改良半紙)の愛媛県川之江市などと、わが国で中国風の書道用紙の生産が行なわれた。これら主要産はそれまでに三椏紙を漉いていたが、甲州画仙紙、愛媛県の書道半紙は三椏の古紙を多く使っているのに対して、因州画仙紙は新しい繊維のみを使っており、木材パルプと元で草とよぶ稲わらや麦わらを混ぜるのを特色としており、書家の求める色、にじみ、筆のすべり等により配合を変化させている。そして色がよくて、にじみが少なく書きやすいという特徴のある紙を供給している。

 

なお、現在、佐治村の主な生産品種は三椏紙、画仙紙、書道半紙などであるが、青谷町と合わせた鳥取県の因州画仙紙は、全国生産のおよそ60ないし70%を占め、わが国最大の産である。

この中で青谷町山根区の画仙紙は、特異な存在で楮を原料としており、楮画仙紙(楮30%に木材パルプ70%)として主に仮名用に生産されている。また同町河原区では、三椏半紙、わら半紙や漢字用画仙紙が造られている。

 

因州和紙は国の「伝統的工芸品」

ところで、因州和紙は国の「伝統的工芸品」に指定(1975(昭和50)年)されている。さらに翌年(昭和51年)には、ここで述べた佐治村の「因州佐治みつまた紙」は、青谷町の「因州青谷こうそ紙」とともに(保存団体はそれぞれ因州筆切れず紙保存会、因州楮紙保存会)は、鳥取県の「無形文化財」に指定されている。

 

参考資料・ウェブ

  • 「紙」及び「因州和紙」の起源考察 四、因州和紙の起源 房安 光、濱谷康郎共著(2002年3月)
  • 世界大百科事典(第2版 CD-ROM版)…日立デジタル平凡社発行
  • 和紙文化辞典 久米康生著…わがみ堂発行(1995年10月発行)
  • 季刊和紙 №5 特集 因州…全国手すき和紙連合会(1993年発行)
  • 和紙の手帖Ⅱ…全国手すき和紙連合会(1996年発行)
  • 広辞苑 第五版(CD-ROM版)…岩波書店発行
  • 紙の源流を訪ねて 高尾尚忠著…室町書房堂発行(1994年発行)
  • 紙について(4) 紙の歴史
  • 紙について(4)資料 表「紙の歴史」
  • 和紙の知識(2) 和紙の歴史

 

土佐和紙の吉井源太氏の指導受ける

先人の熱意と努力大

ところで、山陰は保守的で非進歩的なイメージが強いが、明治の時代に伝統ある和紙の世界で、和紙技法改良推進者の指導を受け、近代化を図った。その進取の気風は今でも引き継がれている。

鳥取県は明治20(1887)年、土佐(高知県)から製紙技術の指導者として吉井源太(当時61歳)を招き、原料の三椏栽培と製紙法の改良普及を図った。このときの指導内容は、鳥取県勧業月報号外「製紙巡回教師吉井源太講話筆記」(鳥取県農商課編纂、明治20年3月発行)に纏められている。和紙づくりの教科書になったという。

 

吉井源太…今の高知県伊野町、当時、土佐藩の御用紙漉を務める家に生まれる(1826~1908)。全国和紙業界中興の祖。数多くの製法と新しい和紙を発明し、また、全国を歩き技術の指導と改良紙の普及に努めた。

 

吉井源太は佐治村加瀬木の山中で野生の木糊を発見し、その精製法や使用法を指導したり、指導を受けた佐治村や青谷町など県内の和紙産では、土佐の和紙製紙法を導入したり、製紙伝習所を設置するなどして和紙を改良していく。そして明治29(1896)年以降、原料叩解の機械化(ビーター)や日乾燥から蒸気による熱乾燥方式などの導入により生産性の大巾向上を図り、和紙製造の近代化を歩むこととなる(鳥取県立図書館編「とっとりの歴史」から引用)。

当時、吉井源太から指導を受けた県内の紙漉きの人達にとって、まさに目おらウロコの落ちる思いであったろうし、しかも、よく受け入れたし、また、因州和紙振興に果たした行政の功績も大きく、先人の熱意と努力に頭が下がる思いがする。

 

参照ウェブ

 

温もりが伝わる和紙工房「かみんぐさじ」和紙生産伝習施設

佐治村の伝統的工芸品手漉き和紙、特産民芸紙の紙漉き体験ができる。なお、ここには全国で初めての手漉き和紙の自動化「省力化システム」(手漉き和紙省力化装置)が設置されている。昔ながらの紙漉きの手漉きと脱水の作業を、この「省力化システム」で自動的に行なえる。もちろん見学もでき、楽しみの1つである。

なお、「かみんぐさじ」の名前は、どういう意味でしょうか? ユニークで興味を引きますが、この和紙工房のネーミングは新聞広告で一般公募して決めたそうです。そして「かみんぐ」は、紙の「かみ」と英語の「カミング(coming)」を併せ持った名称という。

和紙工房「かみんぐさじ」概要
建立 平成7(1995)年11月
施設
  • 和紙手すき体験工房
  • 手漉き和紙の自動化「省力化システム」
  • 展示室
  • 会議室(多目的ホール)
  • お土産コーナー
  • お食事処「みつまた」など

所在

(TEL/FAX)

〒689-1316

鳥取県八頭郡佐治村大字福園146-4

(TEL 0858-89-1816、FAX 0858-88-0217)

交通手段
  • JR鳥取駅から「佐治行」バスにて約60分
  • JR因美線用瀬駅から「佐治行」バスにて約20分
    • (福園橋バス停下車、徒歩3分)
体験料 紙漉き体験 700円(要予約)
開館時間 午前9:00~午後4:30
休館日 毎週水曜日
お問い合せ先
  • 和紙工房「かみんぐさじ」(上掲)および
  • 佐治村役場経済課
    • 〒689-1313
    • 鳥取県八頭郡佐治村加瀬木2519-3
    • (TEL 0858-88-0211、FAX 0858-89-1552)
ホームページ 和紙工房「かみんぐさじ」

 

(2002年9月1日まとめ)

 


更新日時:(吉田印刷所)

公開日時:(吉田印刷所)